第18話 揺れる指先
次の予約を入れたのは、前回から少しだけ間を空けてからだった。
五条はその数日のあいだ、何度も自分に言い聞かせていた。
焦る必要はない。
変に意識しすぎるのはよくない。
身体を整えるために通っている、その前提を忘れるな、と。
けれど、そうやって理屈を並べるたびに、かえって自分が何を誤魔化そうとしているのかがはっきりするだけだった。
会いたいのだと思う。
まだその言葉をまっすぐ認めるには抵抗がある。
でも、予約を入れた瞬間に胸の奥が少し軽くなるのだから、もう否定しきれなかった。
当日、店へ向かう足取りは、仕事帰りにしては妙に落ち着かなかった。
早く着きすぎるのも変だと思って、近くの通りを少し遠回りする。そんなことをしている自分に気づいて、五条は小さく苦笑した。
何をしているんだろうと思う。
ただ施術を受けに行くだけだ。
それ以上でも、それ以下でもないはずなのに。
時間ちょうどにインターホンを押す。
少ししてドアが開き、リオンが姿を見せた。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
目が合った瞬間、胸の奥が静かに鳴る。
もう何度か会っているのに、この感覚には慣れなかった。
室内へ案内され、施術室へ入る。
着替えを終えてベッドにうつ伏せになると、背中にそっと手が置かれた。
その瞬間、五条は小さく息を吐く。
「今日はいつもより力が入ってますね」
「……わかりますか」
「はい。肩、少し上がってます」
穏やかな声が落ちてくる。
五条はタオルに顔を埋めたまま、曖昧に笑った。
「仕事、ちょっと長引いて」
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
短いやり取りだけで、少し気持ちがほどける。
やっぱり、この人の前だと呼吸がしやすい。
肩へ圧が入る。
首筋をたどる指先が、張りつめたところをゆっくり探っていく。
何度か通ううちに、五条の身体の癖は少しずつわかるようになっていた。
首は左が詰まりやすく、肩は無意識に上がる。強すぎる圧は好まないけれど、少しくらいなら我慢してしまう。
同じように五条のほうも、リオンの手の入り方や力加減に慣れてきているのか、最初の頃より身体を預けるのが早くなっていた。
「ここ、少し強くないですか」
「大丈夫です」
「無理ならすぐ言ってくださいね」
「はい」
そのやり取りも、前より自然だった。
遠慮の仕方も、確認の入れ方も、少しずつ互いの呼吸に合ってきている気がする。
身体は楽になっていく。
それは確かだ。
でも今の五条にとって、この時間はもうそれだけではなかった。
「……リオンさん」
「はい」
名前を呼ぶと、返事がすぐ近くで落ちる。
それだけで妙に意識してしまう。
「この仕事、長いんですか」
聞いてから、五条は少しだけ後悔した。
急に踏み込んだ気がしたからだ。
けれどリオンは、少し考えるような間を置いてから答えた。
「長い、というほどではないですけど……好きで続けてます」
「好きなんですね」
「はい。誰かが少し楽になるのを見るのは、やっぱり嬉しいので」
その言葉に、五条は目を閉じたまま薄く笑った。
「じゃあ、俺はだいぶ世話になってますね」
「そうですね」
少しだけ笑いを含んだ声が返ってくる。
その軽いやり取りが、思った以上に嬉しかった。
「五条さんは、力が抜けるのが前より早くなりましたし」
「……慣れたんですかね」
「かもしれません。最初より、身体を預けてもらえてる感じはあります」
慣れた。
身体を預ける。
その言葉に、五条の胸の奥が静かに揺れる。
この場所に慣れた。
この人に慣れた。
そう考えると、少しだけ特別なことのように思えてしまう。
施術が進むにつれて、五条の呼吸は深くなっていった。
けれど意識は眠るほど遠のかない。むしろ今日は、近くにある気配をいつも以上にはっきり感じていた。
タオル越しに伝わる手の温度。
身体を起こすときに添えられる指先。
首に触れるときの、ほんのわずかな距離。
仕事のための接触だとわかっている。
わかっているのに、そのひとつひとつが胸に残る。
「では、仰向けお願いします」
声に促され、五条はゆっくり身体を返した。
タオルを整える前のほんの短いあいだだけ、リオンと目が合う。
それだけで、胸の奥が小さく鳴った。
「苦しくないですか」
「大丈夫です」
顔にタオルがかけられる。
視界が閉じると、かえって近くにいる気配だけが濃くなる気がした。
首元へ手が添えられる。
やわらかな圧が入って、五条は小さく息を吐いた。
そのときだった。
体勢を整える流れの中で、リオンの指先が五条の手に触れた。
ほんの一瞬。
ただそれだけのことだった。
けれど、ふたりとも同時にわずかに動きを止めた気がした。
「あ……すみません」
先にそう言ったのはリオンだった。
「いや」
五条も短く返す。
それ以上の言葉が出てこない。
触れたのは偶然だ。
そんなことはわかっている。
でも、その一瞬の熱が妙に鮮明に残った。
リオンはすぐに施術へ戻った。
手つきは乱れていない。声もいつも通りだ。けれど、ほんの少しだけ呼吸が浅くなった気がして、五条はタオルの下で目を閉じる。
自分だけじゃないのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな期待が灯る。
危ない期待だとも思う。
でも、完全には打ち消せなかった。
施術が終わる頃には、身体はかなり軽くなっていた。
それなのに、胸の内側だけは来たときより落ち着かない。
起き上がってタオルを外したとき、視界の先にリオンの顔があった。
いつも通り穏やかな表情なのに、どこか少しだけ静かすぎる気がして、五条はさっきの一瞬を思い出す。
着替えを済ませて戻ると、リオンが飲み物を差し出した。
カップを受け取るとき、さっきのことを思い出してしまって、五条は少しだけ視線を逸らす。
「今日はいつもより、だいぶ張ってました」
「自覚あります」
「無理しすぎですね」
「……たぶん」
リオンは小さく笑った。
その笑い方がやわらかくて、五条はまた少し見とれそうになる。
「でも、来たときより顔色はいいです」
「それは、ここ来たからですかね」
「そうだと嬉しいです」
まっすぐ返されて、五条は言葉に詰まった。
こういうところだと思う。
この人は、必要以上に甘いことは言わないのに、ときどき不意に胸へ落ちる言葉をくれる。
「……嬉しいですよ、十分」
気づけば、そう返していた。
リオンの目がわずかに揺れる。
その揺れを見た瞬間、五条は確信まではいかなくても、何かが確かに動いている気がした。
帰る支度をして玄関へ向かう。
いつものように礼を言って、靴を履く。
ドアの前で振り返ると、リオンが静かに立っていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
少しだけ間があく。
五条はその間に、言うかどうか迷った。
でも、結局口を開く。
「……次、少し早めに来るかもしれません」
リオンが目を瞬く。
「仕事、また忙しそうなので」
五条は自分でも苦しい言い訳だと思いながら続けた。
「身体、ひどくなる前に」
リオンは数秒だけ何かを考えるように黙って、それからやわらかく笑った。
「はい。無理する前に来てください」
その返事に、五条は少しだけ救われる。
拒まれてはいない。
少なくとも、来ることを迷惑だとは思われていない。
「……そうします」
「お待ちしてます」
ドアが閉まる。
外へ出たあとも、手に残っている気がする。
さっき一瞬だけ触れた、指先の熱が。
ただの偶然だ。
意味なんてない。
そう言い聞かせても、胸の奥は静かに騒いでいた。
境界は、まだ越えていない。
越えるつもりもない。
けれど今日、ほんの一瞬だけ、その線の近さを指先で知ってしまった気がした。
帰り道、夜風は少しぬるかった。
それでも五条の手のひらには、まだ消えない温度が残っていた。




