12 裕福な平民お嬢様は、真実を知ります。
前回のあらすじ
二本目の薬を手に入れられなかったブライアンが家に帰ってみると、母は快方に向かっていたが、父の熱は高かった。
父に飲ませる薬を買うため、足りない金を稼ぐためにブライアンは父の古着を身に着けて、教会で見た張り紙に書かれていた集合場所に向かった。
一晩で大銀貨を三枚も貰える仕事はやはり、クライネフ風邪で亡くなった人を街の外に運び出す仕事だった。
ブライアンはリックという男と組んで、必死で働いた。
やがて長い長い夜が明け、報酬の大銀貨三枚を握りしめて中央広場まで戻って来たブライアンは、早く家に帰らなければと思いながらもフェリシアに会いたくて、ふらふらとフェリシアの家の前まで行って、そこで力尽きて倒れてしまった。
今回は、フェリシアサイドのお話です。
最近、あまり眠れない。
父から外に出るなと言われているからフェリシアは、ここのところずっと屋敷に籠っているのだけれど、外に出ずとも街の重苦しい雰囲気が伝わって来るようになってきていた。
少しでも具合が悪い者は休みを取るようにと父が使用人たちに命じたこともあって、通いの者はもうほとんど来なくなってしまった。住み込みの者も少しでも咳が出たら自分の部屋にこもってしまうものだから、今も元気に働いているのはメイドのエイダと料理人のフレディ、それに年若いメイドが一人だけだ。
あとはみんな寝込んでいるか、寝込むまでではなくとも大事を取って人との接触をさけているのだ。
オズバーン百貨店でさえ薬を入荷できないのだから、具合の悪い者は安静にしているしかないのがもどかしい。兄が薬を求めてまた仕入れに出かけて行ったけれど、ここ数日は何も連絡がない。
いつもは賑やかな屋敷に静寂が広がっている。エイダは相変わらず明るさを振りまいているけれど、エイダ一人ではさすがに屋敷に満る静けさは打ち払えない。何か悪いものがゆっくりと近づいて来るようで、重苦しい雰囲気がフェリシアをなかなか眠らせてくれないのだった。
浅い眠りの淵を彷徨い、夜明けを待つ日々。今朝もフェリシアは、まだ薄暗い時間に目覚めて、だけどまだ起きるには早すぎるからベッドの中で何度も寝返りを打っていた。どれくらいそうしていただろうか、玄関の扉が何度も開け閉めされる音と、誰かが小声で話している声にフェリシアは気づいた。話している内容までは聞き取れないけれど、それでも何事かが起こったのだとわかる。
慌てて身を起こしたのは、このところずっと心を占めていた心配が現実になったのではないかと思ったからだ。例えば自宅で療養していた使用人の誰かがとうとう旅立ってしまったとか、それともこんな状況でも営業を続けている百貨店に毎日出勤している父が熱を出したとか、そういう心配だ。
羽毛が詰まった暖かな上掛けを跳ねのけて、ベッドの下に揃えて置いておいた室内履きに足を滑り込ませる。寝間着の上にガウンを羽織ってからフェリシアは、部屋を飛び出した。廊下を走り、階段の上から玄関ホールを見下ろす。
「どうかしたの?」
玄関の扉の前にいたのは、リーナという名前の去年の秋に入ったばかりのメイドだ。街から通って来ている使用人は、今は彼女一人だけだ。
「お嬢様、それが……」
出勤して来たばかりなのだろう、リーナは茶色いコートに赤い手袋と帽子という恰好だ。フェリシアに気づくと慌てて帽子を取り、手袋を外した。
「外に人が倒れていまして、エイダさんとフレディさんが今、見に行っています」
「人が? うちの者ではないの?」
「はい、私は見覚えのない人でした。みすぼらし……いえ、あまり身なりの良い方ではなかったので、行き倒れではないかと思います。お屋敷の前で死なれたら迷惑……いえ、放ってはおけないので、えっと……」
オズバーン家のメイドは、貴族の屋敷でも通用するような言葉使いや行儀作法を叩き込まれるが、リーナの教育はまだ行き届いていないらしい。勤め始めて半年も経っていないので仕方がないのかもしれないけれど、本音が漏れすぎである。
階段を降りながらフェリシアは、そのあまりに率直な物言いに怒ったり呆れたりするよりも、ちょっと可笑しくなってしまった。でも、いくら可笑しくても主の娘としては、ここは叱るべきだろうと口を開きかけて、だけどバンっと扉が開いた大きな音に出かかっていた叱責の言葉は瞬時に引っ込んでしまった。
「あ、お嬢様」
「エイダ、お前はまたそんな乱暴に扉を開けて」
「お嬢様、ブライアン様です!」
「え?」
フェリシアは一瞬、どうして彼の名前をエイダが出したのか理解できなかった。だけど、エイダのあとからフレディが抱えて入って来たその人を見て、心臓が止まりそうになった。
リーナが言うようにみすぼらしい格好をして、いつもは輝かんばかりに美しい金髪も随分と汚れているけれど、それでもフェリシアが見間違えるはずがない。
ブライアンだった、あんなにも会いたかったフェリシアの王子様だ。
「ブライアン様、どうして」
フェリシアが駆け寄ると、フレディが身をよじってブライアンを遠ざけた。エイダがさっと間に入り、フェリシアを押し戻す。
「エイダ?」
「クライネフ風邪かもしれません、とりあえず客間に運びますので」
うつってはいけないから近づくなと、エイダは言っているのだ。エイダの背後をフレディが無言で、ブライアンを抱えて通り過ぎて行く。
「すぐにジャクソン先生に来ていただきましょう。お嬢様は、お着換えが必要ですね」
「エイダ、お願い。少しでいいの、ブライアン様の様子を……」
「あらあら、お嬢様はそんな姿をブライアン様に見られてもいいのですか? お嬢様が様子を見ている間にブライアン様が目を覚まさない保証なんてございませんよ」
「エイダ……」
確かにフェリシアは、寝間着にガウンを羽織っただけの姿だ。平民のオズバーン家だからまだ許されるが、これがもし貴族の屋敷なら大問題である。
「明るい色がいいですね、オレンジ色のワンピースにいたしましょう。きっとブライアン様も似合っていると褒めてくださいますよ」
そうこうしている間にフレディがブライアンを客間に運び込み、バタンと扉を閉められてしまった。フェリシアはエイダにぐいぐいと背中を押されて結局、二階の自分の部屋で明るいオレンジ色のワンピースに着替えさせられた。
エイダに髪を整えてもらい、薄くお化粧もしてから紅茶を淹れてもらった。朝食は喉を通りそうにないからと断って、心配で居ても立っても居られないのをなんとか抑えて熱いミルクティーを飲んでいるうちに、オズバーン百貨店お抱え医師であるジャクソンが到着した。
「風邪ではありませんね、過労でしょう。つまり、疲れて眠っているだけですよ」
白いあご髭のせいで子供たちからヤギ先生と呼ばれている老医師の言葉にフェリシアは、ようやく息を吐けた気がした。朝早くにお呼びして申し訳ありませんでしたと頭をさげると、いつでも呼んでいただいてかまいませんよと答えて帰って行く。
「じゃあ、ファラー伯爵家のご子息なんだね?」
「はい、間違いありません。ブライアン・ファラー様です」
「どうしてファラー小伯爵が我が家の前で倒れていたんだろう」
「それは、わかりませんが……」
夜遅くまで仕事をしているために朝には滅法弱い父がジャクソン医師が帰ったあとでようやく起きて来て、エイダから事情を聞いている。フェリシアはお湯と何か拭くものを持って来てとリーナに頼んでから、ブライアンが寝かせられている客間に向かった。ブライアンがクライネフ風邪ではないとわかったから、今度は誰にも止められない。
「ブライアン様」
会いたくて会いたくてたまらなかったのに、まさかこんな形で会うことになるとは思わなかった。フェリシアは、ブライアンが眠っているベッドの傍らに椅子を持って来て座った。さっきはひどく青ざめて見えた顔色がかなりよくなっていた。規則正しい寝息が聞こえる、本当にただ寝ているだけのようだ。
「どうして……」
どうしてこんなに汚れているのか、どうしてこんな服を着ているのか。
フェリシアの憧れの王子様はいつだって貴族らしい美しい姿だったのに、今は顔も髪もひどく汚れていて、着ている物も何というか……リーナ的に言えばみすぼらしいそれだ。
それに、どうしてオズバーン家の前で倒れていたのかもわからない。
もしかしたらフェリシアに会いに来てくれたのだろうか、それとも何か用があったとか……こんな早朝に?
やはり、どう考えてみてもわからないのだった。
「お嬢様、お言いつけの品をお持ちしました」
リーナが洗面器に湯を張り、手ぬぐいと一緒に持って来た。フェリシアは手ぬぐいを湯で濡らして、ブライアンの顔を拭き始めた。
真っ白だった手ぬぐいがすぐに黒くなる。熱すぎない、ちょうどいい温度の湯で何度も手ぬぐいをすすいで顔を拭き、続けて髪も拭いていく。いくら拭いてもブライアンは目覚めない、余程深く眠っているのだろう。
湯が汚れてすっかり灰色になった頃、扉が開いて父とエイダが部屋に入って来た。
「お嬢様、そんなことは私がいたしますのに」
「いいのよ。それよりお湯をかえて来てもらえる? 新しい手ぬぐいも欲しいわ」
「はい、少々お待ちください」
洗面器を抱えてエイダが出て行ったあと、ひどく難しい顔をした父が残った。無遠慮なほどに眠っているブライアンを見て、うーんと唸る。
「お父様?」
フェリシアの父……バージル・オズバーンは愛娘に近づくと、後ろからその肩に手を置いた。
「フェリシアは、彼と親しくしていたそうだね」
「親しかった、のでしょうか。王立学園の図書館でよくお会いしましたけど」
ブライアンと自分がどういう関係なのかをフェリシアは、何と言えばいいのかわからなかった。友達と呼ぶのは、違う気がする。フェリシアはブライアンに恋焦がれているけれど、ブライアンがフェリシアのことをどう思っているのかわからず、つまりは恋人ではない。ということは、一緒に図書館の中庭で昼食を取る、知り合い程度の関係なのかもしれない。
「じゃあ、フェリシアは彼の家のことは何も知らない?」
「家、ですか? ファラー伯爵家ですよね」
「ファラー伯爵家は、少し前に没落してしまってね、タウンハウスも人手に渡っている。一家がどこにいるのかわからなくなっていたのだけれど、まだ王都にお住まいのようだね。ご子息が王立学園に通っているということは、爵位を手放していないのだろう」
「没落……?」
「ああ、商人の間では知れ渡っていることだよ」
「……」
父の言うことをフェリシアは、すぐには信じられなかった。図書館で会うブライアンはいつも制服姿だったし、一度だけ街で偶然会った時には仕立てのよさそうな服を着ていた。その整った容姿も相まって、どこからどう見ても貴族の子息だったのだけれど。
没落とは、どういうことだろう。いつだって彼は優しく笑っていて、フェリシアは彼がそんな苦労をしているなんて微塵も気づかなかった。
「さて、困ったな。彼がうちにいることを伯爵にお知らせしなければならないのだけれど、どこにお住まいかわからない。フェリシアは、知らないんだね?」
「……知りません」
「王立学園に問い合わせるにしても、今は確か閉鎖中だったな」
「……」
「彼が親しくしている友人とか、知らないかい?」
「知らないです」
図書館の中庭で色々な話をする中で、彼の一番の親友としてロンという名前なら何度も聞いた。だけど、知っているのは愛称であるだろうロンという呼び名だけで、どちらのご子息なのかは知らない。
思えばフェリシアは、ブライアンのことをほどんど知らなかった。他愛ない話ならたくさんしたのに、彼が自分と話をしてくれるのが嬉しくて、笑いかけられたら舞い上がってしまって、肝心なことは何も聞いていなかった。フェリシアが知っていることと言えば名前と、伯爵家の子息であること、あとはナッツクッキーが好きなことぐらいだ。
「仕方ない、彼が目覚めるのを待つしかなさそうだね」
フェリシアが背後に立っている父を見上げると、父は優しく笑ってフェリシアの肩をポンポンと軽く叩いた。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫、ファラー伯爵とは商談で何度かお会いしたことがあるけれど、私たちのような平民の商人にも気さくに接してくださるお方だったよ。ご子息のことをお知らせするのが遅れたとしても、理不尽にお怒りになられるような方ではないよ」
フェリシアが今、泣きそうな顔をしているのはそういうことではないのだけれど、平民が貴族の機嫌を損ねないよう細心の注意を払うのは当たり前で、父が言っていることは決して的外れではないのだ。
「私も今日は店には行かず、家にいることにするよ。書斎で仕事をしているから、彼が目覚めたら知らせてくれるかい」
「……はい」
もう一度、フェリシアの肩を軽くポンポンと叩いてから部屋を出ようとした父が扉を開けたから、屋敷の中が何か騒がしいことに気づいた。使用人たちが休むようになってから静かだったのが、以前のようにたくさんの人の声が聞こえる。
父も騒がしいことに気づいたのだろう、様子を伺っている。フェリシアも椅子から立って、外の廊下を覗いた。エルダが洗面器を抱えたままで走って来るのが見えた。
「旦那様ぁー、お嬢様ぁー」
「どうしたんだい、エルダ」
「奥様がお戻りになりました!」
「クロエが?」
フェリシアの母のクロエは、オズバーン商会の仕入れを担当している。跡取りである兄が国内の仕入れを担当して、母が国外の仕入れを担当していることからも、母がいかに腕利きの商人かがわかる。
その母が、二か月ぶりに仕入れの旅から帰って来たらしい。
「エルダ、お母様がお帰りになったのね」
「はい、お嬢様。奥様は、大型の荷馬車を何台も連ねてお帰りです」
「え?」
母が近隣諸国をまわっていくつもの商談を成立させて来るのはいつものことだが、仕入れた商品はあとから別便で届けられるので、母が帰って来る時には護衛に雇った者たちに前後を守られた一台の馬車で帰って来るのだけれど。
「さすがクロエだな」
父の声が楽しそうに弾んだ、そしてフェリシアに向かってにっこりと笑う。
「さあ、フェリシア。お母様を出迎えに行こう」
足取り軽く玄関に向かう父のあとをフェリシアは、慌てて追いかけた。さすがクロエだなという父の言葉の意味はわからなかったけれど、母の帰還でこれまで眠っていた屋敷が急に目覚めたような気がした。




