第一話 知らぬ場所
ねずみが木の板をかじるような、不愉快な音に目が覚めた。どうやら私はゴミ捨て場で寝ていたらしかった。鼻のひん曲がるような耐え難い悪臭が、私の下から漂っていた。酷く吐き気を催したので、私はここから立ち去ろうと思った。
ゴミ袋の上から立ち上がると、脳の中心を釘で刺されているような頭痛が私を襲った。思わずその場にうずくまる。首筋を脂汗がつたった。深呼吸をしても、空気が臭いため、全く体調は改善されなかった。むしろ、悪化したようにすら思える。震える手足で、半ば這うようにして、前へと進んだ。地面はコンクリートだったが、あちらこちらにひび割れがあり、とてもいい状態とは言えなかった。砕けた粒が肌に白い跡を残していく。
やっとのことで悪臭漂う空間から逃げ出す。だが、こちらも空気は淀んでいた。排気ガスのような匂いが、薄く鼻にやってくる。ポケットからライターと煙草を取り出した。
ふと何処かから、かすれた声が聞こえてきた。吐く息の量は多く、そのうえ抑揚も独特で、聞き取りづらかった。私はその声の主を探すために、視線を彷徨わせた。曇りがかった空により、月が遮られているため、視覚でも捉えることは困難だった。
ようやくのこと、私は崩れた瓦礫の空いたスペースに寝ている男を見つけた。見てわかる通り、この男は砂のついた服を着て、体の垢すら落とさず、髪も固まっているという、流れ者といった有様であった。歯もいくらか抜けているようで、先程の聞き取りづらさの要因の一つだろうと思った。
「何か。」
私は男へ向かって言った。半開きの淀んだ目をしていた男だったが、その言葉を聞いたとき、やや目を見開いた。感情はいまいち読み取れなかったが、ともかく私に敵対的ではなさそうだった。男は口を大きく動かした。
「缶詰持ってないか。最悪、缶だけでいい。」
そんなものは持ち歩かない、と私は答えた。男は息を吐くと、そっぽを向いた。なんなんだ、と私は言いたくなったが、もう男は寝息を立て始めたので、唾だけ吐いてその場をあとにした。
この路地はとても暗かった。太陽が出ているのか、月が出ているのか。空には雲が隙間なく敷き詰められていて、昼夜分からぬ、といった状態だった。そういえば、手に煙草を持ったままだったことを思い出し、私はそれを咥えた。やけに薬品臭い味がした。それを吐き出し、私は煙草のケースごと路地に放った。僅かな音も残さず、紙のケースはアスファルトの隙間に入り込んで見えなくなった。
私はここがどこなのか知らなかったので、ただ目的地もなく歩いた。いずれ、見知ったところか、大きな道に出くわすだろうと思っていた。ポケットに手を突っ込むと、そこには愛用のハンドガンがあった。友人からもらった、銀色の銃身が輝く、手にフィットするサイズのものだ。あのとき撃った四発が装填されていないのを見て、夢ではなかったと認識した。今私が歩いている場所が地獄だという予感が脳裏をよぎったが、罪人をここまで自由にする刑務所は見たことがなかったので、その考えは否定された。
スマートフォンの電源をつけてみたが、ここは圏外らしい。時刻も定まらず、昼と夜を行き来している。これでは使い物にならないと思い、またポケットへしまった。あふれる不満を解消したかったが、先程煙草を捨てたことを思い出し、更に不満を募らせた。
灰色の壁に貼られたポスターが、不意に目に止まった。栗色の髪を伸ばした女性が、柔らかく微笑んでいる。私は無意識のうちに、髪を整えていた。おそらく、彼女を思い出したのだろう。私は彼女と連絡が取れないことを悲しく思った。今、スマートフォンが使えていたなら、きっと彼女へメールを送っていただろう。私が現在いる地点の、写真付きで。
一瞬だけ、雲が破られた。月の光が差し込んだ。その冷たくも力強い光は、地上へと降り立った。私はその現象を見て、何が起こったのかいまいち理解できなかった。その光は私の方へと歩いてきた。私の心臓は早鐘をうっていた。理解できないのは怖いものだと、どこかで聞いた覚えがあった。その光は私を見て微笑んだように思えた。より、私は恐ろしくなった。




