第9話 慣れない再会
駅の改札を出た瞬間、五条は自分でもわかるほど呼吸が浅くなっていることに気づいた。
前回と同じ駅、同じ時間帯、同じ道。
大通りの明かりも、一本脇へ入った住宅街の静けさも、二週間前に見たままのはずなのに、今日は妙に輪郭がはっきりして見える。知っている場所になったからこそ、余計な緊張が減るかと思っていたが、実際は逆だった。知らない場所へ向かうときの警戒心ではなく、知っている場所へ向かうからこその意識がある。
この先の白いビルの二階。
あのドアの向こうに、彼女がいる。
五条は歩幅を少しだけ落とした。
仕事帰りの人が数人、反対方向へ通り過ぎていく。コンビニの前では、前回と同じように学生らしい二人組が何かを笑い合っていた。街は何も変わっていない。変わっているのは、自分のほうだ。
前回は、ただ友人に勧められて来ただけだった。
身体が限界に近く、半ば勢いで予約を取った。ドアが開いた瞬間に未沙を思わせる面影に息を呑み、そのまま流されるように施術を受けた。終わってみれば身体は驚くほど軽くなり、名前を呼ぶ声が妙に耳に残った。
今回は違う。
また会うとわかったうえで来ている。
それが何を意味するのか、自分でもまだ整理できていないまま。
白い外壁のビルが見えてきた。
五条は一度だけ立ち止まり、スマートフォンで時間を確認する。予約の五分前。早すぎず遅すぎず、ちょうどいい。前回とほとんど同じだ。なのに、胸の奥のざわめきは前より大きい。
「……落ち着け」
小さく呟いてから、ビルの中へ入る。
階段を上る足音が、静かな廊下に控えめに響いた。二階の突き当たり近く、見慣れ始めた小さなプレートの前で足を止める。ドアの向こうから、かすかにアロマの香りが漏れていた。
前回と同じ匂いだ。
甘すぎず、清潔で、やわらかい。
その香りを吸い込んだ瞬間、身体のどこかが少しだけ緩む。
同時に、胸の奥はまた別の意味で落ち着かなくなる。
五条は短く息を吐き、インターホンを押した。
電子音。
少しして、室内の気配が近づいてくる。
カチャリ、と控えめな音を立ててドアが開いた。
「いらっしゃいませ。五条さん」
前回と同じ声。
けれど、前回よりも少しだけ自然に、その名前が耳へ入ってきた。
リオンはやわらかく微笑んでいた。
髪は前回より少しだけ後ろでまとめられていて、首筋がきれいに見える。服装はシンプルな淡い色のワンピースで、派手さはないのに、室内の静かな雰囲気によく馴染んでいた。
似ている、と思う感覚は、たしかにまだある。
けれど前回のような衝撃ではなかった。代わりに、彼女を見た瞬間に胸の奥が静かに波立つ、別の感覚がある。
「こんばんは」
五条はそう返した。
自分の声が少しだけ硬いのがわかる。
「お待ちしておりました。お仕事帰りですよね」
「はい。少しだけバタバタしてましたけど」
「間に合ってよかったです。どうぞ、中へ」
その言い方が自然で、五条は少しだけ肩の力を抜いた。
靴を脱いで中へ入る。室内の温度、照明、香り、すべてが前回と同じはずなのに、今日は前よりも細かく目に入る。ソファの横の小さな観葉植物、テーブルの上の花瓶、壁際の棚に置かれたアロマオイルの瓶。前回は緊張で見えていなかったものが、今日は少しずつ輪郭を持っている。
「前回のあと、お身体いかがでしたか?」
ソファへ案内されながら問われ、五条は正直に答えた。
「かなり楽でした」
「よかったです」
「次の日、久しぶりにちゃんと寝た感じがして」
「本当ですか」
「はい。自分でも驚きました」
「それは嬉しいです」
彼女の表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
営業用の笑顔ではなく、もう少し素の温度に近い気がした。その変化に気づいた瞬間、五条の胸の奥がまた小さく揺れる。
「ただ、やっぱり二週間もすると戻りますね」
「そうですね。お仕事の負担が大きいと、どうしても」
「今回は前回よりひどいかもしれません」
「見た感じ、たしかに少しお疲れそうです」
さらりと言われて、五条は苦笑した。
「そんなにわかりますか」
「少しだけ」
「前回も同じこと言われた気がします」
「たぶん、同じこと思いました」
その返し方が少し可笑しくて、五条は思わず笑った。
前回より、会話のテンポが自然だ。まだ緊張はしている。けれど、何を話せばいいかわからないほどではない。
「今日は前回より、首と肩がつらい感じですか?」
彼女はカウンセリングシートを確認しながら尋ねる。
「それとも、背中や目のお疲れも強いですか?」
「全部ですね」
「全部」
「前回楽になったぶん、戻ったときの差がわかりやすくて」
「それはあります」
「前はこれが普通だと思ってたんですけど」
「一度楽な状態を知ると、違いがわかりますよね」
「はい」
まさにその通りだった。
彼女は頷きながら、前回の記録に何かを書き足している。仕事として当然の動作なのに、その丁寧さが妙に目につく。ペンを持つ指先、紙へ視線を落とす横顔、質問を投げるタイミング。どれも落ち着いていて、無駄がない。
「今日は少し頭まわりも長めに触れたほうがよさそうですね」
「頭、そんなにひどいですか」
「目のお疲れが強い方は、だいたい頭皮も硬いので」
「また全部見抜かれてる感じがします」
「見抜くというより、予想です」
「でも当たってる」
「たまたまかもしれません」
「たぶん違いますよ」
そう言うと、彼女は少しだけ笑った。
その笑い方を見て、五条はふと気づく。
前回より、未沙を思い出す回数が少ない。
まったく思い出さないわけではない。
似ていると感じる瞬間はまだあるし、最初にドアが開いたときの衝撃が完全に消えたわけでもない。けれど、会話をしているあいだ、五条の意識は前回よりずっと「目の前の彼女」に向いていた。
リオンは未沙ではない。
その当たり前の事実が、今日は前回より自然に胸へ落ちてくる。
「では、前回と同じように進めていきますね」
彼女は立ち上がった。
「もし途中で気になることがあれば、何でもおっしゃってください」
「はい」
更衣スペースへ向かいながら、五条は自分の心が少しだけ落ち着いていることに気づいた。
もちろん、緊張が消えたわけではない。むしろ別の意味で意識している部分はある。けれど、前回のような混乱ではない。似ていることに振り回されるだけではなく、彼女自身を見ようとしている自分がいる。
着替えを終え、ベルを鳴らす。
カーテンの向こうから、前回と同じ落ち着いた声が返ってきた。
「失礼します。ご準備ありがとうございます」
その声を聞いた瞬間、五条はまた少しだけ呼吸を整えた。
慣れたわけではない。
たぶん、まだ全然慣れていない。
けれど、前回のように足元をすくわれる感じでもない。
施術ベッドへ横たわると、シーツの温かさが背中に伝わる。
視界が狭まり、音と気配だけが近くなる。前回と同じ流れのはずなのに、今日は最初から少し違っていた。彼女の手が背中へ置かれる前から、五条はその温度を待っている自分に気づいてしまったからだ。
「では、始めますね」
静かな声とともに、背中へそっと手が置かれる。
その瞬間、五条は思った。
やはり自分は、まだこの再会に慣れていない。
けれど慣れないままでも、もう一度ここへ来てよかったのかもしれない、と。




