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第二話 書物戸喫

 私の手は震えていた。記憶のどこを探ってみても、この光に類するものは見つからない。私の認識では、光とは可視光線だ。ただの電磁波で、意思など持たない。目の前で微笑んだ光についてなど、生まれてこの方一切耳にしたことが無い。薄暗い灰色の路地の中央に、淡い橙が佇んでいる。水の滴るような音が一歩ごとに鳴っている。

 私の足はすくみ、心拍数は増加していた。一度の呼吸により得られる酸素量は減少し、何度も横隔膜が上下している。脳内が恐怖に埋め尽くされ、一筋の涙が頬をつたう。月光が私に近づくたびに、空気の密度が下がっていく感覚に襲われる。指先が冷え、関節部が固まる。自らの意思通りに動かない手を、ポケットの中へと突っ込む。指先に金属の重量を感じれると、恐怖は多少和らいだ。ただ、形を持たぬものに銃撃という物理手段が通じるとは思えなかったが、それでも安心を覚えた。

 三秒を数え、銃を抜き、両手で構えた。光は臆することなく向かってくるように見える。空にはまだ雲しか見えず、ここ一体で光源となっているのはこの光だけだ。とても暑い。そう感じた。気温は高くないはずなのに、汗が滲んでくる。銃の持ち手が湿る。流れてくる埃と鉄の匂いに、まるで苦い檸檬を齧った時のように、私は顔を引き攣らせた。トリガーにかかった指は、もう動き始めていた。乾いた、それでいて、耳を傷ませる轟音が響き渡った。見えもしない相手に、一発の銃弾が飛んでいった。それは何の抵抗もなく光の中を進み、地面へと衝突した。跳ね上がり、まだ勢いを保持した弾が、暗闇へと消え去った。

 もう一発を射撃しようと、トリガーを引きかけたその次の瞬間、私は地面に倒されていた。一瞬のことで、反応ができなかった。膝から力が抜けてしまった、いや、抜かれてしまったかのようだった。上半身の体勢はそのまま、私は地面に落ちて行った。背中に一際強い衝撃が走り、肺から空気が抜ける。息を吸おうと口を開けるが、首を絞められたように気道が開かず、だんだんと思考がぼやけていく。必死でもがけばもがくほど、体内の酸素は不足し、昏睡が近づく。意識が失われる前、私の瞼の裏側に、満月が浮かび上がった。


 頭の痛みに悩まされながら、私は目を覚ました。周囲には真っ白な壁があり、空気は多少綺麗に思えた。秒針の時を刻む音が静かな室内に響き、ここにあるのは私の呼吸音とそれだけなのだと思った。私が気絶する前の出来事が夢だと思いたかったが、背中の痛みが現実を主張していた。銃はポケットの中にしまわれていた。しかし、銃弾は抜き取られていた。元々一つしか残っていなかったから、あまり問題には思わなかった。それよりも今気になっているのは、ここがどこなのかと言うことだ。

 私はどうやら簡素なソファの上で寝ているらしかった。ソファというのも烏滸がましいほど、この長椅子は硬く、そして冷たかった。こんなもので腰は休まるのだろうか、私はまだ見ぬ生活者を心配に思った。私が起きあがろうと体を横にずらした時、視界の端で白い何かが立ち上がった。それは白衣を纏った人間だった。いや、訂正しよう。噂程度に耳にしたことのある、ハポンという国の着物姿だった。その男は私の瞼が開いていることを確認すると、私が起き上がるのを手伝ってくれた。私が礼を言うと、彼は少し困ったような顔をした。

 私はここがどこか知りたかったので、ひとまず質問をする機会を作りたかった。しかし、それより先に彼は話し始めた。彼は私のソファの前にある椅子に浅く腰掛け、先ほどまで持っていたコーヒカップを背後のテーブルに置いた。

「良い一日かい、虫食い男。随分と手酷くやられたようだね。何回目だい?」

 やけに馴れ馴れしく話しかけてくるその男に私は強い不信感を抱きながら、質問の意図がわからないと返した。私は生まれてこの方あのような光と出会ったことはないし、そもそもここにくるのも初めてだと言うと、男は首を傾げて私に質問をした。まとめると、一体どこから来たのかという内容だ。「マラガからだ」と私は答えた。彼はそこを知らないようで、それ以上の深掘りはしなかった。

 彼は部屋の端から端まで広がる大きな本棚から、一冊の本を取り出してきた。表紙に書かれた文字は英語に見えたが、少しアルファベットの綴りが異なった。しかし、なんとなくの意味は推察できる。──本を喰らうもの。色のない表紙に、その言葉だけが太く置かれていた。「君は」彼はそう言い、何ページかめくった後に、イラスト付きのページを指し示した。それには言い表しようのない不気味な怪物の姿が描かれていた。これは何なのか、私に見せてどうしたいのか、彼に尋ねた。

「書物戸喫(しょもつへぐい)。その中の一体、【見物客と太陽】だよ。」

 彼は短く言い切った。私の中で、その言葉は長く残響し、再び頭痛を発生させた。また体温が上がる。この部屋には冷房が効いているはずなのに、汗が吹き出す。皮膚の下で血管が脈打ち、焼けるような太陽が私を照らしている。ポケットの中のスマートフォンに手を伸ばし、ロック画面の写真に心を移す。そこには私と共に映る、恋人のカリナが居た。太陽に照らされた海辺の砂浜で、パラソルの下、二人で撮ったものだった。それを見たおかげか、私の中から熱が引いていった。妙にどっと疲れ、私はソファへ深くもたれこんだ。ポケットにまたスマートフォンをしまい、男に向き直った。

「すみません、少し気分が悪くなったものですから。」

 私の謝罪に対し、彼は構わないと返した。書物戸喫に襲われた後なら、ままあることだと、そう言った。結局書物戸喫とは何なのか、私はそれを聞いてみた。とても重要そうなのはわかったし、何より、話したそうにしていたものだから。私の質問を聞くと、男は目を輝かせた。私はこれから始まるであろう講義の中から、使えそうな情報を釣り上げようと意気込んだ。

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