第24話 こぼれた呼び方
五条があの日、話をしに来てから一週間が過ぎた。
何かが急に変わったわけではない。
けれど、何も変わっていないとも言えなかった。
未沙は相変わらず店に立ち、予約を受け、いつも通りに働いている。
五条もまた、以前と同じように予約を入れて来る。
ただ、以前と同じではいられないものが、二人のあいだには確かに残っていた。
名前を知っている。
気持ちも知っている。
それでもまだ、どう触れていいのかは探っている途中だった。
その日の予約は夕方だった。
日が落ちきる前の、少しだけやわらかい光が部屋に残る時間。
インターホンが鳴り、未沙は入口へ向かう。
ドアを開けると、五条が立っていた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
いつものやり取り。
けれど、未沙の胸は前より少しだけ静かだった。
怖さが消えたわけではない。
でも、もう全部を隠したままではないというだけで、息のしやすさが違う。
「お仕事、今日はどうでしたか」
「ちょっと長引きました」
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
そんな短いやり取りさえ、前よりやわらかい。
未沙はそれを意識しないようにしながら、五条を室内へ案内した。
準備を終えた五条がベッドに横になる。
未沙はタオルを整え、肩へ手を置いた。
触れた瞬間、五条が小さく息を吐く。
その反応は前と変わらないのに、未沙の感じ方だけが少し違っていた。
この人はもう、自分が未沙だと知っている。
それでもここに来てくれている。
その事実が、触れるたび静かに胸へ落ちてくる。
「今日は肩より、背中のほうが張ってますね」
「わかりますか」
「はい。いつもより少し硬いです」
「最近、座りっぱなしが多くて」
未沙は背中へゆっくり圧を流しながら、呼吸を整える。
会話は自然だ。
不自然に避けることも、無理に踏み込むこともない。
そのことに、未沙は少しだけ救われていた。
「この前は……ありがとうございました」
不意に五条が言う。
未沙の手がわずかに止まりかけて、すぐにまた動く。
「こちらこそ、来てくださってありがとうございました」
「ちゃんと話せてよかったです」
「……はい」
短い返事しかできない。
あの夜のことを思い出すだけで、今でも胸の奥が熱くなる。
「まだ、全部うまく整理できてるわけじゃないですけど」
五条は静かに続けた。
「でも、前よりちゃんと会えてる気がします」
未沙は目を伏せた。
その言葉がうれしくて、少し苦しい。
「私も……そう思います」
声にすると、思った以上に本音だった。
五条はそれ以上何も言わなかった。
未沙もまた、施術に意識を戻す。
肩甲骨のきわをゆっくりほぐし、背中の緊張をほどいていく。
五条の呼吸は少しずつ深くなっていった。
落ち着く、と思う。
最初にここへ来たときから、そうだった。
理由はうまく説明できなかった。
施術が丁寧だから、というだけでは足りない何かがあった。
声かもしれないと思ったことはある。
でも、記憶の中の未沙の声とは少し違っていた。
未沙の声は、もっと素の温度が近かった気がする。
感情がそのままにじむような、やわらかさがあった。
目の前のリオンの声は、それよりも少し落ち着いている。
静かで、整っていて、仕事のためにきちんと輪郭を与えられた声だった。
だから、同じだとは思わなかった。
それでも、ときどき妙に懐かしかった。
言葉そのものではなく、言葉の置き方が似ているのかもしれないと思った。
安心させるように少しだけ間を取るところ。
語尾の熱をやわらかく逃がすところ。
気を遣うときほど、声が静かになるところ。
そういう細い部分が、記憶のどこかをかすめた。
初対面の相手に抱くにはおかしいくらい、妙に気持ちがほどけた。
会話が多いわけでもないのに、沈黙が苦じゃなかった。
目が合うたび、何かを思い出しかけるような感覚だけが残った。
未沙に似ている。
最初は、たぶんそれで説明していた。
似ているから気になる。
似ているから、また来てしまう。
似ているから、安心する。
そう思っていたはずなのに、通うたびにその説明は足りなくなった。
未沙に似ているからじゃない。
この人だから会いたい。
そう思う瞬間が増えていった。
それでも、完全に切り分けられていたわけじゃなかったのかもしれない。
今ならわかる。
自分はずっと、リオンの中にある未沙の気配に触れていたのだ。
顔立ちや雰囲気だけじゃない。
言葉の選び方。
気を遣いすぎるところ。
ふとしたときに見せる、少しだけ寂しそうな目。
そして、落ち着いた声の奥に、ごくたまにのぞく素の響き。
そういうものの端々に、無意識に懐かしさを感じていた。
だから落ち着いた。
だから気になった。
だから、会いたくなった。
未沙を忘れたから、リオンに惹かれたわけじゃなかった。
未沙の気配に引き寄せられながら、それでもちゃんと今ここにいるリオン自身を好きになっていた。
そのことを、あの日名前を聞かされてから何度も考えた。
驚いた。
痛かった。
どうして言ってくれなかったんだとも思った。
でも同時に、どこかで納得している自分もいた。
ああ、だからだったのか、と。
あの懐かしさも。
あの落ち着かなさも。
会うたび少しずつ深くなっていった感情も。
全部、ばらばらじゃなかったのだ。
施術の後半、五条が仰向けになる。
未沙はタオルを整えながら、いつもより少しだけ近い距離にいることを意識してしまう。
目が合う。
ほんの一瞬なのに、未沙はすぐ視線を外した。
「……緊張してます?」
五条が少しだけ笑いを含んだ声で言う。
「してません」
「してる人の返しです」
「してませんってば」
思わず少しだけ早口になる。
五条が小さく笑った気配がして、未沙は余計に落ち着かなくなった。
「前より、表情わかりやすいですね」
「それは……困ります」
「なんでですか」
「なんでもです」
五条はまた笑う。
その笑い方がやわらかくて、未沙は少しだけ安心する。
けれど次の瞬間、五条がふと真顔になった。
「でも、無理してないならよかったです」
その一言に、未沙は手を止めそうになる。
「無理、ですか」
「はい」
「俺が来ることで、気を遣わせてないかなって」
「……そんなこと」
「ないですか」
まっすぐに聞かれて、未沙は言葉に詰まる。
ない、とは言い切れない。
気を遣っていないわけではない。
意識していないわけでもない。
でも、それは嫌だからではなかった。
「気は遣います」
未沙は正直に言った。
「でも……嫌ではないです」
五条の目が静かに揺れる。
「そうですか」
「はい」
「よかった」
その言い方があまりに素直で、未沙の胸がきゅっと縮む。
施術を終え、五条が着替えに入る。
未沙は先に部屋を出て、飲み物の準備をした。
今日は施術後、少しだけお茶を出そうと思っていた。
特別な理由をつけるほどではない。
でも、すぐ帰してしまうのが惜しいと思ってしまった自分に、未沙は気づいていた。
着替えを終えた五条が出てくる。
「お時間、もし大丈夫なら」
未沙は少し迷いながら言った。
「お茶、飲んでいきますか」
五条が一瞬だけ目を見開く。
それから、やわらかく笑った。
「大丈夫です。いただきます」
その返事に、未沙は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
ソファに向かい合って座る。
前に話をした夜と同じ場所なのに、空気はあのときよりやわらかい。
「こういうの、初めてですね」
五条がカップを持ちながら言う。
「……そうですね」
「なんか、ちょっと変な感じです」
「変ですか」
「悪い意味じゃなくて」
五条は少し笑う。
「うれしいほうの、落ち着かない感じです」
未沙は返事に困って、カップへ視線を落とした。
そんなことをまっすぐ言われると、どうしていいかわからない。
「未沙さんは」
五条が静かに呼ぶ。
その呼び方に、未沙の指先が止まる。
リオンさん、ではなく。
未沙さん。
まだ少し距離を残した、でも確かに自分へ向けられた呼び方だった。
「はい」
「今、俺とこうしてるの……困ってないですか」
未沙は顔を上げた。
五条の目は冗談ではなく、本気でそれを気にしている目だった。
この人は本当に、何度でもそこを確かめる。
自分の気持ちより先に、相手を困らせていないかを見ようとする。
その不器用なやさしさが、未沙にはたまらなく愛しかった。
「困ってないです」
未沙は今度は迷わず言った。
「少し緊張はしますけど」
「やっぱりしてるじゃないですか」
「それは……しますよ」
「俺だけじゃなかったんだ」
「何がですか」
「緊張してるの」
そう言って笑う五条に、未沙もつられて少し笑った。
そのときだった。
五条がカップを置こうとして、少しだけ手を滑らせる。
中身がこぼれるほどではない。
けれど危なっかしい音がして、未沙は反射的に身を乗り出した。
「大丈夫ですか」
「すみません、平気です」
五条が慌ててカップを持ち直す。
その拍子に指先へ少し熱い雫が落ちたらしく、五条がわずかに眉を寄せた。
「熱っ……」
「え、大丈夫ですか」
未沙は反射的に五条の手をそっと取った。
「見せてください」
指先を確かめる。
赤くはなっているものの、大きな火傷ではなさそうだ。
安堵した、その瞬間だった。
「……ひかるん、大丈夫?」
言葉が、自分でも止められないままこぼれた。
言った瞬間、空気が止まった。
未沙自身が、いちばん先に固まる。
しまった、と思ったがすでに遅かった。
もう二度と口にしないつもりだった呼び方だった。
今の自分が、こんなふうに自然に出していい名前じゃない。
未沙は目を見開いたまま、息を詰める。
「……ご、ごめん」
あわてて言い直そうとする。
「今のは、その……」
最後まで続かなかった。
五条が、何も言わずにこちらを見ていたからだ。
驚いたような、でもどこか信じられないものを受け取ったような目だった。
その視線に、未沙の頬が一気に熱くなる。
昔、そう呼ばれていた。
何度もじゃない。
ふざけた調子で、でもどこか親しさのにじむ声で、たまにだけ。
そのたびに少し照れくさくて、でも嫌じゃなかった。
むしろ、自分だけが知っている距離みたいで、内心ではうれしかった。
もう戻らないと思っていた。
あの頃の呼び方も、空気も、全部。
なのに今、目の前の未沙が、何も考えずにそれをこぼした。
昔の名残みたいに。
でも、懐かしさだけじゃなく、今の自分を気遣う声として。
しかもその声は、さっきまでのリオンの声とは少し違って聞こえた。
落ち着かせるために整えられた響きではなく、もっと素の温度に近い声。
抑えていたものが一瞬だけほどけて、記憶の中の未沙に触れた気がした。
胸の奥が、ひどく揺れる。
ああ、と思う。
やっぱり自分は、ずっとこの人の中に残っていたものに惹かれていたのだ。
忘れたつもりで、手放したつもりで、それでもほどけずに残っていた距離に。
落ち着いたリオンの声の奥に、たまにだけのぞく未沙の響き。
そのわずかな気配に、何度も心が引き留められていた。
そして今、その距離が、過去ではなく現在のものとして触れてきた。
「……うれしいです」
低い声が落ちて、未沙がはっと顔を上げる。
五条は少し困ったように笑っていた。
でも、その耳がわずかに赤い。
「今の、反則です」
「反則って……」
「だって、急に」
五条は言いかけて、少しだけ視線をそらす。
「そんなふうに呼ばれたら、平気でいられないです」
未沙は何も言えなくなる。
胸の奥が、じわじわと熱い。
恥ずかしいのに、どこか泣きそうでもあった。
「もう言いません」
未沙は小さく言う。
「……たぶん」
「たぶんなんですね」
「気をつけます」
「気をつけないでほしい気もします」
五条がそう言って笑う。
未沙は困ってしまって、でも少しだけ笑ってしまう。
その空気が、ひどくやさしかった。
昔の名前がこぼれた。
でもそれは、過去に引き戻すためではなかった。
今ここにいる五条へ向けて、未沙の中に残っていた親しさが、形を変えて出てきただけだ。
そのことが、未沙には少しだけ救いだった。
「……手、本当に大丈夫ですか」
未沙があらためて聞くと、五条はうなずく。
「大丈夫です」
「ならよかったです」
「でも、ちょっと得した気分です」
「何がですか」
「秘密の呼び方、聞けたので」
未沙は思わず眉を寄せる。
「秘密じゃないです」
「じゃあ、俺だけじゃなかったんですか」
「……そういう意味じゃなくて」
言い返しながら、未沙は自分でも顔が熱いのがわかった。
五条はそんな未沙を見て、またやわらかく笑う。
その笑顔を見ていると、不思議と苦しくない。
恥ずかしいのに、逃げたくはならない。
少しずつ、何かが変わっている。
無理に進めているわけではないのに、ちゃんと近づいている。
未沙はカップを持ち直し、小さく息をついた。
名前は不思議だ。
呼び方ひとつで、距離も、時間も、気持ちも揺れる。
五条さん。
そして、たった一度だけこぼれた、ひかるん。
どちらも、今の二人にはまだ少し眩しい。
けれど、眩しいまま目をそらさずにいられるくらいには、もう互いを見つめ始めていた。
窓の外では、夕暮れがゆっくり夜へ変わっていく。
部屋の中には、湯気の残るお茶の香りと、言葉にしきれないやわらかな熱が残っていた。
未沙はそっと視線を上げる。
向かいにいる五条もまた、静かにこちらを見ていた。
その目を、今度はもう、すぐにはそらさなかった。




