第11話 聞かないやさしさ
「……来たかったので」
口にした瞬間、五条は自分で自分の言葉に少し遅れて驚いた。
来る必要があった、ではない。
身体のために来た、でもない。
来たかったので。
それは事実だったのかもしれない。けれど、こんなに素直な形で口から出るとは思っていなかった。仕事では、言葉はもっと整理してから使うものだ。誤解のないように、余計な含みを持たせないように、必要な情報だけを選んで並べる。なのに今の一言は、そういう手順を飛ばして先に出てしまった。
リオンの手が一瞬だけ止まり、すぐにまた肩を流す動きへ戻る。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」
返ってきた声は穏やかで、接客として自然だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、五条は少しだけ救われた。もしここで意味ありげな間が落ちていたら、たぶん自分のほうが持て余していた。
彼女は聞かない。
なぜ来たかったのかも、何を期待しているのかも、そこへ踏み込んではこない。
そのことが、ありがたかった。
首筋を流れる手の温度に意識を戻しながら、五条はゆっくり息を吐いた。
聞かれたら困ることは、たぶんたくさんある。未沙に似ていると思ったこと。最初はそのせいで動揺したこと。けれど今は、それだけではなくなっていること。そういう整理のつかないものを、いま言葉にしろと言われても無理だった。
彼女はそれを求めない。
ただ、身体に出ているものだけを見て、必要なだけ触れて、必要なだけ言葉を置く。
聞かないやさしさ、というものがあるのかもしれないと、五条は思った。
「少し、肩の前側も触りますね」
声とともに、肩の付け根から鎖骨に近いあたりへ手が移る。
そこは背中や首よりも、さらに無防備な感じがした。タオル越しとはいえ、身体の前側へ意識が向くと、どうしても呼吸が浅くなる。
「……ここも固いですか」
「固いです」
「全部ですね」
「かなり」
「救いがないな」
「でも、前回より反応はいいです」
「反応」
「ほぐれやすさです。一度緩んだところは、少し戻りやすいので」
「それはいいことですか」
「いいことです」
言い切る声に迷いがない。
その確かさが、妙に心地よかった。
仕事では、断言することには責任が伴う。だからこそ、五条は自分でも慎重に言葉を選ぶ。けれど彼女の断言は、押しつけではなく、経験からくる静かな確信のように聞こえる。
「前回より、呼吸も入りやすいです」
彼女が続ける。
「最初から少し深く入っています」
「そうですか」
「はい。前回はもっと肩で息をしている感じでした」
「そんなに違うんですね」
「違います」
五条は目を閉じたまま、小さく頷いた。
自分ではわからない変化を、こうして他人の手が先に見つけるのは不思議だった。けれど、前回より少し眠れたことや、仕事中の頭の重さが違ったことを思い出すと、その言葉にも納得がいく。
「少し、腕を上げますね」
「はい」
彼女の手に導かれて腕の位置が変わる。
肩の可動域を確かめるようにゆっくり動かされると、普段どれだけ同じ姿勢で固まっているのかがよくわかった。自分では普通に動いているつもりでも、実際にはかなり狭くなっているらしい。
「ここ、つらいですね」
「……はい」
「無理はしないので、痛かったらすぐ言ってください」
「大丈夫です」
「我慢強いですね」
「そうでもないです」
「そういう方ほど、そうおっしゃいます」
少しだけ笑いを含んだ声。
五条もつられて口元を緩めた。
彼女との会話は、どこか不思議だった。
深い話をしているわけではない。名前や仕事や体調のこと、眠りのこと、そういう表面的なやり取りがほとんどだ。なのに、その表面のやり取りのなかで、自分の内側の何かが少しずつほどけていく感じがある。
たぶんそれは、彼女が無理に聞かないからだ。
聞かれないからこそ、自分の中で勝手に言葉が育つ。
もし「どうして眠れないんですか」とか「何か悩みがあるんですか」とか、そういうふうに踏み込まれていたら、五条はたぶんすぐに壁を作っていた。
「五条さん」
また名前を呼ばれる。
それだけで、意識が自然と彼女へ向く。
「はい」
「少し、手先が冷えています」
「冷えてますか」
「はい。お仕事中、ずっと気が張っている方は、末端まで力が抜けにくいことがあるので」
「気が張ってる、ですか」
「たぶん、休んでいても完全には休めていない感じです」
図星だった。
家にいても、頭のどこかは仕事のままだ。メールの通知が来れば反応するし、来なくても気になる。休んでいるつもりでも、完全に切れている時間はほとんどない。
「……そうかもしれません」
「でも、今日は前回より少し違います」
「何がですか」
「最初より、ちゃんと力が抜けてきています」
その言葉に、五条はわずかに息を止めた。
ちゃんと力が抜けてきている。
それは身体の話だ。たぶん、それだけの意味だ。
けれど、身体だけではない気もしてしまう。
彼女の前では、前回より少しだけ自然に呼吸ができている。
未沙に似ているという最初の衝撃に振り回されるだけではなく、目の前の彼女をそのまま受け止めようとしている。
それが身体にも出ているのだとしたら、少しだけ可笑しくて、少しだけ救われる気がした。
「よかったです」
五条がそう言うと、彼女は小さく「はい」と返した。
それ以上、何も足さない。
その簡潔さが、やはり心地いい。
施術はそのまま、背中から腕、首、頭へと移っていく。
こめかみの近くをやわらかく押されると、頭の奥に溜まっていた鈍い重さがじわりと広がった。目の疲れが強いとき特有の、痛みとも心地よさともつかない感覚だ。
「ここも、やっぱりお疲れですね」
「……自覚あります」
「今日は考えごとも多かったですか?」
「多かったと思います」
「お仕事で?」
「それもあります」
「それも、ということは、他にも」
「……まあ」
そこまで言って、五条は少しだけ後悔した。
余計な含みを持たせた気がしたからだ。けれど彼女は、やはりそれ以上は聞かなかった。
「そういう日、ありますよね」
ただ、それだけを静かに置く。
五条は目を閉じたまま、その言葉を胸の中で反芻した。
そういう日、ありますよね。
肯定でも否定でもなく、詮索でもない。ただ、そういうものとして受け止める言い方。
未沙は、もっと「どうしたの」と聞く人だった。
それはそれでやさしさだったし、嫌だったわけではない。けれど今の五条には、この聞かないやさしさのほうが、ずっとありがたかった。
「……ありますね」
少し遅れてそう返すと、彼女の手がこめかみから耳の後ろへ流れていく。
その動きは静かで、迷いがない。
「今日は、終わったあと少しぼんやりするかもしれません」
「前回も、そんな感じでした」
「水分を取って、できれば早めに休んでください」
「努力します」
「努力しなくていいです」
「前も言われましたね」
「たぶん、また言います」
「信用ないな」
「少しだけ」
そのやり取りに、二人とも少しだけ笑う。
笑ったあとに落ちる沈黙が、前回より自然だった。
聞かない。
踏み込まない。
でも、ちゃんと見ている。
その距離感が、五条にはちょうどよかった。
近すぎれば苦しいし、遠すぎれば何も残らない。彼女はその中間の、ぎりぎり心地いい場所に立っている。
施術の終わりが近づくころには、身体の重さはかなり薄れていた。
肩の奥にあった鈍い塊がほどけ、首の詰まりも少し楽になっている。けれど、それ以上に変わっていたのは、胸の奥のざわめきの質だった。
未沙に似ているから気になる、という単純な話では、もうなくなっている。
かといって、何かはっきりした名前をつけられるほどでもない。
ただひとつ確かなのは、彼女の「聞かないやさしさ」に、自分が少しずつ救われているということだった。




