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第19話 ほどけた声

 未沙は、ドアが閉まったあともしばらく入口の前に立ち尽くしていた。


 五条の足音はもう遠ざかっている。

 それなのに、さっきまでそこにいた気配だけが、まだ薄く空気の中に残っている気がした。


 次、少し早めに来るかもしれません。


 その言葉を思い出すたび、胸の奥が静かに揺れる。

 仕事が忙しいから。

 身体がひどくなる前に。

 理由としては、きっとそれで十分なのだろう。


 でも、未沙はもう、そんなふうに素直に受け取れなくなっていた。


 あの言い方は、少しだけためらっていた。

 ただ予定を伝えるだけなら、もっと自然に言えたはずだ。

 それでもわざわざ口にしたのは、少しでも自分の反応を見たかったからではないか――そんなふうに思ってしまう自分がいる。


「……考えすぎ」


 小さく呟いて、未沙はようやく施術室へ戻った。


 ベッドのタオルを外し、シーツを整え、使ったものを片づけていく。

 いつもと同じ作業のはずなのに、今日は指先が少し落ち着かない。

 体勢を整えるとき、ほんの一瞬だけ触れた手の感触が、まだ消えずに残っていた。


 偶然だ。

 ただそれだけのことだ。


 そう思うのに、触れた瞬間に自分の呼吸が浅くなったことを、未沙はごまかせなかった。

 五条も、たぶん気づいていた。

 あの短い沈黙は、気のせいではなかったと思う。


 こんなのはよくない。

 施術中に、あんなふうに意識してしまうなんて。


 未沙は新しいタオルを棚から取り出しながら、そっと息を吐いた。

 仕事として触れているだけなのに、五条に関しては、その「だけ」が少しずつ危うくなっている。


 何度か通ってもらううちに、五条の身体の癖はかなりわかるようになっていた。

 左の首が詰まりやすいこと。

 肩は無意識に上がりやすく、背中の中央に疲れが溜まりやすいこと。

 強い圧は苦手なのに、少し痛いくらいなら我慢してしまうこと。


 そして、最初よりずっと、身体を預けてくれるようになったこと。


 それは施術者として嬉しい変化のはずだった。

 信頼してもらえている証拠だから。

 実際、他の客なら素直にそう受け取れたと思う。


 でも五条だけは違う。


 身体の力が抜けるのを見るたび、安心する。

 少しずつ言葉がやわらぐのを感じるたび、嬉しくなる。

 自分の前でだけ見せる表情があるのではないかと、期待してしまう。


 その期待が、未沙を苦しくさせる。


 リオンとして会っている限り、五条は何も知らない。

 知らないまま、こちらに心をほどいてくる。

 未沙はそれを受け止めながら、同時に隠している。


 ずるい、と思う。


 もし最初に名乗っていたら、こんなふうにはならなかったかもしれない。


 五条は驚いただろうか。

 気まずそうに笑っただろうか。

 それとも、施術を受けること自体をやめて、そのまま二度と来なかっただろうか。


 そう思うと、あのとき言えなかった自分を、未沙は責めきれない。

 卑怯だとわかっている。

 でも、せっかくもう一度会えたのに、それを自分の口で終わらせるのが怖かった。


 未沙だと知った瞬間に離れていくかもしれない。

 その可能性を思っただけで、何も言えなくなった。


 名乗らなかったのは、最初は咄嗟だった。

 けれど次も、その次も言えなかったのは、もう咄嗟なんかじゃない。


 知らないままなら、ここに来てくれるかもしれない。

 リオンとしてなら、五条はやわらかく笑ってくれるかもしれない。

 その可能性を手放したくなくて、未沙は答えを先延ばしにしている。


 それがどれだけずるいことか、わかっていた。


 片づけを終えたあと、未沙はソファに腰を下ろした。

 部屋は静かで、アロマの残り香だけがやわらかく漂っている。


 五条は、少しずつ変わってきている。


 最初の頃は、もっと距離があった。

 礼儀正しくて、必要なことは話すけれど、それ以上は踏み込ませない空気があった。疲れているのに気を張っていて、身体を預けることにも少し時間がかかっていた。


 それが今は違う。


 名前を呼ぶ声がやわらかい。

 冗談に少しだけ笑う。

 「ここに来ると落ち着く」と言う。

 「また来てもいいですか」と、確認するみたいに聞く。


 今日だってそうだ。

 次、少し早めに来るかもしれない――あれはたぶん、ただの報告じゃない。


 そう思ってしまうこと自体が、もうだいぶ危ういのだと未沙はわかっていた。


 期待してはいけない。

 勝手に意味を足してはいけない。

 相手の言葉を、自分に都合よく受け取ってはいけない。


 何度もそう言い聞かせるのに、胸の奥では別の声がする。


 もし、少しでも同じなら。


 その可能性を考えるだけで、心が揺れる。


 スマートフォンが震えて、未沙ははっと顔を上げた。

 仕事の通知ではなく、友人からの短いメッセージだった。何でもない内容に返信して、画面を伏せる。

 そのあとで、自分が一瞬だけ別の通知を期待したことに気づいて、苦く笑った。


 五条から個人的に連絡が来るはずがない。

 電話番号は予約情報として知っている。けれど、それは仕事のための連絡先でしかなかった。

 日時変更や確認のためなら使えても、会いたいから、声が聞きたいから、そんな理由で触れていいものではない。


 知っているのに、遠い。

 そのことが、かえって苦しかった。


 それでも、もし仕事の外で名前を呼ばれたら、と思ってしまう。


 未沙は目を閉じた。

 想像するだけで、胸の奥が熱くなる。


 だめだ、と思う。

 こんなふうに気持ちを育ててしまったら、どこかで必ず苦しくなる。

 自分が未沙だと知ったとき、五条がどう思うのかもわからない。

 驚くかもしれない。

 怒るかもしれない。

 気まずくなって、もう来なくなるかもしれない。


 その可能性を考えるたび、怖くなる。


 でも同時に、このまま何も言わずに会い続けることも、もう簡単ではなかった。


 次に会ったら。

 その言葉が頭をよぎる。


 次に会ったら、少しでも何か変わるだろうか。

 それともまた、何も言えないまま、リオンとして笑うのだろうか。


 答えは出ない。


 ただ、今日の五条の声だけが、何度も耳に残る。


 「……嬉しいですよ、十分」


 あの一言は、思っていたよりずっと深く未沙の中に落ちていた。

 冗談でもなく、軽く流したわけでもなく、ちゃんと受け取って返してくれた声。

 そのやわらかさを思い出すだけで、胸の奥がほどけそうになる。


 五条の前では、自分も少しずつ変わっているのかもしれない。

 最初はただ、気づかれないようにすることだけで精一杯だった。

 次は、平静を保つことに必死だった。

 でも今は、会えること自体を待ってしまっている。


 会いたいと思っている。


 その事実を、未沙はもう否定できなかった。


 客として来る人に、こんな気持ちを向けるべきではない。

 過去を隠したまま近づくなんて、なおさらだ。

 頭ではそうわかっているのに、心は少しも言うことを聞かない。


 未沙はソファの背にもたれ、ゆっくり息を吐いた。


 次に会うまで、また少し時間がある。

 そのあいだに気持ちが落ち着けばいいと思う。

 少し距離を取り戻せればいいとも思う。


 けれどたぶん、会えばまた揺れる。


 名前を呼ばれて。

 目が合って。

 肩に触れて。

 少しずつ力が抜けていくのを感じたら。


 きっとまた、何もなかったふりなんてできなくなる。


 静かな部屋の中で、未沙は自分の手を見下ろした。

 施術のために使う手。

 誰かを楽にするための手。

 そのはずなのに、今日触れた一瞬の熱だけが、まだ指先に残っている気がした。


 境界はまだ越えていない。

 でも、もうただの仕事の手つきだけではいられなくなりそうで、未沙はそっと指を握りしめた。


 ほどけてしまったのは、五条の身体だけじゃないのかもしれない。

 自分のほうも、少しずつ、戻れないところまでやわらいでしまっている気がした。


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