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第15話 待つあいだ

 「また来ます」と言われたあとの数日は、思っていたより長かった。


 未沙は予約画面を開くたび、自分でも呆れるくらい小さく息を止めていた。

 もちろん、そんなことをしても表示が変わるわけではない。新しい予約が入っていなければ、そこには何もないままだ。わかっているのに、朝の準備の前、昼の空き時間、夜に片づけを終えたあと、気づけば何度も確認してしまう。


 五条からの予約は、まだ入っていなかった。


 それが当たり前だとも思う。

 前回からまだ数日しか経っていない。身体の状態だけを考えれば、すぐ次を入れなくても不自然ではない。仕事だって忙しいはずだ。来ない理由ならいくらでも思いつく。


 それでも、来るかもしれないと思ってしまう。


 あの日の「また来ます」は、社交辞令のようにも聞こえたし、そうではないようにも聞こえた。

 玄関先で交わすには少しだけやわらかくて、少しだけ個人的な響きがあった。だからこそ、未沙はその言葉を何度も思い出してしまう。


 期待してはいけない。

 そう思うたびに、期待している自分に気づく。


「……だめだな」


 小さく呟いて、未沙はスマートフォンの画面を伏せた。

 サロンの予約管理用の端末を、こんなふうに私的な気持ちで見つめるべきではない。仕事と感情を混ぜないために、ここまでやってきたはずなのに、五条のことになると簡単に境界が曖昧になる。


 リオンでいると決めたのは、自分だ。


 最初に五条が来たとき、名乗れなかった。

 次に来たときも、結局言えなかった。

 それどころか、会うたびに少しずつ距離がやわらいでいくのを、止められずにいる。


 五条はまだ知らない。

 目の前にいるリオンが、未沙だということを。


 知らないまま、やさしい。

 知らないまま、また来ると言う。

 知らないまま、少しずつこちらへ心をほどいてくる。


 そのことが、嬉しくて、苦しい。


 午前の施術を終え、未沙は新しいタオルを棚へ戻した。

 手はいつも通り動く。洗濯、補充、ベッドメイク、アロマの調整、次の準備。身体が覚えた仕事は、気持ちが揺れていても止まらない。


 それでも、ふとした瞬間に意識が逸れる。


 五条は今ごろ仕事だろうか。

 ちゃんと眠れているだろうか。

 また肩を固くしていないだろうか。


 そんなことを考える資格が自分にあるのか、未沙にはわからない。

 別れを選んだのは自分だ。あの頃の彼の苦しさを知りながら、それでも離れた。間違っていたとは思わない。あのときは、あれしかなかったのだと思う。けれど、だからといって今さら心配することが許されるのかと問われたら、答えに詰まる。


 午後の予約と予約のあいだ、短い休憩を取るためにソファへ腰を下ろす。

 テーブルの上には、飲みかけのハーブティー。

 湯気はもうほとんど立っていない。


 未沙はカップを両手で包みながら、ぼんやりと天井を見た。


 五条は、リオンに会いに来ている。


 その事実が、何度考えても胸に引っかかる。


 未沙に会いに来ているわけではない。

 過去を懐かしんでいるわけでもない。

 似ている誰かを追っているわけでもない。


 ただ、リオンという今の自分に会いに来ている。


 それは救いだった。

 もし彼が未沙の面影だけを追っていたなら、こんなふうに心は動かなかったかもしれない。けれど実際には、五条は何も知らないまま、リオンの前で少しずつ表情をやわらげていく。言葉をほどいていく。安心したように息を吐く。


 その変化を見られることが、未沙にはたまらなく嬉しい。


 でも同時に、少しだけ置いていかれるようでもあった。


 彼が見ているのは、いまここにいる自分だ。

 それは間違いなく自分なのに、未沙としての自分ではない。

 リオンとして好かれていくことが、こんなにも嬉しくて、こんなにも痛いものだとは思わなかった。


 インターホンが鳴って、未沙ははっと顔を上げた。

 次の客の時間にはまだ少し早い。確認すると、宅配便だった。サロン用品の補充らしい。


 自分でもわかるくらい、落胆している。

 そのことに気づいて、未沙は苦く笑った。


「何期待してるんだろ……」


 五条が予約もなく突然来るような人ではない。

 そんなことはわかっている。

 わかっているのに、一瞬だけ胸が跳ねた。


 荷物を受け取り、伝票にサインをして、ドアを閉める。

 その一連の動作のあとで、静かな部屋に戻ると、さっきよりも少しだけ空気が広く感じた。


 待っている。


 その事実を、未沙は認めたくなかった。

 けれど、もう誤魔化せないところまで来ている気がした。


 次の予約が入るのを待っている。

 またドアが開いて、五条が「こんにちは」と言うのを待っている。

 あの人の肩に触れて、少しずつ力が抜けていくのを見るのを待っている。


 こんなのは、よくない。


 客を特別扱いしてはいけない。

 施術者として、感情を持ち込みすぎてはいけない。

 まして相手が、自分の過去を知らないまま近づいてきているのなら、なおさらだ。


 わかっている。

 わかっているのに、気持ちは理屈の通りには整わない。


 夕方、最後の施術を終えて片づけをしているとき、予約通知の音が鳴った。


 未沙の手が止まる。


 ほんの一瞬、呼吸まで止まった気がした。

 すぐに端末へ手を伸ばす。見なくてもいいふりなんて、できなかった。


 表示された名前を見た瞬間、胸の奥が強く鳴る。


 五条輝。


 未沙はその文字を、しばらく見つめたまま動けなかった。


 来た。


 その事実だけで、嬉しさが先に込み上げる。

 来てくれた。もう一度、会いたいと思ってくれた。そのことが、どうしようもなく嬉しい。


 けれど次の瞬間には、別の感情が追いついてくる。


 また会える。

 また会ってしまう。


 未沙はゆっくり息を吐いて、端末をテーブルへ置いた。

 指先が少し震えている。落ち着こうとしても、胸の鼓動がなかなか静まらない。


 予約日時を確認する。

 数日後の、夕方。

 これまでと同じようでいて、もう同じではいられない気がした。


 このままでいいのだろうか、とまた思う。

 会うたびに距離が近づいていく。

 五条はリオンに会いに来る。

 未沙はそのたびに、嬉しさと後ろめたさの両方を抱える。


 どこかで止めなければいけないのかもしれない。

 名乗るなら、早いほうがいいのかもしれない。

 それとも、まだ言わないままのほうがいいのかもしれない。


 考えても、答えは出ない。


 ただ、次に会える日が決まったというだけで、世界の輪郭が少し変わって見えた。


 未沙は端末を閉じ、施術室へ目を向けた。

 整えたベッド。やわらかな照明。静かな音楽。

 次にここへ来るとき、五条はどんな顔をするだろう。

 自分はまた、リオンの顔で「いらっしゃいませ」と言うのだろうか。


 たぶん、そうする。

 まだ決めきれないままでも、きっとそうする。


 それがずるいことだとわかっていても、次の約束ができたことを、いまは手放しで後悔できなかった。


 会える日ができるだけで、こんなにも心が揺れる。

 待っていた時間ごと報われたみたいに、胸の奥が熱を持つ。


 未沙はそっと目を閉じた。


 また来る。

 その事実が、嬉しい。

 嬉しいと思ってしまう自分が、少しだけ怖い。


 それでも、もう待たなくていいのだと思った瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、静かにほどけていった。


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