第12話 呼べなかった名前
ドアが閉まったあともしばらく、リオンはその場を動けなかった。
玄関の向こうへ消えていった足音は、もう聞こえない。
それでも耳の奥には、さっきまでそこにいた気配が残っている。靴を履くときのわずかな沈黙。最後に交わした短いやり取り。ドアノブに手をかける前、ほんの一瞬だけ落ちた呼吸の間。
五条が帰ったあとの部屋は、いつもより静かだった。
「……はあ」
ようやく息を吐く。
それが思っていたより深くて、リオンは自分がずっと呼吸を浅くしていたことに気づいた。
ワゴンの上のグラスを片づけ、使ったタオルをまとめる。いつもと同じ手順のはずなのに、指先が少しだけ落ち着かない。施術が終わったあとは、身体よりも神経のほうが疲れることがある。けれど今日は、そういう種類の疲れではなかった。
また来てくれた。
その事実が、胸の奥で静かに重い。
来てしまった、ではない。
来てくれた、だ。
それを認めるだけで、少し苦しかった。
リオンはタオルを抱えたまま、施術室のベッドへ目を向ける。
さっきまで五条が横たわっていた場所。うつ伏せになった背中の線、首筋のかたさ、呼吸が浅くなる瞬間、名前を呼ぶとわずかに意識がこちらへ向く感じ。二週間前より落ち着いていたのに、首へ触れたあたりからまた少し力が戻っていたことまで、手が覚えている。
「来たかったので」
あの一言を思い出して、リオンは目を閉じた。
あんなふうに言われるとは思っていなかった。
身体のために、でもなく、仕事帰りに都合がよかったから、でもなく、来たかったので。
たぶん本人は、言ってから少し驚いていた。声の落ち方でわかった。考えるより先に本音が出ることは少ないくせに、たまに不意打ちみたいに零れる。そのあとで、自分の言葉にいちばん戸惑うところも、あの頃と変わらない。
そこまで考えて、リオンは小さく息を止めた。
あの頃。
そんな言い方をした時点で、もうだめだった。
洗面所へタオルを置きに行き、鏡の前で立ち止まる。
鏡の中には、いつものリオンがいた。
髪をきちんとまとめ、口元にやわらかな線を置いた、施術者の顔。
感情を見せすぎず、相手を緊張させず、安心させるために整えてきた顔だった。
けれど、その目だけが違った。
五条を見送ったあとの目だった。
もっと昔、帰りの遅い五条を待ちながら、何度も時計を見ていた夜の目にも似ていた。
リオンは鏡の中の自分を見つめたまま、動けなくなる。
違う、と思う。
いまここにいるのはリオンだ。
五条の前に立つのも、五条に触れるのも、五条を見送るのも、いまの自分でなければならない。
なのに、鏡の奥で先に揺れたのは、もう長いこと呼ばれていない名前、未沙のほうだった。
未沙は思わず視線を逸らした。
「……何やってるんだろ」
小さく呟く。
答えは出ない。
最初に予約名を見たとき、同姓同名かもしれないと思った。
珍しい名字ではないし、名前まで一致する偶然だって、ないとは言い切れない。けれど、予約時間が近づくにつれて落ち着かなくなった。もし本当にあの人だったらどうしよう、と考えた。いや、どうしようもない、と思った。仕事中だ。たとえそうでも、普通に対応するしかない。
予約画面に表示されていたのは、五条輝という文字だった。
インターホンが鳴って、ドアへ向かった。
開けた瞬間、息が止まった。
五条だった。
少し痩せた気がした。
昔より目の下に疲れがあって、肩の位置がわずかに上がっていて、スーツの着こなしはきちんとしているのに、身体のどこかに余裕のなさが滲んでいた。けれど、目だけはすぐにわかった。まっすぐ見ようとして、でも見すぎないように少しだけ力を入れる、あの目だ。
向こうは気づかなかった。
いや、正確には、気づけなかったのだと思う。
あの日、未沙は自分から名乗れなかった。
仕事中だったから。
突然すぎたから。
五条があまりにも疲れて見えたから。
いまここで「久しぶり」と言ったら、たぶん彼は休みに来たはずの場所で、休めなくなると思ったから。
理由はいくつもある。
どれも嘘ではない。
でも、本当はもっと単純だったのかもしれない。
怖かったのだ。
五条がどんな顔をするのか。
驚くのか、困るのか、それとも何も感じないのか。
もう終わった相手として、礼儀正しく距離を取られるかもしれない。その可能性を、あの瞬間の未沙は受け止めきれなかった。
だから、リオンのままでいた。
最初の一回だけ。
そう思っていた。
施術が終われば、それで終わるかもしれない。
彼は身体が楽になれば、もう来ないかもしれない。
それなら、わざわざ過去を掘り返さなくてもいい。そう自分に言い聞かせた。
けれど、また来た。
予約が入ったとき、未沙はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
五条輝。
その文字を見ただけで、胸の奥が静かに痛んだ。嬉しい、と思った。すぐに、その嬉しさを認めたくなくなった。自分だけがこんなふうに揺れるのは、ずるい気がしたからだ。
彼は知らない。
目の前にいるリオンが、誰なのかをまだ知らない。
知らないまま、似ていると思っているのかもしれない。
あるいは、ただなんとなく引っかかっているだけかもしれない。
どちらにしても、知らないのは彼だけだ。
それが、ずっと引っかかっていた。
施術中、五条の身体に触れるたび、昔の記憶が細い糸みたいに引かれた。
肩に力が入りやすいところ。
痛いとき、すぐには言わずに一度だけ息を止める癖。
少し楽になると、わずかに呼吸が深くなること。
名前を呼ぶと、返事の前にほんの一拍だけ間があること。
変わっていないところが、あまりにも多かった。
もちろん、変わったところもある。
昔よりずっと疲れている。
無理の仕方がうまくなってしまっている。
言葉を飲み込む回数も増えた。
たぶん、休み方も忘れかけている。
そんなふうに変わってしまった彼を見ていると、胸が痛んだ。
自分にその痛みを感じる資格があるのかは、わからない。
別れを選んだのは、自分だったからだ。
未沙は洗面台にそっと指先を置いた。
冷たい陶器の感触が、少しだけ現実へ引き戻す。
リオンでいる限り、まだ保てるものがある。
仕事だから。
施術者だから。
そう言い聞かせていれば、少なくとも表面は整えられる。
けれど、五条の前で揺れているこの感情まで、リオンという名前の中へきれいに収められるわけではなかった。
あの頃の自分は、まだ未沙だった。
未沙は、あの日のことをまだきちんと思い返せる。
思い返したくなくても、忘れたことはない。
五条は仕事に追われていた。
未沙は、そんな彼を支えたいと思っていた。
でも、支えたい気持ちと、置いていかれる寂しさは別だった。会えないことより、会っても心がこちらにいない時間が増えていくことのほうがつらかった。話しかけても、返事が少し遅れる。隣にいても、頭のどこかは別の場所にある。そういう小さな積み重ねに、未沙のほうが先に疲れてしまった。
責めたかったわけじゃない。
ただ、苦しかった。
でも五条も、きっと苦しかったのだと思う。
あの頃の彼には、何かを守る余裕がなかった。仕事を回すだけで精一杯で、自分の限界にすら気づいていなかった。未沙はそれをわかっていたのに、わかっていることと耐えられることは違った。
だから離れた。
嫌いになったからではなく、好きなまま壊れたくなかったから。
それでも、別れたあと何度も思った。
もう少し違う言い方があったのではないか。
もう少し待てたのではないか。
あのとき離れる以外の選択肢も、どこかにあったのではないか。
答えは、いまも出ていない。
未沙はソファへ腰を下ろし、テーブルの上に置いた予約表へ目を向けた。
次回の予約は、まだ入っていない。
当たり前だ。今日終わったばかりなのだから。
なのに、その空白が気になる。
また来るだろうか。
来てほしい、と思ってしまう。
その気持ちが、いちばん困る。
名乗るべきだ。
ずっとそう思っている。
このまま会い続けるのは、誠実ではない。
彼だけが知らないまま、こちらだけが過去を抱えているのは、ずるい。そんなことは未沙自身がいちばんよくわかっている。
でも、名乗った瞬間に終わるかもしれない。
五条がもう来なくなるかもしれない。
あの静かな時間も、身体に触れながら交わす短いやり取りも、施術のあとに少しだけやわらぐ表情を見ることも、全部なくなるかもしれない。
それが怖い。
「……ずるいな、私」
誰もいない部屋で、未沙は小さく笑った。
笑ったつもりだったのに、声は少し掠れていた。
五条はたぶん、まだ気づいていない。
でも、まったく何も感じていないわけでもない気がする。
ときどき、こちらを見る目が少しだけ止まる。声を聞いたあと、何かを考えるように黙る。似ている、と思っているのかもしれない。そこまで来ていても、「まさか」と自分で打ち消しているのだろう。
その曖昧さに甘えているのは、自分だ。
未沙は背もたれに身体を預け、ゆっくり目を閉じた。
五条さん。
そう呼ぶたびに、昔の呼び方が喉の奥に浮かぶ。
でも、もうそれを口にすることはできない。いまの自分はリオンで、彼にとってもそうであるべきだと、何度も言い聞かせてきた。
それなのに、今日の「来たかったので」が、心の奥の均衡を少し崩した。
来てくれて嬉しかった。
でも、嬉しいと思うほど苦しい。
このままではいけないとわかっているのに、もう少しだけこのままでいたいとも思ってしまう。
会いたかった人に再会したのに、再会したとは言えない。
名前を知っているのに、名乗れない。
触れられる距離にいるのに、昔より遠い。
未沙は目を開け、静かな部屋を見渡した。
整えられたベッド、やわらかな照明、アロマの残り香。ここは自分が選んだ場所で、自分が守ってきた仕事の空間だ。だからこそ、私情を持ち込んではいけない。そう思ってきた。思っている。いまも。
けれど、その場所に五条が来てしまった。
いや。
来てしまったのではない。
来てくれたのだ。
その言い換えひとつで、胸の奥がまた痛む。
未沙はそっと両手を重ねた。
施術のあと、まだ少しだけ彼の体温が残っている気がした。
「……次は、どうしよう」
答えの出ない問いが、静かな部屋に落ちる。
名乗るべきか。
まだ黙っているべきか。
もう会わないほうがいいのか。
それとも、もう少しだけ、この曖昧な再会に甘えてしまうのか。
どれを選んでも、きっと簡単ではない。
それでも時間は進む。
次の予約が入るかもしれないし、入らないかもしれない。
そのたびにまた、リオンの顔をしてドアを開けるのだろう。
呼べなかった名前を、胸の奥にしまったまま。




