第16話 近づく温度
予約の日は、思っていたより早く来た。
未沙は昼の施術を終えたあと、いつもより少しだけ丁寧に室内を整えていた。
タオルの端を揃え、ベッドのしわを伸ばし、テーブルの位置をほんのわずかに直す。どれも普段からやっていることなのに、今日はひとつひとつの動作に妙な意識が向いてしまう。
落ち着かない。
理由はわかっている。
あと一時間もしないうちに、五条が来る。
予約が入った日からずっと、未沙はその事実を胸のどこかで抱えたまま過ごしていた。仕事をしているあいだは忘れられる時間もある。けれど、ふとした瞬間に思い出す。次に会ったら、どんな顔をするだろう。前回と同じように笑えるだろうか。何も知らないふりを、また自然に続けられるだろうか。
鏡の前で髪を整えながら、未沙は小さく息を吐いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
大丈夫でなければ困る。ここは仕事場で、自分はリオンだ。五条が来るたびに揺れていては、施術者として失格だ。
そう言い聞かせても、胸の奥は少しも静かにならなかった。
予約時間の少し前、インターホンが鳴る。
その音だけで、心臓がひとつ大きく跳ねた。
未沙は一度だけ深呼吸をしてから、ドアへ向かった。
開けると、五条が立っていた。
「こんにちは」
「……こんにちは。いらっしゃいませ」
目が合う。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
五条は前より少しだけ疲れて見えた。スーツの襟元はきちんとしているのに、目の下にうっすら影がある。けれど未沙の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。
その変化が、嬉しい。
「お仕事帰りですか」
「はい。ちょっと長引いて」
「お疲れさまです」
自然にそう言いながら、未沙は室内へ案内する。
すぐ近くを通ったとき、五条の気配が思ったより近くて、意識が揺れた。香水でも整髪料でもない、その人自身の清潔な匂いが一瞬だけ触れて、未沙は何でもない顔のまま歩幅を整える。
施術室に入ると、五条は小さく息をついた。
「ここ来ると、ちょっと落ち着きます」
何気ない口調だった。
けれど未沙は、その一言を受け止めるのに一瞬かかった。
「……そう言ってもらえると、嬉しいです」
声が少しだけやわらかくなる。
五条はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、曖昧に笑った。
着替えを終え、カウンセリングを兼ねて身体の状態を確認する。
肩、首、背中。触れなくても、前より張っているのがわかる気がした。
「今週、かなり忙しかったですか」
「わかります?」
「なんとなく」
「……かなり、ですね」
苦笑する五条に、未沙も小さく笑う。
こうして短い言葉を交わすだけで、前より少し空気がやわらいでいるのがわかった。最初の頃の、客と施術者としてのきっちりした距離が、少しずつほどけている。
それが心地いい。
心地いいからこそ、怖い。
「今日は首から肩、背中までしっかり見ますね」
「お願いします」
うつ伏せになった五条の背にタオルを整え、未沙はそっと手を置いた。
その瞬間、指先から伝わる体温に、胸が静かにざわつく。
何度も触れているはずなのに、慣れない。
仕事としての接触だとわかっているのに、五条に触れるたび、未沙の中のどこかが過去と現在のあいだで揺れる。
けれど手は迷わない。
圧をかけ、呼吸を見て、筋肉の硬さを探る。施術に入れば、身体が先に仕事を思い出す。そのことに少しだけ救われる。
「……硬いですね」
「やっぱり」
「かなり頑張りました?」
「頑張ったというか、終わらなくて」
その言い方が少し子どもっぽく聞こえて、未沙は思わず笑いそうになる。
けれど声に出す代わりに、肩へかける圧を少しだけやわらげた。
「終わらないとき、ありますよね」
「ありますね」
「ちゃんと終わる日、来ますか?」
「来てほしいです」
低く返ってきた声に、未沙は小さく笑った。
五条もつられて少し笑う。
そのわずかなやり取りだけで、部屋の空気がやさしくほどける。
前はもっと、言葉を選んでいた気がする。
いまは少しだけ自然だ。
自然になってしまっていることが、未沙には嬉しくて、危うかった。
「ここ、痛くないですか」
「大丈夫です」
「無理なら言ってくださいね」
「はい」
返事のあと、少し間があく。
静かな音楽の向こうで、五条の呼吸がゆっくり深くなっていくのがわかった。
「……リオンさん」
「はい」
名前を呼ばれて、未沙の指先がほんのわずかに止まりそうになる。
けれど止めずに、肩甲骨のきわを流しながら返事をする。
「この前言ってた、気を張らなくていい感じって」
「……はい」
「ちょっとわかる気がします」
未沙は息を止めかけた。
「どういう意味ですか」
「うまく言えないんですけど」
五条の声は、タオルに少しこもっている。
そのぶん、飾らない本音みたいに聞こえた。
「ここだと、ちゃんと力抜けるというか。無理に何か話さなくてもいいし、話したいときは話せるし」
「……はい」
「そういう相手、あんまりいないなって」
未沙は返事ができなかった。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
そんなふうに言われたら、嬉しいに決まっている。
でも、その言葉を受け取っていいのかはわからない。
「すみません、変なこと言いました」
「いえ」
未沙はようやく声を出した。
「変じゃないです」
「……そうですか」
「そういうふうに思ってもらえてるなら、よかったです」
それだけ言うのが精一杯だった。
本当はもっと何か言いたかった気がする。けれど言葉を足せば足すほど、仕事の線を越えてしまいそうで怖かった。
施術を続けながら、未沙は自分の呼吸を整える。
五条の身体は少しずつやわらいでいくのに、自分のほうが落ち着かなくなっているのがわかった。
やがて仰向けになってもらい、首まわりを触れる。
この距離は、どうしても近い。
顔が見えるぶん、余計に。
「少し上向きますね」
「はい」
目を閉じた五条の表情は、来たときよりずっとやわらかかった。
眉間の力が抜けて、呼吸も深い。こんなふうに無防備な顔を見せられると、未沙の胸は静かに痛む。
自分はこの人に、何をしているんだろうと思う。
癒やしているのか、惑わせているのか。
近づいているのか、騙しているのか。
答えは出ないまま、指先だけが丁寧に首筋をたどる。
ふと、五条が目を開けた。
視線がぶつかる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、時間が止まったみたいだった。
「……痛かったですか」
未沙が先にそう聞くと、五条は小さく首を振った。
「いや」
「よかったです」
「ただ、近いなって思って」
未沙の手が止まりそうになる。
五条は言ってから、自分でも少し驚いたように目を伏せた。
「すみません。変な意味じゃなくて」
「……はい」
変な意味じゃないはずがない、とは思わなかった。
思えなかった。
未沙は平静を装って、そっと手を動かし直す。
けれど耳の奥が熱い。自分の鼓動がうるさい。
「施術なので、どうしても」
「ですよね」
五条は苦笑した。
その苦笑に、少しだけ照れが混じっている気がして、未沙はますます落ち着かなくなる。
それ以上、どちらも何も言わなかった。
けれど沈黙は気まずくなかった。むしろ、言葉にしないまま何かがひとつ増えたような静けさだった。
施術が終わる頃には、五条の表情はすっかりやわらいでいた。
着替えを済ませて戻ってきたとき、未沙はいつも通り飲み物を差し出す。
「ありがとうございます」
「今日はだいぶ首が楽になってると思います」
「もうすでに違います」
「よかった」
向かい合って座る。
ほんの数分のアフターカウンセリングの時間なのに、今日は妙に空気が近い。
「無理しないでくださいね」
「それ、最近よく言われます」
「みんな思うんでしょうね」
「リオンさんにも思われてるなら、相当ですね」
冗談めかした言い方に、未沙は少し笑った。
「相当かもしれません」
「……じゃあ、少しは気をつけます」
その返しが素直で、未沙は一瞬だけ言葉を失う。
前なら、こんなふうにやわらかく返ってこなかった気がする。五条の中でも、何かが少しずつ変わっているのかもしれない。
帰る時間になり、玄関まで見送る。
靴を履いた五条が立ち上がると、室内の距離が急に狭く感じた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「……また、来てもいいですか」
未沙は目を瞬いた。
その言い方は、予約の確認というより、許可を求める響きに近かった。
「もちろんです」
答える声が、自分でもわかるくらいやわらかくなる。
「お待ちしてます」
五条は少しだけ安心したように笑った。
その笑顔を見た瞬間、未沙の胸の奥で何かが静かにほどける。
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
未沙はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
また来てもいいですか。
ただの客なら、そんな聞き方はしない。
ただの施術者なら、その言葉にこんなに心を揺らしたりしない。
近づいている。
少しずつ、確実に。
それが嬉しい。
嬉しいのに、怖い。
このまま進んでしまった先に、何があるのか未沙にはまだわからない。
けれど今日、五条の目が近い距離で揺れたことも、言葉の端にためらいが混じっていたことも、きっと忘れられないと思った。
触れたのは仕事のための手だけだ。
交わしたのも、ほんの少しの言葉だけだ。
それでも、ふたりのあいだの温度は、前より確かに近づいていた。




