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第22話 名前を返す

 その日の最後の予約枠は、静かだった。


 夕方から降り出した雨が、窓の外で細く続いている。

 強くはないのに、途切れずに落ちる音だけが、部屋の空気を少し閉じたものにしていた。


 未沙はタオルを整えながら、何度目かわからない深呼吸をした。


 今日こそ、と思っている。

 そう思うたびに、胸の奥が重くなる。


 次に会ったら。

 何か言わなければいけない。

 このままではいけない。


 そう考え続けてきたのに、いざその日になると、言葉は喉の奥で固まってしまう。

 言えば終わるかもしれない。

 言わなければ、もっとひどくなるかもしれない。


 どちらにしても怖かった。


 インターホンが鳴る。

 未沙は一瞬だけ目を閉じ、それから玄関へ向かった。


 ドアを開けると、五条が立っていた。

 傘を閉じたばかりなのか、肩口にわずかに雨の気配が残っている。


「いらっしゃいませ」

「こんばんは」


 いつも通りの挨拶。

 それだけなのに、未沙の胸は落ち着かない。


「雨、大丈夫でしたか」

「そんなにひどくなかったです」

「よかったです」


 短い会話のあと、五条を室内へ案内する。

 何も変わらないように見える。

 でも未沙には、今日の空気がいつもより張っているように感じられた。


 準備を終えた五条がベッドにうつ伏せになる。

 未沙はタオルを整え、肩へそっと手を置いた。


 触れた瞬間、五条の身体がわずかに息を吐く。

 その反応に、未沙の胸がまた揺れる。


「今日は首から肩にかけて、少し強いですね」

「やっぱりですか」

「お仕事、詰まってました?」

「まあ、いつも通り忙しいです」


 いつも通り。

 その言い方に、未沙は少しだけ救われる。

 会話はまだ、いつもの形を保っている。


 首筋から肩へ、ゆっくり圧を流していく。

 五条の呼吸は少しずつ深くなっていくのに、未沙のほうは逆に浅くなるばかりだった。


 今日こそ言う。

 そう決めていたはずなのに、触れているうちに、その決意が揺らいでいく。


 このまま何も言わずに終えられたら、どれだけ楽だろう。

 でも、それではもうだめだとわかっている。


「……リオンさん」


 不意に呼ばれて、未沙の指先がわずかに止まる。


「はい」

「この前、ちゃんと返せなかったんですけど」


 胸が強く鳴った。


 五条の声は、うつ伏せのままでもはっきりしていた。

 静かで、でも迷いきってはいない声だった。


「前に、予約取りたくなってるって言ったじゃないですか」

「……はい」

「あれ、たぶん自分で思ってたよりちゃんとした理由があって」


 未沙は何も言えない。

 言葉を挟めば、流れが途切れてしまいそうだった。


「最初は、本当に身体のためでした」

「ここに来ると楽になるし、助かってたし」

「でも、途中からそれだけじゃなくなったんです」


 未沙の手のひらが熱くなる。

 触れている肩越しに、自分の鼓動まで伝わってしまいそうだった。


「ここに来ると落ち着くとか、安心するとか、そういう言い方でごまかしてたけど……」

 五条は一度だけ息をついた。

「たぶん俺、リオンさんに会いたくて通ってました」


 その一言で、未沙の中の何かが大きく揺れた。


 嬉しい。

 そう思ってしまったことを、もう否定できなかった。


 身体が楽になるからじゃない。

 この場所が静かだからだけでもない。

 自分に会いたくて来ていた。


 その事実が、胸の奥へまっすぐ落ちてくる。


 けれど、同時に苦しかった。

 その気持ちは、リオンに向けられている。

 今ここにいる自分に向けられているからこそ、なおさらこのまま受け取ってはいけない。


「身体が楽になるのも本当です」

 五条は続ける。

「でも、それだけじゃない」

「声とか、空気感とか……そういうものに会いたかったんだと思います」


 未沙は目を伏せた。

 喉の奥が熱い。

 何か言わなければいけないのに、すぐには声にならない。


「困らせたいわけじゃないんです」

「ただ、もう自分の中でなかったことにできなくて」


 その言葉で、未沙はようやく息を吸った。


 逃げてはいけない。

 ここでまた曖昧に返したら、もっとずるくなる。


 未沙はそっと手を離した。

 施術の流れを止めることに、五条が小さく息を呑む気配がする。


「……そんなふうに言ってもらえて、嬉しいです」


 声が少し震えた。

 それでも、今度はごまかさなかった。


「今の私を見て、そう言ってくれたこと、本当に嬉しいです」


 五条がゆっくり顔を横に向ける気配がした。

 未沙はその視線を感じながら、指先を強く握りしめる。


「でも、その前に……あなたに隠していたことがあります」


 部屋の空気が、しんと静まる。


 雨の音だけが遠く続いていた。


「それを知ったら、今の気持ちが変わるかもしれない」

「変わらないでいてほしいって、勝手に思ってしまいます」

「でも、それでも……言わなきゃいけないんです」


 言葉を重ねるたび、胸が痛む。

 怖い。

 今すぐやめてしまいたいくらい怖い。


 それでも、ここで止まったら、もう二度と言えない気がした。


「私……未沙なんです」


 五条の呼吸が止まる。


 未沙は唇を噛みしめそうになるのをこらえて、続けた。


「あなたが前によく知っていた、あの未沙です」

「最初に会ったとき、気づいてました」

「でも、言えなかった」


 五条はすぐには何も言わなかった。

 信じられないものを見るような目で、こちらを見ている気配だけが伝わってくる。


「本当に……?」

 低い声が、かすかに揺れる。


「はい」


 未沙はうなずいた。

 けれど、それだけでは足りない気がした。

 言葉だけでは、あまりにも急で、あまりにも勝手だ。


 未沙はゆっくり髪を下ろした。

 指先が冷えているのに、頬だけが熱い。


「ごめんなさい」

 声が少しかすれる。

「気づいていたのに、ずっと言えなくて……隠していて、ごめんなさい」


 言い終えた瞬間、身体の力が抜けそうになった。

 ずっと胸の奥に抱えていたものを、ようやく外へ出したのに、楽になるどころか、息が苦しい。


 返事がない。


 未沙は怖くて顔を上げられなかった。

 沈黙が長くなるほど、足元から冷えていく気がする。


 やっぱり、だめだったのかもしれない。

 驚かせた。

 呆れさせた。

 気持ち悪いと思われたかもしれない。


 そう思ったときだった。


未沙は震える指で髪に触れた。

 ゆっくり耳へかけ、左の首筋を見せる。


「……ここ、覚えてますか」


 五条の視線が、その場所で止まった。


 一瞬、息をすることさえ忘れたように動かない。


 やがて、小さく口が開く。


「……そのホクロ」


 声がかすかに震えていた。


「前に……髪を結んだとき…」


 未沙は目を閉じた。


 覚えていてくれた。


 あの日は、本当に何でもない日だった。

 他愛ない話をしながら歩いていて、風で髪が揺れただけ。

 五条は何気なく「そこにホクロあるんだ」と笑って、それで終わった。


 未沙だけが、その一言をずっと覚えていた。


「……覚えてる」


 五条は、今度ははっきりと言った。


 その言葉だけで、未沙の胸の奥に張りつめていた時間が音もなくほどけていく。


 言葉で説明するより先に、五条は未沙を思い出していた。


「……未沙?」


 低く、確かめるような声がした。


 未沙はゆっくり顔を上げた。


 五条はすぐには起き上がらず、けれど明らかに動揺した目でこちらを見ていた。

 信じられないものを見るような、それでいて目を逸らせないような視線だった。


「ごめんなさい」

「黙っていたのは、卑怯だったと思ってます」

「でも……また会えたのに、名乗った瞬間に終わるのが怖くて」


 そこまで言って、未沙はとうとう視線を落とした。


「来てくれなくなるのが、嫌だったんです」


 その本音は、謝罪よりもずっと恥ずかしかった。

 自分勝手で、弱くて、どうしようもない理由だった。


 また沈黙が落ちる。


 未沙はその場に立ったまま、指先を握りしめた。

 何を言われても受け止めるしかない。

 怒られても、呆れられても当然だと思った。


 けれど、返ってきたのは予想していたものとは少し違う声だった。


「……そっか」


 五条はそれだけ言って、目を閉じた。

 混乱しているのがわかる。

 すぐに整理できる話ではないのだと、未沙にも痛いほどわかった。


「本当に、ごめんなさい」

 未沙はもう一度言う。


「いや……」

 五条はゆっくり息を吐いた。

「ごめん、ちょっと、まだ頭が追いついてないです」


「はい……」


 未沙はそれ以上何も言えなかった。


 当然だ。

 急すぎる。

 しかも、ずっと隠されていたのだから。


 五条はしばらく黙ったあと、静かに起き上がった。

 タオルを押さえながら座るその動作が、いつもより少しぎこちない。


 未沙は一歩下がった。

 近づいてはいけない気がした。


「……でも」

 五条が顔を上げる。

「さっき言ったことは、嘘じゃないです」


 未沙は息を止めた。


「リオンさんに会いたくて来てた、っていうのは本当です」

「でも今それを、未沙だって聞いたからって、すぐなかったことには……たぶん、できない」


 胸の奥が強く痛んだ。

 救われたのか、まだ苦しいのか、自分でもわからない。


 五条は眉を寄せたまま、言葉を探している。


「ただ、ちょっと……整理する時間はほしいです」

「すみません」

「いや、謝らないでください。いや、謝る話ではあるのかもしれないけど……」


 そこで五条は小さく苦く笑った。

 その笑い方に、未沙は少しだけ泣きそうになる。


「でも、俺も今すぐきれいに答えられないから」

「……はい」


「だから、今日は少しだけ考えさせてください」


 未沙はうなずいた。

 それしかできなかった。


「わかりました」


 声はかろうじて保てたけれど、胸の中はひどく揺れていた。


 五条は着替えのために立ち上がり、未沙は施術室を出た。

 ドアを閉めたあと、壁に背を預ける。

 膝が少し震えている。


 言ってしまった。

 とうとう、言ってしまった。


 終わったのかもしれない。

 でも、まだ終わっていないのかもしれない。


 どちらなのか、今はわからない。


 数分後、着替えを終えた五条が出てくる。

 玄関まで見送るあいだ、二人ともほとんど何も話さなかった。


 靴を履いたあと、五条はドアの前で一度だけ振り返る。


「……今日は、ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございました」


 いつものやり取りなのに、もう同じ意味ではなかった。


 五条は少し迷うように視線を揺らしてから、静かに言った。


「また、連絡します」


 未沙は小さくうなずく。


「はい」


 ドアが閉まる。

 足音が遠ざかる。

 雨の音だけが残る。


 未沙はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


 怖かった。

 今も怖い。

 でも、もう隠してはいない。


 それだけで、胸の痛みの奥に、ほんのわずかな静けさがあった。


 名前を返した。

 ようやく、自分の名前で五条の前に立った。


 その先に何があるのかは、まだわからない。

 拒まれるかもしれない。

 受け入れられないかもしれない。

 それでも、もう嘘のままではいられなかった。


 未沙はそっと首筋に触れた。

 さっき見せた小さなホクロのあたりに、まだ五条の視線の熱が残っている気がした。


 雨はまだ降っている。

 けれど、ずっと張りつめていた何かが、少しだけほどけた気がした。


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