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第23話 ほどけずに残った名前

 未沙が名前を明かしてから、三日が過ぎた。


 長いのか短いのか、自分でもわからない時間だった。

 仕事をしているあいだは、考えないようにできる。

 予約の確認をして、部屋を整えて、来た人に向き合っているあいだだけは、余計なことを押し込められる。


 けれど、ひとりになるとだめだった。


 あの日の沈黙。

 五条の揺れた目。

 首筋のホクロを見たときの、息を呑む気配。

 そして最後に残した、「また、連絡します」という言葉。


 未沙は何度もスマートフォンを見て、そのたびに自分で苦くなる。

 仕事用の連絡先に、私情を期待するなんておかしい。

 そう思うのに、画面が光るたび胸が跳ねる。


 連絡は、まだ来ていなかった。


 当然かもしれない。

 あんなふうに打ち明けられて、すぐに答えが出るほうがおかしい。

 むしろ時間が必要だと言われたことに、未沙は少しだけ救われてもいた。

 その場で拒まれなかっただけで十分だと、自分に言い聞かせることもできる。


 でも、待つ時間はやさしくない。


 考えなくていいことまで考えてしまう。

 やっぱり気持ち悪かったのではないか。

 卑怯だと思われたのではないか。

 もう会いたくないと思われていたらどうしよう。


 そこまで考えて、未沙は首を振った。

 答えの出ないことを繰り返しても仕方がない。


 それでも、心は少しも静かにならなかった。


 その日の営業を終え、片づけをしていたときだった。

 テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震える。


 未沙の手が止まる。


 画面を見るまでの数秒が、ひどく長く感じた。


 表示された名前を見た瞬間、胸が強く鳴る。


 五条悟。


 未沙は息を詰めたまま、メッセージを開いた。


『少しだけ、話せますか』


 たったそれだけの文面なのに、指先が冷える。

 未沙は画面を見つめたまま、すぐには返せなかった。


 話す。

 何を。

 どこまで。


 怖い。

 でも、逃げたくはなかった。


 未沙は一度深く息を吸ってから、短く返した。


『はい。大丈夫です』


 既読はすぐについた。

 そのあと少し間があって、次のメッセージが届く。


『今から行ってもいいですか』


 未沙は目を見開いた。


 こんな時間に。

 予約ではなく、施術でもなく。

 ただ話すために来るということだ。


 胸の奥が大きく揺れる。

 けれど、ここで断る理由はなかった。


『はい。お待ちしています』


 送信したあと、未沙はしばらくその場に立ち尽くした。

 手が少し震えている。


 来る。

 五条が来る。

 客としてではなく、話すために。


 その事実だけで、足元が落ち着かなくなる。


 未沙は急いで室内を見回した。

 施術の準備ではなく、ただ人を迎えるための空気を整える。

 飲み物を出せるようにして、ソファの位置を少し直して、それから自分の髪に触れた。


 何を気にしているのかわからなくなって、未沙は小さく息を吐く。


 数十分後、インターホンが鳴った。


 未沙は胸を押さえるようにして玄関へ向かう。

 ドアを開けると、五条が立っていた。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 雨は止んでいた。

 けれど夜の空気は少し湿っていて、五条の髪に外の匂いが残っている気がした。


「急にすみません」

「いえ……入ってください」


 五条を中へ通す。

 いつもなら施術室へ案内する流れになるのに、今日は違う。

 未沙はリビングのソファを示した。


「こちらへどうぞ」

「ありがとうございます」


 向かい合って座る。

 それだけで、未沙は妙に落ち着かなかった。


 ベッド越しではない距離。

 施術者と客の形ではない向き合い方。

 それが、今さらのように二人の関係を変えて見せる。


 未沙は温かい飲み物を差し出した。

 五条は礼を言って受け取る。

 指先が触れそうで触れない、そのわずかな距離にまで意識が向いてしまう。


 しばらく、どちらもすぐには口を開かなかった。


 先に沈黙を破ったのは五条だった。


「この前、ちゃんと返せなくてすみませんでした」

「いえ……当然だと思います」

「いや、でも、あのままにしたくなくて」


 五条はカップを持ったまま、少し視線を落とした。

 言葉を選んでいるのがわかる。


「正直、最初はかなり混乱しました」

「……はい」

「未沙だったんだ、っていうのもそうだし」

「気づいてたのに言わなかったっていうのも、すぐには飲み込めなかった」


 未沙は黙って聞く。

 胸が痛む。

 でも、それは受け止めなければいけない痛みだった。


「ごめんなさい」

 小さく言うと、五条は首を振った。


「責めたいわけじゃないんです」

「ただ、自分の中で整理するのに時間がかかりました」


 その言い方が、五条らしいと思った。

 感情のままぶつけるのではなく、ちゃんと自分の中を見ようとしている。


「最初、俺は未沙の面影を追ってここに来てました」


 未沙の指先がぴくりと動く。


 やっぱり、と思う。

 どこかでそう感じていた。

 でも、本人の口から聞くと、胸の奥が静かに痛んだ。


「最初に会ったとき、似てると思ったんです」

「雰囲気とか、声の感じとか、たぶんそういう細かいところが」

「だから気になって、来るようになった」


 五条はそこで一度言葉を切った。


「でも、途中からそれだけじゃなくなった」

「未沙に似てるからじゃなくて、リオンさん本人に会いたくなってたんです」


 未沙は息を止める。


「ここに来ると落ち着くとか、安心するとか、そういうのも本当でした」

「でもたぶん、それだけじゃなくて」

「会いたかったんです。リオンさんに」


 その言葉は、あの日聞いたものと同じなのに、今は少し違う重さで胸に落ちてくる。


「だから、告白したとき、自分の中ではちゃんと線を引いたつもりでした」

「未沙のことを引きずったままじゃなくて、今ここにいる人に気持ちを向けたつもりだった」


 未沙は目を伏せた。

 その“つもり”の重さがわかる気がした。


「そうしないと、未沙に悪い気がしてたんです」


 その一言に、未沙は顔を上げる。


 五条は苦く笑った。


「面影を追って来たくせに、途中から別の人を好きになるなんて、勝手だなって」

「だから、自分の中ではちゃんと終わらせてからじゃないとだめだと思ってました」


 未沙の胸が、ぎゅっと痛む。


 そんなふうに考えていたなんて、思わなかった。

 五条の中で、自分はもう過去の人になっていたのかもしれないと怖れていた。

 でも実際には、過去にすることすら、簡単にはできなかったのだ。


「でも、未沙だったって聞いて」

 五条は静かに続ける。

「三日ずっと考えてました」


 部屋の空気が、少しだけ張る。


「俺、何を好きになってたんだろうって」

「未沙の面影を追ってたのか」

「リオンさんを好きになったのか」

「それとも、最初から全部つながってたのか」


 未沙は何も言えない。

 その問いは、たぶん自分にも向けられている気がした。


「で、考えてたんですけど」

 五条はそこで少しだけ息を吐いた。

「たぶん、忘れたわけじゃなかったんだと思います」


 未沙の心臓が、強く鳴る。


「未沙を断ち切って、別の人を好きになったんじゃなかった」

「面影を追ってたのは入口だったかもしれないけど」

「惹かれていったのは、ちゃんと今のあなただった」


 未沙の喉が熱くなる。


「だから……未沙だったって知って、混乱はしたけど」

「嫌だったことは、一回もなかったです」


 その言葉に、未沙は息を詰めた。


 五条はまっすぐこちらを見る。


「むしろ、未沙でよかったって思いました」


 未沙は何も言えなかった。

 言葉にしようとすると、喉の奥が震えてしまう。


 ずっと怖かった。

 知られたら終わるかもしれないと思っていた。

 卑怯だと責められても仕方ないと思っていた。


 それなのに、返ってきたのは責める言葉ではなく、そんなふうに受け止めようとする声だった。


「……でも」

 五条が少しだけ表情をやわらげる。

「黙ってたことが平気だった、とはまだ言えないです」


 未沙は小さくうなずいた。


「はい」

「そこは、ちゃんと痛かったです」

「……ごめんなさい」

「うん。でも、だからこそ今日来ました」


 五条はカップをテーブルに置いた。


「曖昧なままにしたくなかった」

「未沙だったって知って、それで全部なかったことにするのも違うと思ったし」

「逆に、何もなかったみたいにすぐ戻るのも違うと思ったから」


 未沙はその言葉を静かに受け止める。


 五条はやっぱり、ちゃんと向き合おうとしてくれている。

 簡単に許すわけでもなく、簡単に切るわけでもなく。

 その中間のいちばん苦しい場所に、きちんと立ってくれている。


「この前言ったこと、取り消すつもりはないです」

 五条の声は静かだった。

「会いたかったのも本当だし、惹かれてたのも本当です」


 未沙の指先が、膝の上でそっと震える。


「ただ、今すぐ答えを急ぐんじゃなくて」

「今の未沙として、ちゃんともう一回向き合いたいです」


 その言葉に、未沙はようやく顔を上げた。


 五条の目は、迷いが消えたわけではない。

 でも、逃げていない目だった。


「……それでも、いいですか」


 未沙の声は、少しかすれていた。


「はい」

 五条はすぐに答える。

「むしろ、そうしたいです」


 未沙は唇を噛みしめそうになるのをこらえた。

 泣くつもりなんてなかったのに、視界が少しだけ滲む。


「ありがとうございます」

 やっとそれだけ言うと、五条は少し困ったように笑った。


「お礼を言われることでもないです」

「でも……来てよかったです」


 その言い方が、少し前の施術後と重なる。

 けれど今は、もう同じ意味ではない。


 未沙は小さく笑った。

 ほんの少しだけ、力が抜ける。


「……私も、来てくれてよかったです」


 言ったあとで、胸が熱くなる。

 今のは仕事の定型文ではない。

 未沙自身の言葉だった。


 五条もそれに気づいたのか、少しだけ目を細めた。


 窓の外では、雨上がりの夜が静かに広がっている。

 まだ全部がほどけたわけではない。

 痛みも、戸惑いも、残っている。


 それでも、切れずに残ったものがある。


 未沙という名前。

 リオンとして重ねてきた時間。

 そして、そのどちらにも向けられた五条の気持ち。


 簡単ではないからこそ、ここから先はごまかさずに進めるのかもしれない。


 未沙はそっと首筋に触れた。

 あの日見せたホクロのあたりに、まだ何かが残っている気がする。


 追っていた面影は、もう過去だけのものではない。

 今ここにいる自分へ、ちゃんと届き直している。


 そのことが、未沙にはどうしようもなくあたたかかった。


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