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第27話 会えない数日

 外で会ったあの夜から、数日が過ぎた。


 未沙はいつも通り、サロンの扉を開けた。

 照明を落ち着いた明るさに整え、タオルをたたみ、アロマの香りを確かめる。

 鏡の前に立ち、髪を整え、口元にやわらかな笑みをつくる。


 リオンになる。


 そうしてしまえば、だいたいのことは大丈夫だった。

 余計な感情を表に出さずに済むし、誰にも踏み込まれない。

 未沙のままでは揺れてしまうことも、リオンでいればきれいに隠せる。


 ずっと、そうしてきた。


 けれど最近は、その境目が少しずつ曖昧になっている。


 五条の前では、とくに。


 名前を呼んだ夜。

 触れたいと知った夜。


 あの二つの夜を境に、未沙の中で何かが静かに変わってしまった。


 仕事をしているあいだは、まだいい。

 リオンとして笑って、リオンとして触れて、リオンとして見送る。

 そうしているあいだは、自分の輪郭を保っていられる。


 けれど、ひとりになるとだめだった。


 予約の合間に端末を開く。

 新しい通知はない。

 それだけのことに、胸の奥が少しだけ静かに沈む。


 次の予約は、まだ入っていない。


 それが当たり前だとわかっている。

 毎週必ず来るわけではないし、仕事もあるのだろう。

 少し間が空くことだって、今までにもあった。


 それなのに、端末を開くたび、無意識に名前を探してしまう。


 探して、ないことに気づいて。

 そのたびに、胸の奥が少しだけ冷える。


 こんなのはよくない、と未沙は思う。


 予約が入るかどうかで気持ちが揺れるなんて。

 仕事と私情を分けられていないみたいで、ひどく不格好だ。


 けれど、もうとっくに気づいていた。


 分けきれなくなっているのは、今さら否定できない。


 昼の空き時間、未沙はバックヤードの小さな椅子に腰かけてスマートフォンを開いた。

 通知は何もない。


 わかっていたことなのに、画面を見た瞬間だけ胸の奥が少し静かに沈む。


 未沙は端末を伏せ、紙コップのコーヒーに口をつけた。

 少しぬるくなった苦みが、妙に舌に残る。


 こんなふうに、休憩のたびに画面を確かめてしまう自分が嫌だった。

 待っているみたいで。

 実際、待っているのだと認めるしかなくて。


 会わないほうが、落ち着くはずだった。


 店の外で会ってしまったから。

 名前を呼んでしまったから。

 仕事として触れるだけでは済まなくなってしまったから。


 少し距離が空けば、また元に戻れるかもしれない。

 リオンとして、きれいに笑っていられるかもしれない。


 そう思っていたのに。


 会えない時間は、未沙を落ち着かせるどころか、逆に五条の存在をはっきりさせていった。


 会いたい。


 その気持ちだけが、日を追うごとに輪郭を持っていく。


 夜、最後の客を見送ってから、未沙はひとりで店内を整えた。

 タオルを片づけ、オイルの蓋を閉め、照明を少しずつ落としていく。


 静かになったサロンは、いつもより広く感じた。


 ここにいれば、未沙はリオンでいられる。

 やわらかく笑って、余計なことは見せずに済む。

 そういう場所として、自分で作ってきたはずだった。


 なのに今は、その静けさの中でさえ、五条の声を思い出してしまう。


 未沙は小さく息を吐き、ソファに腰を下ろした。


 リオンでいれば平気だった。

 少なくとも、そう思っていた。


 未沙として見られるのは、少し怖い。

 素顔を知られるみたいで。

 守ってきたものを、ひとつずつ外されていくみたいで。


 それでも、五条の前では。

 未沙として会えたことが、うれしかった。


 そのことが、いちばん厄介だった。


 家に帰って、メイクを落とす。

 鏡の中の自分は、もうリオンではない。


 未沙は洗面台に手をついたまま、しばらく顔を上げられなかった。


 今日も、何も来なかった。

 それだけのことなのに、胸の奥が少し痛む。


 こんなふうに待つくらいなら、いっそ何も始まらなければよかったのだろうか。


 そう思いかけて、未沙はすぐに首を振る。


 違う。


 始まらなければよかったなんて、思えない。


 名前を呼んだ夜も。

 向かい合ってお茶を飲んだ時間も。

 店で触れながら、前とは違う沈黙を知った夜も。


 どれも、なかったことにはしたくなかった。


 そのとき、小さく通知音が鳴った。


 未沙の心臓が跳ねる。


 洗面台の横に置いていたスマートフォンを見る。

 表示された名前に、息が止まった。


 五条さん。


 指先が少しだけ震える。

 未沙は一度深呼吸してから、メッセージを開いた。


『この前のお茶、おいしかったです』

『ありがとうございました』


 たったそれだけの文面だった。


 なのに、未沙の胸はひどく騒いだ。


 予約の連絡ではない。

 施術の確認でもない。

 リオンに向けた文面ではなく、あの夜、向かい合っていた未沙に届いた言葉のように思えた。


 そのことが、思っていた以上にうれしかった。


 未沙はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。


 何と返せばいいのかわからない。


 こちらこそ、でもいい。

 ありがとうございました、でもいい。

 それだけで十分なはずだった。


 けれど、それでは足りない気がした。


 会いたい。


 その気持ちが、胸の奥で静かに形になっていく。


 未沙は何度か文字を打っては消し、また打って、指を止めた。


 こんなことを送ったら、どう思われるだろう。

 重いだろうか。

 困らせるだろうか。


 それでも、もうごまかしたくなかった。


『こちらこそ、ありがとうございました』

『……また、会いたいです』


 送信した瞬間、未沙は息を止めた。


 言ってしまった。

 自分から。


 画面を見つめたまま、鼓動だけがうるさい。


 変に思われただろうか。

 急すぎただろうか。

 やっぱり送らなければよかったかもしれない。


 そんな後悔が胸をよぎったころ、短い通知音が鳴る。


『……うれしいです』

『俺も、会いたいです』


 未沙はその一文を見て、しばらく動けなかった。


 スマートフォンの画面には、短いやり取りが残っている。


『……また、会いたいです』


『俺も、会いたいです』


 未沙は画面を閉じることができなかった。


 胸の奥に灯った熱が、静かに広がっていく。


 次に会える日まで、この気持ちはきっと消えない。


 未沙はスマートフォンを胸元に引き寄せ、小さく目を閉じた。


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