第13話 理由の名前
部屋に戻ってネクタイを緩めたあとも、五条はしばらくソファに座ったまま動けなかった。
エアコンの音だけが、やけに静かに聞こえる。
いつもなら帰宅してすぐシャワーを浴びるか、適当に何か飲んで仕事の続きを開くか、そのどちらかだった。けれど今日は、どちらにも手が伸びなかった。
身体は軽い。
肩も首も、行く前よりずっと楽になっている。
それなのに、妙に落ち着かなかった。
「……何なんだよ」
独り言のように呟いて、ソファの背にもたれかかる。
目を閉じると、最初に浮かんだのは施術の感触ではなかった。
リオンの声だった。
やわらかいのに、必要以上に近づいてこない声。
こちらの様子を見ながら、踏み込みすぎない距離で言葉を置いてくる話し方。
無理に会話をつなごうとしないくせに、黙っていても気まずくならない空気。
不思議な人だと思う。
最初に行ったときもそう思った。
感じがいい、というだけでは片づかない何かがあった。落ち着くのに、少しだけ気になる。安心するのに、なぜか意識に残る。そういう曖昧な感覚を、五条はうまく言葉にできないまま持て余していた。
今日、また行ってしまったのも、たぶんそのせいだ。
身体がつらかったのは本当だ。
首も肩も限界に近かったし、前回かなり楽になったのも事実だった。だから予約を入れる理由としては十分だったはずなのに、それだけではない気がしていた。
行きたいと思った。
ただ、それだけのことなのに、その理由を考え始めると妙に落ち着かなくなる。
五条は片手で顔を覆い、浅く息を吐いた。
施術中、自分でも少し変だったと思う。
必要以上に話したわけではない。けれど、普段ならわざわざ口にしないことを、あの場所では少しだけ話してしまう。仕事が立て込んでいること。最近あまり眠れていないこと。休んだほうがいいとわかっていても、うまく切り替えられないこと。
別に、深刻な相談をしたかったわけじゃない。
ただ、あの人の前だと、少しだけ言葉がほどける。
それがなぜなのか、五条にはわからなかった。
相手が聞き上手だからかもしれない。
施術者として慣れているからかもしれない。
客に安心してもらうための距離感を、きちんと身につけているだけなのかもしれない。
たぶん、そういうことなのだろう。
そう思うのに、胸のどこかがそれだけでは足りないと言っている。
五条はテーブルの上にスマートフォンを置いたまま、ぼんやりと画面を見た。
黒い画面には、自分の顔がうっすら映っている。疲れている顔だと思う。目の下に薄く影があって、口元にも余裕がない。こんな顔で通っていたのかと、少しだけ嫌になる。
今日、帰り際に言った言葉を思い出す。
『来たかったので』
あれは完全に本音だった。
言ってから、自分で少し驚いたくらいだ。
もっと無難な言い方はいくらでもあったはずだ。
前回よかったので、とか。
身体がつらくて、とか。
近くまで来たので、とか。
なのに、口をついて出たのは、来たかったので、だった。
「……重いだろ、それ」
苦笑して、ソファに深く沈み込む。
相手がどう受け取ったかはわからない。困らせたかもしれないし、ただの客の一言として流されたかもしれない。たぶん後者だろう。あの人はそういうところで、変に反応しない。
でも、少しだけ目が揺れた気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしい気もするし、そうじゃなければいいとも思う。
自分でも面倒くさいことを考えている自覚はあった。
五条はスマートフォンを手に取り、何気なく予約画面を開いた。
まだ次の予約を入れるには早い。
そんなことはわかっている。
それでも、店のページを開いてしまう。
リオン、という名前が目に入る。
仕事だからだ、と五条は思う。
あの人にとって自分は客で、それ以上でもそれ以下でもない。丁寧なのも、やわらかいのも、安心させるのも、全部仕事のうちだ。そこに特別な意味を見ようとするのは、たぶん違う。
わかっている。
わかっているのに、また会いたいと思ってしまう。
身体を整えたいから。
疲れが溜まっているから。
あの施術が自分に合っているから。
理由を並べれば、どれも間違っていない。
けれど、どれも少しずつ足りない気がした。
会いたいから。
そこまで言葉にしてしまうと、急に落ち着かなくなる。
五条は眉を寄せ、スマートフォンを伏せた。
何を考えているんだろうと思う。
相手は施術者で、自分は客だ。
それだけの関係に、勝手に意味を足しているだけかもしれない。
それでも、あの部屋で過ごす時間を思い出すと、胸の奥に静かな熱が残る。
照明のやわらかさ。
アロマの匂い。
タオル越しに伝わる手の温度。
名前を呼ばれるときの、落ち着いた声。
あの空間にいると、自分の中の張りつめたものが少しだけほどける。
仕事のことを全部忘れられるわけではない。
明日の予定が消えるわけでもない。
抱えているものがなくなるわけでもない。
それでも、少しだけ呼吸がしやすくなる。
それはたぶん、身体が楽になるからだけじゃない。
五条は立ち上がり、キッチンへ向かって水を飲んだ。
冷たい水が喉を通っても、頭の中は妙に熱を持ったままだった。
また行くのか、と自分に問う。
答えは、考えるまでもなく出ている気がした。
行くのだろう。
たぶん、また近いうちに。
その理由を、まだうまく説明できないだけで。
ソファへ戻り、スマートフォンをもう一度手に取る。
予約画面を開いて、閉じる。
少し置いて、また開く。
自分でも何をしているのかわからなくて、思わず笑いそうになった。
「……いや、早いだろ」
誰に言うでもなく呟く。
けれど指は、ページを閉じきれずに止まっていた。
次の空き状況を見ているだけだ。
まだ入れるとは決めていない。
ただ予定を確認しているだけで、深い意味はない。
そんな言い訳を頭の中で並べながら、五条はしばらく画面を見つめていた。
会いたい、というほどのものなのか。
気になる、というだけなのか。
自分でもまだわからない。
ただひとつわかるのは、今日の帰り道より、いまのほうがその気持ちがはっきりしているということだった。
また、あの部屋へ行きたい。
また、リオンに会いたい。
その感情に名前をつけるには、まだ少し早い。
けれど、名前がないままでも、気持ちは確かにそこにあった。
五条はしばらく迷ったあと、結局予約画面を閉じた。
今日はまだ入れない。
少し間を置いたほうがいい気がしたし、そうしないと自分のほうが落ち着かない気もした。
それでも、閉じた画面の向こうに意識が残る。
ただ身体を整えたいだけなら、こんなふうに何度も予約画面を開く理由がわからなかった。
もう会っていないはずなのに、気持ちだけがまだどこかに残っている。
名前のつかないその余韻は、残り香みたいに静かに胸の奥に残っていた。




