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第25話 名前を呼び直す夜

 五条が帰ったあとも、未沙はしばらくソファに座ったままだった。


 カップの中身はもうほとんど残っていない。

 部屋の中に漂う茶葉の香りも、少しずつ薄れていく。

 それなのに、さっきまでここにいた五条の気配だけが、まだやわらかく残っている気がした。


 ひかるん。


 たった一度、こぼれただけの呼び方。

 もう言わないつもりだったのに、あんなふうに自然に出てしまった。


 未沙は両手で顔を覆い、小さく息を吐く。


 思い出すだけで恥ずかしい。

 けれど、それ以上に胸の奥が熱かった。


 五条は驚いていた。

 でも、嫌そうではなかった。

 むしろ、うれしいと言った。


 そのことが、未沙の心を何度も揺らす。


 昔の呼び方が、今の自分たちに許されるのかはまだわからない。

 あれはただ、気が抜けた瞬間にこぼれたものだ。

 戻りたいわけじゃない。

 過去をなぞりたいわけでもない。


 それでも、あの一言が五条に届いたときの表情を思い出すと、胸が締めつけられるようにやさしく痛んだ。


 翌日からも、日常は続いた。


 仕事をしているあいだは、考えすぎずにいられる。

 けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。


 カップを持つ手。

 少し赤くなっていた耳。

 「反則です」と言った、困ったような声。


 未沙は何度も首を振って、そのたびに自分を落ち着かせた。


 そんなふうに数日が過ぎたころ、仕事用の端末にメッセージが入った。


『今週、もし空いてる日があれば、施術じゃなくて少しだけ会えませんか』


 未沙は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 施術じゃなくて。

 会えませんか。


 その言葉の並びだけで、胸が大きく鳴る。


 客としてではなく。

 店と施術者としてでもなく。

 ただ会いたいという意味で送られてきた文面だった。


 未沙は一度深く息を吸ってから、返信を打つ。


『はい。大丈夫です』


 送ってから、少し迷う。

 どこで会うのか、時間はどうするのか、聞くべきことはいくつもある。

 けれど次のメッセージは、未沙が考えるより早く届いた。


『店じゃない場所で会いたいです』

『未沙さんが嫌じゃなければ』


 未沙はその一文を何度も見返した。


 嫌じゃなければ。

 五条はいつも、そこを置いてくれる。

 自分の気持ちを押しつける前に、未沙の逃げ道を残してくれる。


 そのやさしさに甘えてばかりではいけないと思うのに、救われてしまう。


『嫌じゃないです』

『では、駅前のカフェでも大丈夫ですか』


 そう返すと、五条からすぐに了承が来た。


 約束の日は、二日後の夜になった。


 当日、未沙は鏡の前で何度も自分を見た。


 仕事のときの服ではない。

 かといって、気合いを入れすぎたくもない。

 何を着ても落ち着かず、結局いちばん無難なワンピースに決めるまでにずいぶん時間がかかった。


 メイクも、少し迷った。


 店にいるときのように整えたほうがいいのか。

 それとも、もっと未沙らしい顔で行くべきなのか。


 リオンとして会っていたときの自分と、あまり違いすぎないほうがいいのかもしれない。

 そんなことを考えてしまったのは、五条が惹かれていたのが、最初はたしかにリオンだったと思っているからだ。


 もし店の外で会ったとき、違うと思われたらどうしよう。

 リオンではない自分を見て、少しでも気持ちが遠のいたら。


 そう考えるだけで、胸の奥がひやりとした。


 結局、仕事のときほど作り込まず、それでも何もしないわけでもない、曖昧なところに落ち着いた。

 少しだけ唇に色をのせて、目元はやわらかく整える。

 リオンそのものではない。

 でも、未沙そのままでもない。


 こんなの、らしくない。

 そう思うのに、どうしても平静ではいられなかった。


 店の外で会うのは初めてだ。


 施術室の照明も、タオルも、仕事の声もない場所で、五条と向き合う。

 それがどういうことなのか、未沙はまだうまく整理できていなかった。


 約束の時間より少し早く着いたカフェは、平日の夜らしくほどよく静かだった。

 窓際の席に案内され、未沙は落ち着かないまま水のグラスに触れる。


 数分後、入口のベルが鳴った。


 反射的に顔を上げると、五条が店内を見回していた。

 未沙と目が合う。

 その瞬間、五条の表情が少しだけやわらいだ。


 未沙の胸が、また大きく鳴る。


 五条が席まで来る。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 店で会うときとは違う。

 それだけのことなのに、空気がまるで違った。


「待たせましたか」

「いえ、私も今来たところです」


 ありきたりなやり取りなのに、どこかぎこちない。

 五条も少し緊張しているのか、椅子を引く手つきがいつもより慎重に見えた。


 注文を済ませて、少しだけ沈黙が落ちる。


 未沙はグラスの縁を見つめた。

 何か話さなければと思うのに、最初の一言が見つからない。


「なんか」

 先に口を開いたのは五条だった。

「すごく変な感じですね」


 未沙は思わず顔を上げる。


「変、ですか」

「はい。でも悪い意味じゃなくて」

 五条は少し笑う。

「店で会うときより、緊張してます」


 その言葉に、未沙も少しだけ肩の力が抜けた。


「……私もです」

「やっぱり」

「やっぱり、って」

「俺だけじゃないなら、ちょっと安心します」


 そう言って笑う五条に、未沙もつられて小さく笑う。


 その笑いで、ようやく少し空気がほどけた。


「こうして外で会うと」

 五条が静かに言う。

「本当に、もう前とは違うんだなって思います」


 未沙はその言葉を胸の中で受け止める。


 前とは違う。

 たしかにそうだ。


 客と施術者として会っていた時間も、嘘ではない。

 でも今は、その枠の外で向き合おうとしている。


「……今日、少し迷ったんです」


 気づけば、未沙はそう言っていた。


 五条が目を向ける。


「何をですか」

「メイクとか、服とか」

「店にいるときと、あんまり違いすぎないほうがいいのかなって」


 五条は少しだけ目を見開いて、それからやわらかく笑った。


「偶然ですね」

「俺も今日は、リオンさんなのか、未沙さんなのかって考えながら来ましたよ」


 未沙は思わず顔を上げる。


「……そうなんですか」

「はい」

 五条は静かにうなずく。

「でも、実際に会ったら、どっちかを確かめる感じじゃなかったです」

「ちゃんと、今ここにいる未沙さんに会えたって思いました」


 未沙の胸が、ひどく静かに揺れる。


 その言葉だけで、さっきまで胸の奥にあった不安が少しほどけていく気がした。

 リオンではない自分を見て、違うと思われるかもしれない。

 そんなふうに怖がっていたことが、少しだけ恥ずかしくなる。


「……でも」

 未沙は視線を落としたまま、小さく続ける。

「五条さんが会ってたのは、リオンだから」

「未沙っぽくしすぎて、違うって思われたらどうしようって……少し考えました」


 言い終えたあとで、急に恥ずかしくなる。

 こんなことを口にするつもりではなかったのに。

 でも、いったんこぼれた本音はもう戻せなかった。


 五条はすぐには答えなかった。

 少しだけ驚いたように目を見開いて、それから静かに口を開く。


「違うなんて、思いません」


 その声は、迷いなくまっすぐだった。


「たしかに最初に会っていたのはリオンさんです」

「でも、俺が気になってたのは、たぶん最初からそれだけじゃなかったです」


 未沙は息を止める。


「店にいるときの未沙さんも好きです」

「でも、今日ここにいる未沙さんを見て、違うとは思わないです」

「むしろ、会えてよかったって思ってます」


 未沙は何も言えなくなる。


 会えてよかった。

 その言葉が、胸の奥へ深く落ちていく。


 リオンではない自分を見て、遠のくどころか。

 今ここにいる未沙として受け取ってくれている。


 そのことが、どうしようもなくうれしかった。


「……そうですか」

 やっとそれだけ言うと、五条は少しだけ笑った。


「はい」

「だから、迷わなくてよかったのにって思いました」

「でも、迷ってくれたのは……少しうれしいです」

「俺のこと、ちゃんと考えてくれたってことだから」


 未沙は視線を落とす。

 そんなふうに言われると、余計に顔が熱くなる。


「こうして外で会うと」

 五条がもう一度、やわらかい声で言う。

「本当に、今の未沙さんと会ってるんだなって思います」


 未沙はその言葉を、今度はさっきよりも深く受け止めた。


 飲み物が運ばれてくる。

 会話はそこで一度途切れた。


 カップから立ちのぼる湯気を見つめながら、未沙は自分の鼓動を落ち着かせようとする。

 けれど、少しも静かにならない。


「この前のことなんですけど」

 五条が不意に言った。


 未沙の肩がわずかに揺れる。


「……この前?」

「はい」

 五条は少しだけ笑う。

「呼び方のことです」


 未沙は一気に顔が熱くなるのを感じた。


「……忘れてください」

「無理です」

「そんな即答しなくても」

「だって、うれしかったので」


 まっすぐ言われて、未沙は視線をそらすしかない。


「もう言いません」

「たぶん、でしたよね」

「……覚えてるんですね」

「覚えてます」


 五条の声はやわらかい。

 からかっているようでいて、本気で大事にしている響きだった。


「でも」

 五条は少しだけ真面目な顔になる。

「今日は、それを言ってほしいわけじゃないです」


 未沙はそっと顔を上げる。


「じゃあ、何ですか」

 五条は一瞬だけ迷うように息をついた。

 それから、静かに言う。


「名前を、呼んでほしいです」


 未沙は言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。


「……名前」

「はい」

「五条さん、じゃなくて」


 その一言で、胸の奥が大きく揺れる。


 未沙は思わず黙り込んだ。


 名前で呼ぶ。

 それはたぶん、たったそれだけのことじゃない。


 距離が変わる。

 関係が変わる。

 今まで守ってきた線を、自分のほうから少し越えることになる。


「無理にとは言いません」

 五条が静かに続ける。

「でも、もし今の未沙さんが、少しでもそうしてもいいと思ってくれるなら」

「一回だけでも、聞きたいです」


 未沙はカップに触れたまま、指先に力を込める。


 昔なら、もっと簡単だった。

 名前を呼ぶことも、ふざけた調子で距離を縮めることも。

 でも今は違う。


 今の自分がその名前を口にしたら、きっと昔とは違う意味になる。

 だから怖い。


 けれど、怖いだけではなかった。


 呼びたい、と思っている自分がいる。

 もうずっと前から、心のどこかで。


 未沙はゆっくり息を吸った。

 そして、五条を見た。


 五条は何も急かさず、ただ静かに待っていた。


 その目を見ていると、逃げたくなくなる。


「……輝くん」


 声にした瞬間、未沙の胸が強く鳴った。


 店で使う落ち着いた声ではなかった。

 もっと素に近い、少しだけ震えた声だった。


 五条の目が見開かれる。


 未沙はその反応を見た途端、急に恥ずかしくなって視線を落とした。


「……これで、いいですか」

 小さく言うと、しばらく返事がなかった。


 言わなければよかっただろうか。

 やっぱり早すぎたのかもしれない。

 そんな不安が胸をよぎった、そのとき。


「だめです」

 五条が低く言った。


 未沙ははっと顔を上げる。


 五条は困ったように笑っていた。

 でも、その顔は少し赤い。


「よすぎて、だめです」

「……何ですか、それ」

「すみません。うまく言えないです」

 五条は一度視線を落としてから、もう一度未沙を見る。

「うれしすぎて、たぶん今すごく変な顔してます」


 未沙は思わず笑ってしまった。

 緊張と恥ずかしさでいっぱいだったのに、その不器用な言い方があまりにも五条らしかったからだ。


「してませんよ」

「してます」

「してないです」

「未沙さんがそう言うなら、少し安心します」


 そう言って笑う五条の目は、ひどくやわらかかった。


 未沙は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。


 名前を呼んだだけなのに。

 たったそれだけのことで、こんなにも空気が変わるなんて思わなかった。


「……一回だけです」

 未沙は照れ隠しのように言う。

「今日は」

「今日は、なんですね」

「揚げ足取らないでください」

「取ってないです」

「取ってます」

「じゃあ、気をつけます」


 そんなやり取りさえ、どこか甘くて、未沙は困ってしまう。


 窓の外はすっかり夜になっていた。

 ガラスに映る店内の灯りが、二人のあいだの空気をやわらかく包んでいる。


 五条はカップに口をつけてから、ふと静かな声で言った。


「名前って、不思議ですね」

「……そうですね」

「呼ばれ方が変わるだけで、こんなにうれしいんだって思いました」


 未沙はその言葉に、そっと目を伏せる。


 自分も同じだった。

 五条さん、と呼ぶのと。

 輝くん、と呼ぶのとでは。

 胸の鳴り方がまるで違う。


「未沙さん」

 五条がまた呼ぶ。


「はい」

「また、会ってくれますか」


 未沙は顔を上げた。


 その問いは、もう施術の予約の話ではない。

 ただ会いたいという意味での、次の約束だった。


 未沙は少しだけ息を止める。

 でも、今度は迷わなかった。


「……はい」

 小さく、でもはっきりとうなずく。

「会いたいです」


 言ってから、自分で少し驚く。

 けれど、もう取り消したいとは思わなかった。


 五条の目が静かにやわらぐ。


「よかった」

 その一言が、未沙の胸に深く落ちる。


 店の外で会う夜。

 名前を呼び直した夜。

 それはたぶん、何かを劇的に変える出来事ではない。


 けれど、今まで曖昧だったものに、少しずつ輪郭を与えていく夜だった。


 未沙はカップを持ち直し、そっと息をつく。


 もう昔のままではない。

 でも、昔を失ったままでもない。


 懐かしさの上に、今の気持ちが重なっていく。

 そのことが、怖いのに、どうしようもなくうれしかった。


 向かいにいる五条――輝を見つめる。


 その目は、店で見るときより少し近い。

 けれど近すぎて苦しいのではなく、近づいても大丈夫だと思わせる目だった。


 未沙は小さく笑う。

 輝もまた、やわらかく笑い返した。


 その笑顔を見たとき、未沙はようやく思った。


 ああ、たぶん私は。

 もう一度、この人の名前を呼んでいくのだ。


 今度は、昔の続きとしてではなく。

 今の自分の気持ちで。


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