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第20話 近づく間隔

 次の予約通知を見たとき、未沙は一瞬だけ息を止めた。


 画面に表示された名前を、見間違いではないかと思ってもう一度見る。

 五条悟。

 日時を確認して、未沙は小さく唇を結んだ。


 やっぱり、早い。


 前回の施術から、まだそれほど日は経っていない。

 身体の状態を考えれば、絶対におかしいほどではない。忙しい時期なら、早めに整えたいと思うこともある。

 それでも、未沙の知っている五条の来店ペースからすれば、今回は明らかに間隔が短かった。


 予約画面を閉じても、胸の奥のざわつきは消えない。


 身体のため。

 仕事の都合。

 そう考えるべきだとわかっている。


 けれど、前回帰り際に言われた言葉を思い出してしまう。


 次、少し早めに来るかもしれません。


 あれは本当に、そのままの意味だったのだ。

 そう思った瞬間、嬉しさに似たものが胸に灯って、未沙はすぐにそれを押し込めた。


 喜ぶことじゃない。

 期待していいことでもない。


 それでも、来てくれるのだと思うと、どうしても心が揺れる。


 当日までの数日、未沙は何度も自分に言い聞かせた。

 いつも通りでいること。

 余計な意味を持たせないこと。

 前回の一瞬を引きずらないこと。


 けれど、そう思えば思うほど、意識はそこへ戻ってしまう。


 触れた指先。

 止まった呼吸。

 五条の「嬉しいですよ、十分」という声。


 忘れようとして忘れられるほど、軽いものではなかった。


 予約の時間が近づくにつれて、未沙は落ち着かなくなった。

 タオルを整え、オイルを確認し、室温を見て、また時計を見る。

 準備はとっくに終わっているのに、何かしていないと気持ちが定まらない。


 こんなのは、いつもの自分じゃない。


 そう思ったところで、インターホンが鳴った。


 胸が小さく跳ねる。

 未沙はひとつ息を整えてから、玄関へ向かった。


 ドアを開けると、五条が立っていた。


「いらっしゃいませ」

「こんにちは」


 目が合う。

 それだけで、前回より少し近いところに立たれているような気がした。


「今日は少し早かったですね」

 できるだけ自然に言うと、五条はわずかに笑った。


「そうですね」

「お仕事、かなりお忙しいですか」

「忙しいのは忙しいですけど……」


 そこで言葉が切れる。

 未沙はその先を待たないようにして、室内へ案内した。


「お着替え、いつも通りで大丈夫です」

「はい」


 短いやり取りなのに、妙に呼吸が浅い。

 未沙は自分の手のひらをそっと握ってから、施術室へ戻った。


 準備を終えた五条がベッドにうつ伏せになる。

 タオルを整え、肩に手を置いた瞬間、未沙は小さく息を止めた。


 やっぱり、来てよかったと思ってしまう。


 身体に触れれば、余計なことを考えずに済むと思っていた。

 けれど実際には逆だった。

 近くにいることが、かえって意識を鮮明にする。


「前回より、首が張ってますね」

「やっぱりですか」

「少し無理しました?」

「まあ、少し」


 少し、という言い方のわりに、筋肉の硬さははっきりしている。

 未沙は首から肩へ、慎重に圧を入れていった。


「でも、前よりひどくなる前に来られてるので、その意味ではよかったです」

「……そう言ってもらえると助かります」


 その返し方に、未沙の指先がわずかに止まりそうになる。

 前よりひどくなる前に。

 それは前回、五条自身が口にした言葉だった。


 覚えていたのは自分だけじゃないのだと気づいて、胸の奥が熱くなる。


「今日は、少し眠れそうですか」

「どうでしょう」

 五条はうつ伏せのまま、少しだけ笑った気配を見せた。

「でも、ここだと気は抜けます」

「……それならよかったです」


 その一言を返すだけで、未沙は精一杯だった。


 ここだと気は抜けます。


 施術者としてなら、嬉しい言葉だ。

 でも今の未沙には、それ以上に響いてしまう。

 この場所だからなのか。

 自分がいるからなのか。

 そんなことを考える資格はないのに、どうしても切り分けられない。


 肩甲骨の際を流し、背中の張りをほどいていく。

 五条の呼吸は、前回より早く深くなっていった。

 身体がこの空間を覚えているのかもしれない。

 あるいは、未沙の手を。


 そう思った瞬間、自分で自分を止めた。

 だめだ。

 そんなふうに考えてはいけない。


「痛くないですか」

「大丈夫です」

「強さ、平気ならこのままいきますね」

「お願いします」


 会話はいつも通りだ。

 手順も変わらない。

 なのに、流れている空気だけが少し違う。


 前より静かで、前より近い。


 施術が進むにつれて、未沙は五条の小さな変化に敏感になっていった。

 息を吐くタイミング。

 肩の力が抜ける瞬間。

 名前を呼んだときの返事のやわらかさ。


 こんなふうにひとつひとつ拾ってしまうのは、もう仕事だけの集中ではない。


「……リオンさん」

「はい」


 呼ばれて、未沙の胸が小さく跳ねる。


「前より、予約取りたくなってる気がします」

「……え」


 思わず、声が少しだけ揺れた。


 五条はうつ伏せのまま続ける。


「身体が楽になるのもあるんですけど」

「はい」

「それだけじゃないのかもなって、最近ちょっと思います」


 未沙の手が止まりかける。

 止めてはいけないとわかっていて、ぎりぎりのところで動かし続ける。


 それだけじゃない。


 その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちてくる。


 けれど未沙は、すぐには何も返せなかった。

 返してしまえば、何かが変わる気がしたからだ。


「……落ち着ける場所があるのは、いいことだと思います」


 ようやく出たのは、そんな曖昧な言葉だった。

 施術者としてなら、きっと正しい返答だ。

 でも、自分でもわかるくらい、逃げた言い方だった。


 五条は少しだけ黙ってから、「そうですね」と答えた。

 その声は穏やかだったけれど、未沙にはほんの少しだけ寂しく聞こえた。


 胸が痛む。


 でも、これ以上はだめだ。

 今ここで何かを受け取るような返し方をしたら、本当に境界が曖昧になる。


「では、仰向けお願いします」


 未沙はできるだけ平静な声で促した。


 五条がゆっくり身体を返す。

 タオルを整えるために身をかがめたとき、ふいに目が合った。


 近い。


 それだけで、息が詰まりそうになる。


「苦しくないですか」

「大丈夫です」


 いつも通りの確認。

 いつも通りの返事。

 なのに、視線が離れるまでの数秒が、妙に長く感じられた。


 首元へ手を添える。

 前回よりも、触れること自体に意識が向いてしまう。

 未沙は呼吸を整えながら、慎重に指を滑らせた。


 五条の手は、タオルの外で静かに置かれている。

 前回、偶然触れた場所が視界の端に入るだけで、胸が落ち着かない。


 触れないように。

 意識しすぎないように。


 そう思うほど、そこに神経が集まってしまう。


「……今日は、少し静かですね」


 不意に五条が言った。


「え?」

「いつもより」


 未沙は一瞬、返事に詰まる。


「そうですか?」

「なんとなく」


 なんとなく、で見抜かれてしまうことがある。

 五条はそういうところがあるのだと、未沙は今さら思い知る。


「少し、集中してました」

「俺に?」

「……施術にです」


 言ってから、自分で苦しくなる。

 嘘ではない。

 でも、全部でもない。


 五条はそれ以上追及しなかった。

 ただ、ほんの少しだけ息を吐いた気配がした。


 施術が終わる頃には、部屋の空気は来たときよりずっと静かになっていた。

 落ち着いた、というより、互いに何かを飲み込んだあとの静けさに近い。


 起き上がった五条に飲み物を渡す。

 指先が触れないように気をつけたのに、カップを受け取る一瞬、距離が近くなるだけで胸がざわつく。


「今日はどうでしたか」

「かなり楽です」

「よかったです」

「……来てよかった」


 その一言に、未沙は顔を上げた。


 五条はカップを持ったまま、少しだけ視線を落としている。

 何気ない言葉のようでいて、そうではない響きがあった。


「それなら、よかったです」


 また同じような返ししかできない。

 本当はもっと違うことを言いたいのに、言えない。


 五条は小さく笑った。

 その笑い方は責めるものではなかったけれど、未沙の胸にはやさしく刺さった。


 帰り支度を終えて玄関へ向かう。

 靴を履いたあと、五条はすぐにはドアへ手をかけなかった。


「……また来ます」

「はい。お待ちしてます」


 未沙はそう答える。

 答えながら、その言葉が仕事の定型文でしかないことに、ひどく焦れた。


 もっと別の意味で言いたいのに。

 でも、それは許されない。


 五条は一瞬だけ何か言いたげにして、それから「ありがとうございました」と頭を下げた。

 未沙も礼を返す。


 ドアが閉まる。

 足音が遠ざかる。


 静かになった玄関で、未沙はその場に立ち尽くした。


 今日、五条はたしかに一歩近づいた。

 言葉にしきらないまま、それでも伝わる形で。

 たぶん、あれは気のせいではない。


 それなのに、自分は受け取れなかった。

 受け取らなかった。


 正しかったのだと思う。

 そうしなければいけなかったのだとも思う。


 でも、正しいことと、苦しくないことは別だった。


 未沙はそっと目を閉じる。


 近づいてきたのは、間隔だけじゃない。

 五条の気持ちも、たぶん少しずつこちらへ向いている。


 そう感じてしまったからこそ、怖かった。


 もしこのまま、もう一歩近づかれたら。

 次こそ、自分はちゃんと境界のこちら側に立っていられるだろうか。


 その自信が、もうあまりなかった。


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