第17話 境界の手前
五条は、帰りの電車の窓に映る自分の顔を見て、ひとりで少しだけ困った。
明らかに、機嫌がいい。
仕事帰りで、疲れていないわけではない。むしろ身体はずっと重かったし、今日だって施術を受ける前までは首も肩もかなりきつかった。明日の予定も詰まっているし、片づいていない案件もある。状況だけ見れば、気分が軽くなる理由なんてそう多くないはずだった。
それなのに、胸の奥だけが妙に静かだった。
また、来てもいいですか。
自分で言った言葉を思い出して、五条は小さく息を吐く。
あれはさすがに変だったかもしれない、と今さら思う。普通に「またお願いします」でよかったはずだ。なのに、どうしてあんな聞き方をしたのか、自分でもよくわからない。
来ることを確認したかったのか。
それとも、来てもいいと思われているのかを知りたかったのか。
たぶん、後者だった。
リオンは「もちろんです」と言った。
やわらかく、迷いなく。
その声を思い出すだけで、胸の奥にあたたかいものが残る。
自宅に着いてスーツを脱いでも、その感覚は消えなかった。
シャワーを浴びて、簡単に夕食を済ませ、ノートパソコンを開く。メールを返し、資料を確認し、明日の予定を見直す。いつも通りの流れだ。けれど今日は、集中が長く続かない。
気づくと、意識が別のところへ逸れている。
目を閉じたときの、リオンの顔。
近い距離で落ちてきた声。
「変じゃないです」と返してくれたときの、あの静かなやわらかさ。
五条はキーボードを打つ手を止め、椅子の背にもたれた。
「……だめだな」
何がだめなのか、自分でも曖昧だった。
仕事に集中できないことか。
ひとりの施術者のことを、必要以上に考えていることか。
それとも、そのどちらもか。
リオンは仕事でやっている。
その前提は、何度考えても変わらない。
やさしいのも、落ち着いているのも、距離の取り方がうまいのも、全部仕事の一部だ。客が安心できるように、気を張らずにいられるように、そういう空気をつくっているのだろう。
わかっている。
わかっているのに、今日の「五条さんの前で無理をしてる感じは、あまりないです」という言葉だけは、どうしても仕事の定型文みたいに思えなかった。
あれは、少しだけ本音だった気がする。
そう思いたいだけかもしれない。
都合よく受け取っているだけかもしれない。
でも、もし少しでも本当なら――と考えたところで、五条は眉を寄せた。
その先を考えるのは危ない気がした。
相手は施術者で、自分は客だ。
その関係の上に、勝手な期待を積み上げるのは違う。
リオンを困らせたいわけじゃない。
今の心地よい距離を壊したいわけでもない。
ただ、もう「身体が楽になるから通っている」だけでは説明がつかなくなっているのも事実だった。
スマートフォンが震えて、五条は画面を見る。
仕事の連絡だった。短く返信して、ついでに時刻を確認する。まだ眠るには少し早い。けれど、今日はこれ以上仕事を続けても効率が悪い気がした。
パソコンを閉じ、ソファへ移る。
部屋は静かで、外の車の音だけが遠くに聞こえる。
リオンの前では、少しだけ呼吸がしやすい。
その感覚を、五条は何度も思い返していた。
話しやすいとか、落ち着くとか、そういう言葉でも間違ってはいない。
でも、それだけでは足りない気がする。
近くにいると、気持ちがほどける。
触れられると、身体だけじゃなくて頭の奥の緊張までゆるむ。
目が合うと、少しだけ言葉に詰まる。
そこまで考えて、五条は片手で顔を覆った。
「……いや、もうそれは」
言いかけて、最後までは口にしなかった。
恋だと認めるには、まだ早い気がする。
会っている時間は限られているし、相手のことを何も知らない。仕事以外の顔も、普段どんなふうに過ごしているのかも、好きなものも、嫌いなものも知らない。
知らない相手に、こんなふうに気持ちが傾くものなのか。
それとも、知らないからこそ、都合のいい像を見てしまっているだけなのか。
五条には判断がつかなかった。
ただ、ひとつだけ確かなのは、次に会える日を考えると少し気持ちが上がるということだった。
予約を入れるにはまだ早い。
でも、いつなら自然だろうと考えている自分がいる。
自然って何だ、とも思う。
もうすでに、気持ちはあまり自然ではない。
ソファに座ったまま、五条はスマートフォンを手に取った。
予約画面を開くつもりはなかった。ほんの癖みたいなものだ。けれど指は迷いなく店のページへ向かい、気づけばリオンの名前を見ていた。
画面の中の文字を見つめる。
それだけで、今日のやり取りが細部まで戻ってくる。
「ここ来ると、ちょっと落ち着きます」
そう言ったときの、自分でも驚くくらい素直な声。
「嬉しいです」と返してくれた、やわらかな表情。
「また、来てもいいですか」と聞いたときの、ほんの一瞬の間。
あの間に、何があったのか。
驚いたのか、困ったのか、それとも少しだけ同じように意識してくれたのか。
考えても答えは出ない。
出ないのに、考えるのをやめられない。
五条はスマートフォンを伏せ、深く息を吐いた。
境界がある、と思う。
客と施術者の境界。
踏み越えてはいけない線。
守ったほうがいい距離。
それはたぶん、正しい。
正しいからこそ、余計に厄介だった。
もしリオンがただの知人なら、もっと気軽に誘えたかもしれない。
もし仕事の関係がなければ、もう少しわかりやすく好意を示せたかもしれない。
でも現実には、そのどちらでもない。
だから五条は、境界の手前で立ち止まるしかない。
壊したくない。
でも、近づきたい。
その矛盾が、じわじわと胸の内側を占めていく。
翌日も、その次の日も、仕事は容赦なく続いた。
会議、電話、修正、確認、移動。考えることはいくらでもあるのに、ふとした瞬間にリオンのことが浮かぶ。集中が切れた一秒の隙間に、声や表情が入り込んでくる。
重症だな、と五条は思った。
昼休みにコーヒーを買いに出た帰り、同僚に「なんか今日ちょっと顔やわらかいですね」と言われて、思わず曖昧に笑ってしまった。
何があったんですか、と軽く聞かれても、答えられるわけがない。
何もない。
まだ、何も起きていない。
それなのに、気持ちだけが先に動いている。
夜、自宅に戻ってからも、五条はしばらく考えていた。
このまま通い続けて、どこまでなら許されるのか。
どこから先は、相手を困らせるのか。
答えはやっぱり出ない。
でも、ひとつだけ思う。
もし少しでも、リオンのほうにも同じようなやわらぎがあるのなら。
自分といるときだけ、少し気を張らなくていいと思ってくれているのなら。
その可能性を、簡単には手放したくなかった。
五条はテーブルの上のスマートフォンを見た。
予約を入れるには、まだ少し早い。
けれど、次に会ったとき、もう少しだけ何かを確かめたいと思っている自分がいる。
言葉にするほどではない。
でも、ただの客のままではいられなくなっている。
その自覚だけが、静かに輪郭を持ちはじめていた。
踏み越えるつもりは、まだない。
踏み越えてはいけないとも思っている。
それでも、境界の手前に立ったまま、相手のほうを見てしまう。
戻るには、もう少し遅いのかもしれなかった。




