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第10話 少しだけ近い距離

「では、始めますね」


 背中にそっと置かれた手の温度は、前回と同じはずなのに、今日は最初から身体へ馴染むのが早かった。


 五条はうつ伏せのまま、顔を伏せるためのクッションへ頬を預けた。視界は狭く、見えるのは床の一部だけだ。けれど前回のような、何をされるかわからない緊張は薄い。代わりにあるのは、これから少しずつ身体がほどけていくことへの予感と、その手の持ち主を意識してしまう落ち着かなさだった。


「今日は前回より、肩の上がり方が強いですね」


 背中を確かめるように手を滑らせながら、リオンが言う。


「やっぱり」

「はい。首もかなり詰まっています」

「自覚あります」

「ですよね」


 その短いやり取りだけで、少しだけ空気がやわらぐ。

 前回は、彼女の声を聞くたびに未沙の面影が胸の奥で揺れた。今日は違う。似ていると感じる瞬間はあるのに、それより先に「リオンの声だ」と認識している自分がいる。


 オイルが背中へ落ちる。

 ひやりとした感触は一瞬で、すぐに彼女の手の温度と混ざり合い、なめらかな熱へ変わっていく。肩から背中、背中から腰へ。一定の圧でゆっくり流されるたび、固まっていた筋肉が少しずつほどけていく。


「強さ、大丈夫ですか?」

「ちょうどいいです」

「前回より少し深めに入っています」

「そうなんですね」

「今日はそのほうがよさそうなので」


 仕事の説明のように淡々としているのに、冷たくはない。

 必要なことだけを、必要な温度で伝える。その話し方が、五条には心地よかった。


 肩甲骨の内側へ指が入る。

 そこを押し流された瞬間、五条は思わず低く息を漏らした。


「そこ、きますね」

「かなりきます」

「我慢できない痛さではないですか?」

「大丈夫です。効いてる感じです」

「よかったです」


 彼女の手は、前回より少しだけ迷いがないように感じた。

 もちろん、前回も丁寧だった。けれど今日は、五条の身体の癖をある程度覚えているからか、触れる場所も圧の入れ方も、最初から的確だった。自分の身体を覚えられている、という感覚は不思議だった。仕事では、相手に自分の癖や弱点を読まれることを警戒するのに、今はそれが少しだけ安心につながっている。


「右肩、やっぱり強いですね」

「前回も言われました」

「同じところに負担が溜まりやすいんだと思います」

「直せますかね」

「すぐには難しいですけど、少しずつは変えられます」

「少しずつ」

「はい。姿勢とか、呼吸とか、休み方とか」


 休み方。

 その言葉に、五条は小さく苦笑した。


「それが一番難しい気がします」

「皆さんそうおっしゃいます」

「前も聞いた気がする」

「たぶん、前も同じことを思いました」


 また同じ返しだ。

 なのに、前回より少しだけ近い感じがする。親しさというほどではない。けれど、初対面の壁が一枚薄くなったような距離感だった。


 彼女の手が肩から腕へ移る。

 肘の上、前腕、手首の近くまで丁寧に流されると、指先までじんわりと血が通う感覚がある。


「手もかなり使っていますね」

「仕事でずっとキーボード打ってるので」

「スマホも」

「……はい」

「やっぱり」

「そこまで読まれると、ちょっと悔しいですね」

「悔しいんですか」

「なんとなく」

「でも、当たってますよね」

「当たってます」


 彼女が小さく笑う気配がした。

 その笑い声を聞くだけで、五条の胸の奥が少しだけやわらぐ。


 前回は、触れられるたびに心まで無防備になるのが怖かった。

 今日は、その怖さが少し薄れている。代わりに、彼女の手の動きや声の調子を、前より落ち着いて受け止められている気がした。


「前回のあと、少し眠れたとおっしゃってましたよね」

 首筋へ手を移しながら、リオンが言う。

「その後はどうでしたか?」

「最初の二、三日はかなりよかったです」

「よかったです」

「でも、また仕事が立て込んでくると戻りますね」

「そうですよね」

「ただ、前よりは“戻った”ってわかるようになりました」

「それは大きいと思います」

「大きいですか」

「はい。ずっとつらい状態が普通になると、整えるタイミングもわからなくなるので」


 その言葉に、五条は静かに頷いた。

 たしかにそうだった。前は、肩が重いのも首が詰まるのも、眠りが浅いのも、全部「仕方ない」で片づけていた。けれど一度楽な状態を知ると、それが当たり前ではないとわかる。すると、自分の不調を見ないふりし続けるのが少し難しくなる。


「少し、首いきますね」

「はい」


 首の付け根へ指が入る。

 そこをゆっくり押されると、頭の奥まで鈍い痛みが走った。


「……そこ、すごいですね」

「かなり固いです」

「自分でもわかります」

「今日は前回より、左も張っています」

「左?」

「はい。無意識に噛みしめたりしていませんか?」

「……してるかもしれません」

「考えごとが多いと、出やすいです」


 考えごと。

 その言葉に、五条は少しだけ目を閉じた。


 仕事のことはもちろんある。

 けれど、それだけではない。ここへ来る前から、いや、予約を取ったときから、頭のどこかでずっと彼女のことを考えていた。未沙に似ていること。似ているのに違うこと。前回より落ち着いている自分。落ち着いているのに、前より意識している自分。


 そういう整理のつかないものが、知らないうちに身体へ出ているのかもしれない。


「少し呼吸、深くしてみてください」


 静かな声に促され、五条はゆっくり息を吸った。

 鼻から吸って、口から吐く。

 そのタイミングに合わせるように、彼女の手が首筋を流れていく。


「そうです。そのままで」

「……はい」


 呼吸を合わせるだけで、触れられている感覚が少し変わる。

 痛みが和らぐわけではない。けれど、身体の奥へ入ってくる感じが増す。自分の身体なのに、自分ひとりでは届かない場所があるのだと、こういうときに思い知らされる。


「五条さん」

 不意に、彼女が名前を呼んだ。


 たったそれだけで、五条の意識が一気にそこへ向く。


「はい」

「少し力が入っています」

「……すみません」

「謝らなくて大丈夫です」

 彼女の声は穏やかだった。

「今日は前回より、最初は落ち着いていたんですけど、首に入ったあたりから少し戻りました」

「そんなにわかりますか」

「わかります」

「……」

「緊張されました?」

「少し」

「首は無防備になりますもんね」

「それもあります」


 それだけじゃない。

 そう言いかけて、五条は飲み込んだ。


 名前を呼ばれるたび、少しだけ胸がざわつくこと。

 前回より慣れたはずなのに、近くで声を聞くと余計に意識してしまうこと。

 そういうことを、いまここで言うわけにはいかない。


「大丈夫ですよ」

 彼女は静かに続けた。

「無理に抜こうとしなくていいので、呼吸だけ意識してください」


 その言い方が、妙にやさしかった。

 頑張らなくていい、と言われるより、ずっと楽だった。頑張らなくていいと言われると、逆に頑張れない自分を意識してしまうことがある。けれど、呼吸だけ意識してください、という具体的で小さな指示は、五条にとって受け取りやすかった。


 彼女の手が、耳の下から首筋へ、肩へと流れていく。

 そのたびに、身体の奥に溜まっていたものが少しずつほどける。前回よりも、彼女の手の動きに身を任せられている気がした。


「今日は、お仕事かなり大変でしたか?」

 何気ない調子で問われる。

「少しバタバタしてました」

「来る前も」

「はい。直前まで」

「それでも来てくださったんですね」

「……来たかったので」


 言ってから、自分で少し驚いた。

 身体のために、ではなく、来たかったので。

 その言葉が、思ったより自然に口から出た。


 彼女の手が一瞬だけ止まる。

 けれどすぐに、何事もなかったように肩を流す動きへ戻った。


「ありがとうございます」

 彼女は静かに言った。

「そう言っていただけると、嬉しいです」


 その返事は、接客として正しいものだった。

 たぶん、そうなのだろう。

 けれど、ほんの少しだけ声の温度が変わった気がして、五条の胸の奥がまた小さく揺れた。


 少しだけ近い距離。

 それは物理的なものではなく、たぶん会話の温度のことだった。


 前回より、彼女は五条の身体を知っている。

 五条もまた、彼女の声や間の取り方を少し知っている。

 その積み重ねが、まだ名前のつかない小さな距離の変化を生んでいた。


 うつ伏せのまま、五条は目を閉じる。

 未沙に似ている、という最初の衝撃は、もう中心ではなかった。

 いま胸の奥を静かに揺らしているのは、目の前の彼女が「リオン」というひとりの人間として、少しずつ自分の中に輪郭を持ち始めていることだった。


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