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第26話 触れたい夜

 外で会ったあの夜から、数日が過ぎた。


 未沙の中では、まだ何も落ち着いていなかった。

 むしろ前よりずっと、五条の存在が日常の中へ入り込んできている気がした。


 仕事をしていても、ふとした拍子に思い出す。

 カフェの灯り。

 向かい合って座った距離。

 名前を呼んだときの、五条の顔。


 輝くん。


 あの一度きりの呼び方が、未沙の胸の奥で何度も静かに反響する。


 もう昔とは違う。

 そう思っていたのに、違うからこそ苦しいほど近く感じることがある。


 次の予約は、その三日後に入っていた。


 未沙は端末に表示された名前を見て、少しだけ息を止める。

 もう驚くようなことではない。

 それでも、会えるとわかるだけで胸が落ち着かなくなる。


 店で会うのは、外で会ったあとでは初めてだった。

 仕事としての場所。

 整えられた距離。

 それが今の自分にとって、少しだけありがたい気もした。

 けれど実際には、そんなに簡単ではなかった。


 インターホンが鳴る。

 玄関を開けると、五条が立っていた。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 たったそれだけで、空気が少し変わる。

 外で会った夜を知ってしまったあとでは、いつもの挨拶さえ前と同じには戻れなかった。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 五条が靴を脱いで入ってくる。


 未沙は静かに息を整え、施術の準備を始めた。


「この前は、ありがとうございました」

 タオルを整えていると、五条が静かに言った。


「こちらこそ」

「来てくれて、うれしかったです」

 言ってから、自分で少し驚く。

 でも、取り消したいとは思わなかった。


「俺も、うれしかったです」

 その声だけで、胸が少し熱くなる。


 施術が始まる。


 肩に触れ、背中へ圧を流し、呼吸の深さを確かめる。

 いつもと同じ手順。

 いつもと同じ動き。


 けれど、指先だけがいつもより敏感だった。


「……今日、少し緊張してます?」

 うつ伏せのまま、五条が言う。


「してません」

「この前も同じこと言ってました」

「してませんってば」

「じゃあ、俺の気のせいですね」

「そういうことです」


 小さく笑う気配が返ってくる。

「俺は少しだけ緊張してます」


 その一言に、未沙の手がわずかに止まる。

「どうしてですか」


「店で会ってるのに、不思議と店だけの時間じゃない気がするからです」


 未沙は返事をしなかった。

 それは、自分も感じていたことだった。


 仕事の声を使っていても。

 仕事として触れていても。


 もう、それだけでは済まなくなっている。


「……困ります」

 小さくこぼすと、

「困らせたいわけじゃないです」

 五条は静かに返した。


「わかってます」

 それ以上は、お互い何も言わなかった。

 未沙は施術に意識を戻す。


 背中から肩へ。

 肩から首筋へ。


 今日の自分は、いつもより丁寧すぎるくらい丁寧だった。

 仕事だからではない。


 もっと長く、この人に触れていたい。

 そんな気持ちが、どこかに生まれてしまっていることを認めたくなかった。


「この前」

 五条が静かに口を開く。

「カフェで会ったとき、少し雰囲気が違いましたよね」


「……違いましたか」

「はい。でも、自然でした」

 未沙は思わず目を伏せる。

「あの日、少しだけ迷ったんです」


 鏡の前で立ち止まった時間を思い出しながら、小さく話す。

「店と同じほうがいいのかなって」

「やっぱり」

 五条は笑った。

「考えてくれてたんですね」


 その言葉に、未沙は照れくさくなって小さく息を吐く。


「でも、俺は安心しました」

「安心?」


「ちゃんと未沙さんに会えた気がしたので」

 未沙は返事をしなかった。


 その一言だけで十分だった。

 それ以上は話さず、二人とも静かな時間に身を委ねた。


 やがて最後の手技が終わる。


「……お疲れさまでした」

「ありがとうございます」


 五条が起き上がる。

 未沙は先に部屋を出て、湯を沸かした。

 着替えを終えた五条がソファへ座る。

 二人の前に湯気の立つカップが並ぶ。


 施術中は触れていた。

 今は触れていない。

 それなのに、不思議と距離はさっきより近く感じる。


「今日、思ったことがあるんです」

 五条が静かに言う。

「何ですか」

「未沙さんに触れられると、前より意識してしまいます」


 未沙は思わず目を伏せる。

「……そういうこと、言わないでください」

「すみません」

 少し照れたように笑う声。


 その空気に、未沙の肩から少し力が抜けた。


「未沙さんは」

 五条が静かに続ける。

「今、俺に触れるの、平気ですか」


 未沙はカップを見つめた。

 平気ではない。

 仕事だから触れている。

 それでも、もう以前と同じ気持ちではいられなかった。


「……平気じゃないです」

 静かな声で答える。

「前みたいには、できません」


 少し間を置いて、

「でも」

 未沙は顔を上げる。

「嫌じゃないです」


 その一言だけだった。

 五条は少しだけ目を細める。

「そっか」


 それ以上は何も言わない。

 その沈黙が、どんな言葉よりやさしかった。

 しばらく静かな時間が流れる。


 やがて五条がカップを置いた。

「今日は、このくらいで帰ります」

 未沙は少しだけ寂しさを覚えた。

 でも、それが正しいこともわかっていた。


「また会えますか」

 その問いは穏やかだった。

「……はい」

 未沙は自然とうなずく。

「私も、会いたいです」


 五条は静かに笑った。

「よかった」


 その一言だけで十分だった。

 玄関まで見送る。


「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」


 ドアが閉まる。

 足音が遠ざかる。


 未沙はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 触れたい夜だった。

 でも、触れなかった。

 それでよかったのだと思う。


 急がないからこそ、ここまで来られた。

 これからもきっと、少しずつ近づいていけばいい。

 未沙は静かに自分の指先を見つめる。

 今日もこの手で、五条に触れた。


 それでも、まだ届いていない距離が、二人の間には残っている。


 その距離を焦らず越えていきたいと、初めて思った。


 夜は静かに更けていく。

 胸の奥には、あたたかな熱だけが、いつまでも残っていた。

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