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第14話 ほどける時間

 次に予約を入れたのは、結局その四日後だった。


 もう少し間を空けるつもりでいた。

 仕事の都合もあったし、身体の調子だけを考えるなら、そこまで急ぐ必要はなかった。けれど、週の半ばを過ぎたあたりから首の奥に重さが戻りはじめて、気づけばまた予約画面を開いていた。


 空いている時間を見つけた瞬間、ほとんど迷わず指が動いた。


 確定の表示が出たあとで、五条は小さく息を吐いた。

 これでよかったのかはわからない。

 ただ、少しだけ落ち着いた自分がいた。


 当日、店の前に立ったとき、五条は自分でもおかしくなるくらい緊張していることに気づいた。

 仕事の打ち合わせでも、初対面の相手でも、ここまで変に意識することはあまりない。なのに、ドアの向こうにいるのがリオンだと思うだけで、呼吸が少し浅くなる。


 予約したのは自分なのに、何を構えているんだと思う。


 インターホンを押す。

 少ししてドアが開いた。


「いらっしゃいませ、五条さん」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥にあった硬さが少しだけほどけた。


「……こんにちは」


 返した声が、思ったよりやわらかく出た。

 リオンはいつものように穏やかに微笑んで、室内へ案内する。照明の落ちた廊下を抜け、施術室へ入る。前と同じはずの空間なのに、今日は最初から少しだけ空気が近く感じた。


「お仕事、忙しそうでしたけど、その後どうですか」


 着替えを終えたあと、自然な調子でそう聞かれる。

 五条はベッドへ腰を下ろしながら、少しだけ苦笑した。


「相変わらずです。たぶん、しばらくは」

「そうですか」


 それ以上、無理に踏み込んではこない。

 けれど、ただ流すわけでもなく、ちゃんと受け取った気配だけが残る。その感じが、やっぱり心地よかった。


「前回より、首肩は少し早めに戻ってますね」

「やっぱりそうですか」

「はい。たぶん、無意識に力が入ってる時間が長いんだと思います」


 図星だった。

 五条が曖昧に笑うと、リオンも少しだけ目元をやわらげる。


「今日は前回より、肩甲骨まわりも少ししっかり触りますね」

「お願いします」


 ベッドにうつ伏せになる。

 タオル越しに手が触れた瞬間、五条は小さく息を吐いた。


 やっぱり、と思う。

 この人の手に触れられると、自分の中の張りつめたものが少しずつほどけていく。


 力を抜こうとしても抜けない場所を、急かさず、決めつけず、静かに見つけていく手だった。

 痛みの少し手前で止まり、でも甘やかしすぎず、こちらの呼吸に合わせるみたいに圧が入る。その加減が絶妙で、身体が先に安心してしまう。


「ここ、少し張ってますね」

「……ああ、はい」


 返事をしながら、自分の声が少し眠たくなっているのがわかった。

 まだ眠るには早いのに、意識の輪郭がゆるんでいく。


「最近、ちゃんと休めてますか」

「休んでは、いるんですけど」

「休まってはいない感じですか」

「……そんな感じです」


 言ってから、五条は目を閉じた。

 そういう言い方をされると、妙に正確で困る。


 休んでいないわけではない。

 家には帰っているし、寝てもいる。

 けれど、頭のどこかがずっと仕事場に置き去りのままで、完全に切れる時間がない。身体だけ横になっても、気持ちのほうが休めていないのだと、自分でもわかっていた。


「真面目ですね」


 ふっと落ちてきた声に、五条は薄く笑う。


「褒めてないですよね」

「半分くらいは」

「半分ですか」

「もう半分は、心配です」


 その言葉に、五条は一瞬だけ返事を失った。


 心配。

 そんなふうに言われることに、思った以上に弱いのかもしれないと思う。

 仕事の場では、気をつけてくださいとか、無理しないでくださいとか、そういう言葉はいくらでも交わされる。けれど本当にこちらの状態を見て言われる「心配」は、案外少ない。


「……ありがとうございます」


 少し遅れてそう言うと、リオンは「いえ」とだけ返した。

 その短さが、かえってやさしかった。


 しばらくは会話が途切れた。

 静かな音楽と、タオルの擦れる気配と、呼吸の音だけが部屋にある。


 五条は目を閉じたまま、ぼんやりと思う。

 この時間が好きだ、と。


 話していてもいい。

 黙っていてもいい。

 どちらでも無理がない。


 それが、こんなにも楽だとは思わなかった。


「五条さん」


 不意に名前を呼ばれて、五条はうっすら目を開けた。


「はい」

「少しだけ、力抜けましたね」


 そう言われて、自分でも気づく。

 さっきまで上がっていた肩が、少し沈んでいる。呼吸も、来たときより深い。


「……ほんとだ」

「よかったです」


 その声に、また胸の奥が静かにあたたかくなる。


 どうしてこんなふうになるのか、やっぱりまだわからない。

 ただ、ここにいると、自分が少しまともな呼吸を取り戻せる気がした。


 施術が終わる頃には、身体の重さだけでなく、頭の奥のざわつきまで少し薄くなっていた。

 着替えを済ませて戻ると、リオンが温かい飲み物を用意してくれていた。


「ありがとうございます」

「今日は少し、冷えてましたよね」

「わかりました?」

「手、冷たかったので」


 そう言われて、五条はカップを持つ指先を見た。

 自分ではあまり意識していなかったことまで、この人は案外よく見ている。


「……よく見てますね」

「仕事なので」


 さらりと返されて、五条は少しだけ笑った。

 その答えはたぶん正しい。正しいのに、少しだけ物足りないと思ってしまう自分がいる。


 カップから立つ湯気を見つめながら、五条は迷った。

 ここで帰れば、たぶんいつも通りだ。

 礼を言って、次をどうするか曖昧なまま店を出る。それで何も問題はない。


 でも今日は、もう少しだけ話したかった。


「……リオンさんって」


 口にしてから、五条は少しだけ言葉を探した。

 何を聞きたいのか、自分でもはっきりしていない。ただ、施術を受ける側とする側、という関係の外に、ほんの少しだけ触れてみたかった。


「はい?」

「いや、その……いつも落ち着いてますよね」


 我ながら曖昧な入り方だと思う。

 けれどリオンは笑わなかった。ただ少しだけ目を丸くして、それからやわらかく笑った。


「そう見えるなら、よかったです」

「見える、というか……実際そうなんだろうなって」

「どうでしょう。そうでもないですよ」

「そうですか?」

「はい。仕事中だから、そうしてるだけかもしれません」


 その言い方に、五条は少しだけ息を止めた。


 仕事中だから。

 その線引きは、たぶん当然のものだ。

 当然なのに、なぜか少しだけ寂しい。


「……そっか」


 短く返すと、リオンはカップを持つ五条の手元を見てから、静かに言った。


「でも、五条さんの前で無理をしてる感じは、あまりないです」


 五条は顔を上げた。


 リオンは言ったあとで、少しだけ困ったように笑った。


「変な言い方でしたね」

「いや……」

「お客様には安心してもらいたいので、落ち着いて見えるようにはしてます。でも、五条さんといると、そこまで気を張らなくていい感じはあります」


 その言葉が、思った以上に深く落ちてきた。


 自分だけではなかったのだと思う。

 ここで少し楽になっているのは、自分だけではないのかもしれない。

 そう思っただけで、胸の奥に小さな熱が灯る。


「それ、ちょっと嬉しいです」

 

 気づけば、そう言っていた。


 リオンの目がわずかに揺れる。

 けれどすぐに、いつものやわらかな表情に戻った。


「……よかったです」


 その一言が、妙に近く感じた。


 帰る時間が来る。

 立ち上がって礼を言い、玄関へ向かう。前回と同じ流れのはずなのに、今日は少しだけ名残惜しかった。


 靴を履いて、ドアの前で振り返る。

 リオンは少し離れたところで、静かにこちらを見ていた。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「……また来ます」


 言ってから、五条は少しだけ息を止めた。

 予約の挨拶としては自然なはずなのに、思ったより私的な響きになった気がしたからだ。


 けれどリオンは、ほんの一瞬だけ目をやわらげてから、微笑んだ。


「はい。お待ちしてます」


 ドアが閉まる。

 外の空気は少しぬるくて、夕方の街はまだ明るかった。


 駅までの道を歩きながら、五条は自分の口元が少し緩んでいることに気づく。

 仕事は何も片づいていない。

 明日になればまた慌ただしい日常が戻る。

 それでも、足取りは来たときより軽かった。


 また来ます。

 あの言葉は、半分は挨拶で、半分は確認だったのかもしれない。

 自分がまたここへ来たいのだと、声に出して確かめるための。


 リオンの前では、少しだけ呼吸がしやすい。

 少しだけ、言葉がほどける。

 少しだけ、自分を急かさなくて済む。


 その少しずつが、思っていたよりずっと大きい。


 恋だと呼ぶには、まだ早いのかもしれない。

 けれど、ただの客としての好意だけでは、もう説明がつかない気がしていた。


 会っている時間は短い。

 触れているのは施術のための手だけだ。

 それでも帰り道の胸には、静かなぬくもりが残っている。


 それはまだ形にならないまま、けれど確かに、次を望む気持ちへ変わりはじめていた。


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