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第21話 言えないまま

 五条を見送ったあと、未沙はしばらくその場から動けなかった。


 今日の空気は、今までとは違った。

 はっきり何かを言われたわけではない。

 けれど、言葉にならないまま差し出されたものがあった気がする。


 前より、予約取りたくなってる気がします。


 それだけじゃないのかもなって、最近ちょっと思います。


 思い出すたび、胸の奥が熱くなる。

 あれ以上踏み込まなかったのは、五条なりのぎりぎりだったのかもしれない。

 そして、それを受け止めきれずに曖昧な返事で逃げたのは、自分だ。


 未沙はゆっくり施術室へ戻り、使い終えたタオルを外した。

 手は動いているのに、意識はさっきの時間に引き戻され続ける。


 俺に?


 あの問いかけに、心臓が止まりそうになった。

 冗談めかしていたわけでも、探るように責めていたわけでもない。

 ただ静かに、確かめるみたいに聞かれた。


 施術にです。


 そう返すしかなかった。

 それ以外の答えを口にしたら、何かが決定的に変わってしまう気がしたから。


 未沙はタオルを抱えたまま、ふと動きを止めた。


 変わってしまうことの、何がそんなに怖いのだろう。


 五条が近づいてくること。

 気持ちを向けられること。

 それ自体が嫌なわけではない。

 むしろ、苦しいほど嬉しい。


 怖いのは、その先だ。


 もし五条が本当にリオンに惹かれているのだとしたら。

 その気持ちを受け取る前に、自分は言わなければならない。

 自分が未沙であることを。

 最初に名乗れなかったことを。

 知っていて黙っていたことを。


 そこまで考えて、未沙は目を伏せた。


 好きになってもらうほど、言えなくなる。


 そんなのは、あまりにも身勝手だ。

 でも実際、気持ちが近づいていると感じるほど、真実を口にするのが怖くなっていた。


 知られた瞬間に、全部が壊れるかもしれないから。


 片づけを終えてソファに座る。

 部屋は静かで、時計の針の音だけがやけに耳についた。


 五条は、たぶん待っていた。


 今日のあの言い方は、ただ気持ちを漏らしただけじゃない。

 未沙がどう返すかを、きっと見ていた。

 それなのに自分は、何も返せなかった。


 落ち着ける場所があるのは、いいことだと思います。


 思い返すだけで、胸が痛む。

 あまりにも遠い返事だった。

 拒絶ではないけれど、受け取ってもいない。

 五条からすれば、きっと曖昧で、ずるい。


「……ずるいのは、私か」


 小さく呟いた声は、静かな部屋にすぐ溶けた。


 最初に名乗れなかった。

 次も言えなかった。

 そして今は、気持ちに気づきながら、なおさら言えなくなっている。


 五条が来てくれることが嬉しい。

 また会えるのが嬉しい。

 自分の手で楽になってくれるのが嬉しい。


 その全部を失うかもしれないと思うと、怖い。


 未沙は両手を膝の上で握りしめた。

 施術のときには落ち着いて動く手が、今は少し冷えている。


 仕事の連絡先としてなら、五条の番号は知っている。

 予約の変更や確認のために必要な情報だ。

 でも、それだけだ。


 今日のことを思い返して苦しくなったからといって、連絡できるわけじゃない。

 声が聞きたいから。

 あの言葉の意味を確かめたいから。

 そんな理由で触れていいものではない。


 知っているのに、届かない。


 その距離が、未沙にはひどく残酷に思えた。


 スマートフォンを手に取って、また置く。

 当然、そこに五条からの個人的な連絡が来ることはない。

 来るはずがないのに、どこかで期待してしまう自分がいる。


 もし、仕事の外で会えたら。

 もし、リオンではなく未沙として名前を呼ばれたら。


 そんな想像をした瞬間、未沙は強く目を閉じた。


 だめだ。

 そんなことを考えてはいけない。


 今の関係は、ぎりぎり保たれている。

 曖昧で、不自然で、どこか歪んでいるけれど、それでもまだ壊れてはいない。

 でも、少しでも手を伸ばせば、簡単に崩れてしまう気がした。


 五条は今日、たしかに近づいてきた。

 言葉を濁しながら、それでも伝わる形で。

 あれ以上は踏み込まなかったのは、きっと五条も線を見ているからだ。


 越えそうなのは、自分のほうかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、未沙は息を止めた。


 五条はたぶん、ちゃんと止まれる。

 相手を困らせるくらいなら、引くこともできる人だ。

 でも自分はどうだろう。


 来てくれるだけで嬉しい。

 少し早い予約に意味を探してしまう。

 声のやわらかさに期待してしまう。

 触れるたび、何もなかったふりが難しくなる。


 こんな状態で、あと何回平静でいられるのだろう。


 未沙はソファの背にもたれ、天井を見上げた。


 次に会ったら。

 そのときこそ、何か言わなければいけないのかもしれない。


 でも、何を。

 どこまで。

 どうやって。


 最初に言うべきだったことを、今さらどう口にすればいいのかわからない。


 私、未沙なんです。


 その一言で済むはずがない。

 どうして黙っていたのか。

 気づいていたのに、なぜ言わなかったのか。

 聞かれたら、きっと答えに詰まる。


 怖かったから。

 離れてほしくなかったから。

 また会えなくなるのが嫌だったから。


 そんな答えは、あまりにも自分勝手だ。


 それでも、たぶん本当だった。


 未沙はゆっくり息を吐いた。

 胸の奥が重い。

 好きだと認めるほど、苦しくなる。

 会いたいと思うほど、言えなくなる。


 矛盾している。

 でも、その矛盾の中にもう深く沈んでしまっている気がした。


 窓の外は、いつの間にか薄暗くなっていた。

 夕方と夜のあいだの、輪郭の曖昧な時間。

 今の自分に少し似ていると、未沙は思う。


 進みたいのか、止まりたいのかもわからない。

 近づきたいのに、壊したくない。

 言わなければいけないのに、言った瞬間を想像するだけで足がすくむ。


 それでも時間だけは進んでいく。

 次の予約の日も、きっとすぐに来る。


 未沙はそっと自分の手を見下ろした。


 誰かを楽にするための手。

 境界を守るための手。

 そのはずなのに、五条に触れるたび、この手が自分の気持ちまで伝えてしまいそうで怖くなる。


 言えないまま、また会うのだろうか。


 その問いに答えは出なかった。


 ただひとつわかるのは、五条が近づくたびに、自分の中の何かも確実にほどけていくということだけだった。


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