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10 見た目詐欺没落令息は、まだ走ります。


 母に薬を飲ませて、ほっと気が緩んだブライアンの背後でごほっと父が咳をした。父が咳をするのはいつものことなのに、嫌な予感でブライアンの心臓が凍る。

 案の定、父も熱を出していた。体が弱っているうえに、母と同じ部屋で毎晩休んでいる父にうつっていないはずがなかったのだ。


 もう一本、薬がいる。


 ロンから借りた金貨は、残り七枚。薬は金貨十五枚、八枚も足りない。

 次の一本をセザールが同じ金貨十五枚で売ってくれるかどうかはわからないけれど、その時は床に額をこすりつけてでも頼むしかないだろう。しかし、それだって金貨が十五枚あっての話だ。


「……父上、僕には兄上がいるんですよね?」


 その一言で父は、ブライアンが何を考えているかを悟ったらしい。そして、静かに首を横に振った。


「いないよ、ブライアン」


 嘘だとわかっている父の答えに、だけどブライアンは頷くことしかできなかった。これで、兄を頼るという線は消えた。あと、金を借りられるとしたら……。


「ちょっと出て来ます、父上は寝ていなくては駄目だよ」


 父を寝かせて、まだ苦しそうな息遣いの母にしっかりと毛布を掛け直してからブライアンは、外に出た。行先は目と鼻の先、ジョナスのところだ。

 マダムを失ったばかりのジョナスに金の話をするなんて、ひどいことだとわかっている。だけど今、ブライアンには両親の命が重くのしかかっているのだ。


「ああ、ブライアン。ちょうど話をしに行かなくてはと思っていたんだ」


 昨日の朝に会ったばかりのジョナスだが、別人かと思うほどにわずか一日でげっそりと痩せていた。それでも精一杯の笑顔を浮かべて、ブライアンも何度かマダムの手料理をご馳走になったことがある家族が食事をする部屋に通してくれた。


「カーラは子供たちの傍を離れられないから、お茶も出せないけど」

「そんな、気を使わないで」

「うん……」


 七人家族の食卓だけに大きなテーブルが置かれている。そのテーブルを挟んでブライアンは、ジョナスと向き合った。


「実はな、この家を売ろうと思っているんだ」

「え?」


 金を貸して欲しいと頼むつもりだったブライアンは、ジョナスの思いがけない言葉に一瞬、思考を停止させてしまった。家を売るというのは、ジョナス一家が暮らしているこの母屋のことだろうか。店と、そしてブライアン一家がタダ同然の家賃で貸してもらっているあの離れは……。


「俺が勤めている店のオーナーシェフにさ、前から支店をやらないかと誘われていたんだよ。シェフの両親が故郷で食堂をやっているんだけど、もう歳だからあとを継ぐ者を探しているんだ。一人息子であるシェフが継ぐべきなんだろうけど、せっかく王都で人気の店を閉めて田舎に引っ込む気にはなれないそうだ。だから俺にやってみないかって言われてて迷ってたんだけど、お袋も逝っちまったし、違う街で心機一転がんばるのもいいかなと思ってさ」

「……そうなんだ」

「今の店の支店扱いで援助してもらえるし、軌道に乗ったら独立してもいいと言ってもらえている。こんないい条件、他にはないだろうと思う。だから俺……」

「うん、わかった」


 わかりたくはなかったけれど、ジョナスの気持ちはわかる。いつか自分の店を持ちたいとジョナスが思っていたことを知っているだけに、わかり過ぎるほどわかってしまうのだ。


「いつ頃までに出たらいい?」

「まだ何も決まっていないから、そんなに急ぐ必要はないよ。春くらいかな」


 春……。

 両親が明日の朝まで生きられるかもわからないこの状況で、春のことなんて考えられない。母が仕事を失った、住むところもなくなる。わかっている、一大事だ。だけど、今はそれよりも薬なのだ。


「本当に悪いと思っている」

「そんな……ジョナスが謝る必要はないよ」

「でも、ブライアンの一家が困るってわかっていて俺は……」

「大丈夫、すぐには追い出さないだろう?何とかするよ」

「ごめん」


 それよりも薬、薬なのだ。収入がなくなるのも、住処がなくなるのも困るけれど、それだって命があってこそだ。ブライアンは、両親を助けたい。いや、助けなければならない、どうしても。


「ジョナス、悪いんだけどお金を……」

「ああ、わかっている」


 ジョナスは席を立って部屋を出て行ったけれど、すぐに戻って来た。そして、ブライアンの前に金貨を五枚積み上げた。


「ミレーヌおばさんの未払いの給料と退職金、あとは迷惑料。薬に大枚をはたいたから、うちにはもうあまり金がないんだ。引っ越しするのに足りないことは、わかっている。春までの生活費もいるだろうし。だけど、これで精一杯なんだ」


 本音を言えば、あと三枚欲しい。それで、ロンに借りた分とで十五枚だ。薬が買える、父が助かるかもしれない。

 だけど、もう三枚とは言えない。この五枚だって、ジョナスはかなり無理をしているのだろう。母の他にも退職金を払わなければならない針子はいるし、子供が四人もいるジョナス一家の生活費だって必要だ。家が売れればまとまった金が入るだろうが、だけど売りに出したからといってすぐに売れるとは限らないのだ。


「ありがとう、ジョナス」


 いつものブライアンなら、この金貨を受け取らなかったかもしれない。ジョナスの新しい店のために使ってと、言えたかもしれない。でも、今はどうしたって金が必要なのだった。

 五枚の金貨を握りしめて、ブライアンは立ち上がった。ジョナスに別れの挨拶をしながらも頭の中では、あと三枚、あと三枚という言葉ばかりが渦を巻く。

 あと金貨三枚、だけど金を借りられるあてはもうない。いや、あるにはある。あるけれど、その手だけは使いたくない。使いたくないのだけれど。


「……」


 フェリシアなら、金貨三枚くらい簡単に貸してくれそうな気がする。もしかしたら大商会の娘である彼女にとって、それくらいなら小遣いの範疇なのかもしれない。

 それでも、どうしたってブライアンの足は鈍る。

 ファラー伯爵家が本当は貧乏であることを彼女に隠す気はない。何かの切っ掛けさえあれば、洗いざらい白状するつもりでいる。

 それで彼女がブライアンから離れて行ったとしても、それは仕方のないことだと思う。だけど、そうはならない気がしている。

 フェリシアは、きっと、多分、もしかしたら……いや、絶対にブライアンを好いてくれていると思う。ブライアンが貴族だからではなく、ブライアンがブライアンだから好きになってくれたのだと、うぬぼれかもしれないけれどそう思うのだ。

 ……まあ、セザールの婚約者同様にフェリシアも、無駄に整っているブライアンの容姿に惹かれているだけなのかもしれないけれど。いや、ネリー嬢はブライアンを格好いいと言っただけであって、惹かれているわけではないのだったか。

 だけど、もしもフェリシアがブライアンの外見だけが好きなのだとしても、それに何の問題があるだろう?

 ロンに言わせれば絵本の中の王子みたいなこの容姿だって、ブライアンを構成する一部なのだ。最初は容姿に惹かれたのであったとしても、同じ時間を過ごすうちにブライアンの中身まで好きになってくれるなら、それで全然いいじゃないか。

 ゆっくりと時間をかけてお互いを知っていけばいい、本当にそう思っている。

 ブライアンは、重くて長い息を吐いた。

 フェリシアは、優しい。優しくて可愛くて、本当にいい娘なのだ。ブライアンが事情を説明して頼めば、きっと金貨三枚貸してくれる。


「……」


 父はここ数年、ずっと寝付いていた。体力が落ちているから、母よりも父の方が危ないかもしれない。ブライアンが家を出る時に父の熱はまだそれほど高くなかったけれど、もしかしたら坂を転がり落ちるように悪化するかもしれないのだ。

 急がなければならない、一刻も早く父に薬を飲ませたい。だけど、一度だけフェリシアを送って行ったことのあるオズバーンの屋敷へ向かう足取りは、どんどんと遅くなってしまって。


「父上……」


 中央広場に差し掛かったところで、とうとうブライアンは足を止めてしまった。クライネフ風邪の流行が激しくなったあたりから、いつもなら賑やかな売り声をあげている屋台が出なくなってしまった。行き交う人もまばらで閑散としている広場で、一人佇む。

 朝から走り回ったせいで体が重い、頭がズキズキと痛む。暖かいベッドの中に逃げ込みたい、何も考えずに眠ってしまいたい。情けなくて悲しくてどうしようもなくて、うつむいた顔をあげることが出来ない。

 フェリシアの家は、ここからなら数分の距離だ。金を貸して欲しいと言えば、彼女はどう思うのだろうか。

 だけど、どう思われようと行かなくてはならない。父の命は、何物にも代えられないのだから。


「坊ちゃん?」


 歯を食いしばって顔をあげ、ブライアンが足を踏み出そうとしたその時、背後から声をかけられた。ベッドの中よりも暖かいその声を耳が拾った途端に、条件反射のようにぶわっと涙が滲んでしまう。


「ブライアン坊ちゃん、こんなところでどうかされましたか」

「トム爺……」


 振り向くと、そこにはブライアンが大好きな笑顔があった。男がこんな街中で泣くものじゃない、そう思うけれど、もうどうしたって堪えきれない涙がボロボロと零れ落ちてしまう。


「ああ、泣かなくていい、泣かなくていいんです、坊ちゃん。このトムが、坊ちゃんの怖いものは全部退治してみせましょう」


 小さい頃、夜の暗闇が怖かったブライアンにトム爺がいつもかけてくれていた言葉が優しくブライアンを救い上げてくれる。トム爺の皺くちゃな手がブライアンの手を包んで、そのぬくもりにブライアンはまたもや甘えてしまった。











 子供の頃から何か困ったことがあると、ブライアンが頼るのは執事のクラークでも姉のように思っているメイドのファルマでもなく、トム爺だった。この下働きの老人は、いつだって小さなブライアンを魔法のように救ってくれたものだった。


「少し足りませんかな」


 教会に着いて手早く暖炉に火を入れたトム爺は、いつもの暖かい場所にブライアンを座らせてから小さな缶を持って来た。ミツバチの絵が描かれたラベルが貼られた黄色いそれは、はちみつ飴の缶だ。

 蓋を開けると、中に入っていたのは飴ではなくてコインだった。金貨が二枚と、大銀貨が五枚。あとは、銀貨が何枚か。

 二枚の金貨は多分、ファラー家からの退職金だろう。長年、一生懸命働いてくれたのに退職金をあまり多く出せないことを母が嘆いていたけれど、その少ない退職金さえトム爺は使わずにいたのだ。


 薬を買いたいのだけれど金貨三枚がどうしても足りないのだと言って子供のように泣いてしまったブライアンをトム爺は、この教会まで連れて来た。そして、そうするのが当たり前のようにはちみつ飴の缶をこうして出して来たのだ。


「やはり、足りませんな」


 そう言うとトム爺は、着ていた上着の内ポケットから革袋を出して、その中身をはちみつ飴の缶の上で逆さにした。数枚の銀貨と銅貨がジャラジャラと追加される。


「駄目だよ、トム爺。そんなことをしたら、トム爺が困るでしょう」


 この缶の中身は間違いなく、トム爺の全財産だ。銅貨の一枚も残さずに、全てなのだ。思わず立ち上がったブライアンにトム爺は、缶に蓋をしてからぐいぐいと押しつけた。


「なあに、ここにいれば寝床にも食事にも困りません。坊ちゃんのミルクに入れるはちみつはしばらく買えないかもしれませんが、それだけです」

「トム爺……」

「これでもまだ大銀貨三枚分ほど足りませんな、力足らずで申し訳ない」

「申し訳ないなんて言わないで、いくら感謝してもしきれないくらいなのに」

「坊ちゃんのためならこのトムは、どんな怪物とでも戦いましょうぞ。それに比べたら金貨を数枚用立てることなど、何てことありませんとも」


 トム爺のおどけた口調にブライアンは、ふふふと笑った。涙はもうすっかりと乾いてしまっている。


「それでは、ミルクを温めてきましょうかな。はちみつもまだありますから、甘くしましょう。酷い顔色ですよ、坊ちゃん。急いでいるのはわかっておりますが、せめてミルクだけでも飲んで行ってください」

「うん、ありがとう」


 そう言えば、朝から走り回っていて食事どころか、水の一杯も飲んでいなかった。トム爺のぬくもりに触れてブライアンは、自分が空腹なことに気づいた。

 はちみつをたっぷりと入れた甘いミルクとクルミ入りのパンを貰ったブライアンは、それだけで自分の中に活力が戻って来るのを感じた。

 ブライアンのポケットの中に残っていた小銭を足してもなお金貨十五枚には少し足りないけれど、残りはあとで必ず払うからと頭をさげて、セザールに薬を分けてもらおう。この王都の端にある教会からガードナー子爵邸まではかなりの距離があるが、辻馬車が運休しているからにはまた走るしかない。

 トム爺に別れを告げて教会の裏口から外に出たブライアンは、表に回って再度、教会に入った。急いではいるけれど、走り出す前に礼拝堂で祈りを捧げようと思ったのだ。

 神の像の前で跪き、両親の快癒(かいゆ)を願ってからすぐに立ち上がる。

 教会を出る時、入り口付近に貼ってあったその紙に気づいたのはただの偶然だったのだろうか。その壁にはよく色々なお知らせの紙が貼られているけれど、これまで気にしたことはなかったのに。

 夜間作業ができる人夫を募るという文字の横に、一晩の報酬が大銀貨三枚と書かれていた。集合場所と集合時間、あとは汚れてもいい服を着て来いという指示以外、仕事の内容などは何も明記されていないけれどブライアンには、その破格の報酬からもそれが何の仕事か見当がついた。

 クライネフ風邪で亡くなった人は、神父に祈りを捧げてもらうこともなく夜中に運びだされ、街の外に掘られた大穴に放り込まれて焼かれるらしい。騎士団がその仕事を担っていると聞いていたが、誇り高き騎士様たちがそんな汚れ仕事をするわけがない。騎士団は監督をしているだけで、実際に手足を動かしているのは、こうして集められた貧しい者たちなのだ。


「マダム……」


 あの優しかったマダムも昨夜のうちに運び出され、大穴の底で灰になったのだろう。眠れない夜に響く荷馬車の車輪の音が、ブライアンの耳に今もこびりついている。

 ブライアンは軽く頭を振ってから外に飛び出して、そのまま走り出した。走って走って走って、足がもつれて転びそうになったら少し休んで、そしてまた走った。冬であるにも関わらずブライアンが汗だくになりながら貴族街に入った頃にはとっぷりと日が暮れて、あたりには夜の帳が落ちていた。


「え、嘘、ブライアン様?」


 こちらは本当にたまたまの偶然だったのだろう、だけど運命の悪ふざけだとしか思えない。ブライアンがようやくガードナー邸に辿り着いた時、その玄関前に横付けされた馬車にセザールに手を取られた一人の少女が乗り込もうとしているところだったのだ。


「やだ、どうしてブライアン様がここに……もしかして、セザール様に会いに来られたのかしら。セザール様、ブライアン様とそんなにお親しかったのですか?」


 少女の声が嬉しそうに弾めば弾むほどに、セザールの顔が歪んでいく。誰かと問わなくてもわかる、少女はセザールの婚約者のネリー嬢なのだろう。確かに小柄で、ぱっちりとした大きな目が可愛らしい令嬢だ。ガードナー邸でセザールと夕食でも共にして、今はちょうど帰るところだったのだろうか。


「邪魔をして悪い、だけどセザール、話を……」

「お前、ふざけるなよ」


 つかつかと近づいて来たセザールのひどく低い声が耳元に小さく聞こえた。セザールがブライアンに紹介してくれるのを待っているのだろう、ニコニコと笑っている婚約者に聞こえないようにセザールの声はさらに低くなる。


「何しに来た」

「頼む、薬をもう一本譲ってくれ。金は少し足りないんだが、あとで必ず払うから」

「馬鹿か、お前。きっちりと金を揃えてから来い、話はそれからだ」

「頼む、セザール」

「しつこい、値上げするぞ」

「セザール……」


 あまりにタイミングが悪過ぎた。セザールが溺愛しているというネリー嬢と出くわさなければ、話くらいは聞いてもらえたかもしれないのに。


「帰れ」


 その一言を最後にセザールは、くるりとブライアンに背を向けた。送って行くよ、早く帰らないと叱られてしまうよなんて、ブライアンが聞いたこともない甘い声はセザールが愛しい婚約者に向けたものだ。馬車に乗るよう促されながらもネリー嬢は、紹介してもらえないのかとちらちらとブライアンに視線を送っている。

 駄目だ、このまま粘ってもセザールをさらに怒らせるだけだ。

 背中を向けて、もう二度と振り向いてくれないだろうセザールと、そのセザールの向こうのネリー嬢に頭をさげてからブライアンは踵を返した。必死で走った道を悄然(しょうぜん)と引き返す。


 あと、大銀貨三枚。


 教会で見た、あの張り紙。一晩で大銀貨三枚を手に入れるには、もうあれしかないのではないだろうか。

 家に残して来た両親の容態が気になる、急いで帰らなければならない。だけど、ブライアンの足はもう鉛のように重くて、なかなか走り出すことが出来なかった。


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