表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/34

第28話 ほどけていく境界

 次の予約が入ったのは、その二日後だった。


 端末に表示された名前を見た瞬間、未沙は指先を止めた。


 五条 輝


 胸の奥が、静かに波立つ。


 会いたいと送った。

 俺も会いたいと返ってきた。

 そのやり取りがあってから初めて、店で会う。


 未沙は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 うれしい。

 その気持ちは、もう隠しようがなかった。


 けれど同時に、少し怖かった。


 店で会えば、未沙はリオンでいなければならない。

 やわらかく笑って、整った距離を保って、何も知らないふりをして触れなければならない。


 できるだろうか。


 あの短いやり取りを知ってしまったあとで。

 会いたいと、自分から言ってしまったあとで。


 未沙は端末を伏せ、しばらく動かなかった。


 会えるのはうれしい。

 でも、会うほどに境界が曖昧になっていく気がする。


 リオンでいれば守られる。

 未沙でいれば、揺れる。


 そのはずだったのに、最近はリオンでいる時間にまで、未沙の気持ちが滲み出してしまいそうになる。


 予約の時間が近づくにつれて、落ち着かなくなった。


 タオルを整える。

 オイルを並べる。

 照明を確かめる。

 何度も確認しているのに、まだ足りない気がして、また手を動かす。


 鏡の前に立つ。


 髪を整え、口元にやわらかな笑みをつくる。


 リオンになる。


 そう思っても、今日はうまく切り替わらない。


 鏡の中の自分は、たしかにいつもの顔をしている。

 けれど、その奥にいる未沙のほうが、いつもよりずっと近い。


 インターホンが鳴った。


 未沙は一度だけ深く息を吸って、扉へ向かった。


「こんばんは」

「……こんばんは」


 扉を開けると、五条が立っていた。


 たった数日ぶりなのに、ひどく久しぶりに感じる。


 五条も同じことを思ったのか、一瞬だけ目を細めた。


「どうぞ」

「お邪魔します」


 いつも通りのやり取り。

 いつも通りの声。


 それなのに、あのメッセージを知っているだけで、空気の温度が少し違って感じられる。


 五条が靴を脱いで入ってくる。

 未沙はその背を見ないようにしながら、施術室へ案内した。


「今日はお疲れですか」

「少しだけ」

「肩、張ってます?」

「たぶん。最近ずっと座りっぱなしで」


 仕事の会話をする。

 リオンとしての声を使う。

 それで平静を保とうとする。


 けれど、五条がふとこちらを見るたびに、未沙の胸は小さく揺れた。


 施術が始まる。


 肩に触れる。

 背中へ圧を流す。

 呼吸の深さを確かめる。


 いつもと同じ手順。

 いつもと同じ動き。


 なのに、指先だけが落ち着かない。


 触れるたびに思い出してしまう。

 会いたいと送った夜のことを。

 俺も会いたいと返ってきた、あの短い文字を。


「……今日、少し静かですね」


 うつ伏せのまま、五条が言った。


「いつもこんな感じです」

「そうでしたっけ」

「そうです」


 未沙はできるだけ平坦に返す。


 けれど五条は、小さく笑った気配を見せた。


「緊張してます?」

「してません」

「この前も聞いた気がします」

「気のせいです」

「じゃあ、そういうことにしておきます」


 その言い方がやさしくて、未沙は少しだけ困る。


 からかわれているわけではない。

 追いつめられているわけでもない。

 ただ、見透かされている気がする。


 それが落ち着かない。


 未沙は意識を手元に戻した。

 肩甲骨のきわをゆっくり押し流し、首筋へ指を移す。


 今日の五条は、いつもより体の力が抜けていない気がした。

 完全に緩んでいない。

 どこかで、こちらを意識している。


 それに気づいてしまうと、未沙まで余計に落ち着かなくなる。


「この前」


 五条が静かに口を開く。


 未沙の手が、ほんのわずかに止まる。


「……はい」


「メッセージ、うれしかったです」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


 未沙は返事をしなかった。

 できなかった。


 あの短いやり取りを、こうして声にされるだけで、急に逃げ場がなくなる。


「未沙さんから言ってもらえると思ってなかったので」


 その声は、うれしそうで。

 でも、押しつけがましさは少しもなかった。


 未沙は目を伏せる。


「……あまり、言わないでください」

「すみません」

「余計に、意識するので」


 言ってから、自分で息を止めた。


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


 五条の沈黙が落ちる。

 その静けさが、かえって熱を持っていた。


「……俺だけじゃなかったんですね」


 低く、やわらかな声だった。


 未沙は何も言えない。


 否定できない。

 したくもない。

 でも、認めるにはまだ近すぎる。


 施術を続けるしかなかった。


 背中から肩へ。

 肩から首筋へ。

 いつもより丁寧に、いつもより慎重に。


 触れているあいだだけは、言葉の代わりになる気がした。


 けれど本当は、触れるほどにごまかせなくなっていく。


 この人に触れるのが、仕事だからだけではなくなっている。


 その事実が、指先から伝わってしまいそうで怖かった。


「未沙さん」


 五条がまた静かに呼ぶ。


「……何ですか」


「無理してませんか」


 未沙は思わず手を止めた。


「無理、とは」

「ちゃんとリオンさんでいようとしてる感じがするので」


 その一言に、未沙の呼吸が浅くなる。


 見抜かれていた。


 やわらかく笑って、整った声を使って、何も変わっていないふりをして。

 そうやって保っていたものを、五条は静かに見ていた。


「……仕事ですから」


 ようやくそれだけ言う。


「はい」

 五条は素直にうなずいた。

「でも、無理はしないでほしいです」


 未沙は返事をしなかった。


 やさしい。

 だから困る。


 リオンのままでいさせてくれないわけじゃない。

 未沙を引きずり出そうとするわけでもない。

 ただ、どちらでもいいと受け止めるように、そこにいる。


 そんなふうにされたら、余計に境界がほどけていく。


 施術の終盤、未沙は自分でもわかるほど慎重になっていた。


 少しでも長く触れていたい気持ちと、

 これ以上触れていたら何かがこぼれそうな怖さと。


 その両方が、指先に宿っている気がした。


「……お疲れさまでした」


 最後の手技を終え、未沙は静かに声をかけた。


「ありがとうございます」


 五条が起き上がる。


 未沙は先に部屋を出て、湯を沸かした。

 手元だけを見つめながら、カップを二つ並べる。


 施術が終われば、少し落ち着くと思っていた。

 けれど実際には逆だった。


 触れていた時間が終わったぶん、言葉の距離が近くなる。


 着替えを終えた五条がソファに座る。

 未沙も向かいに腰を下ろした。


 二人の前に、湯気の立つカップが並ぶ。


「ありがとうございます」

「いえ」


 短いやり取りのあと、静かな時間が落ちる。


 未沙はカップに視線を落としたまま、息を整えた。

 何か言えば、余計なことまでこぼれてしまいそうだった。


「今日」


 先に口を開いたのは、五条だった。


「少し無理させましたか」


 未沙は顔を上げる。


「そんなことは」

「もしそうなら、すみません」


 その言い方があまりにもまっすぐで、未沙は否定しきれなくなる。


「……無理、というより」


 言葉を探す。

 うまく言えない。

 でも、何も言わないままではいられなかった。


「前みたいに、きれいに分けられなくなってるだけです」


 五条は黙って聞いている。


 未沙は指先でカップの縁に触れた。


「店では、ちゃんとしていたいんです」

「はい」

「リオンでいれば、平気だったので」


 そこまで言ってから、未沙は少しだけ目を伏せた。


「でも最近は、そうしていても……未沙のほうが、出てしまう気がして」


 言い切ったあと、胸が苦しくなる。


 こんなことまで言うつもりじゃなかった。

 けれど、もう隠しきれなかった。


 五条はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙が、未沙にはありがたかった。


 急かさないでいてくれることが、今は救いだった。


「……うれしいです」


 やがて五条が、静かに言った。


 未沙は目を上げる。


「でも、それで未沙さんが苦しくなるなら、俺は嫌です」


 その言葉に、胸の奥がやわらかく痛んだ。


 うれしいと言いながら、同時に未沙のほうを気にかける。

 その順番が、五条らしかった。


「苦しいわけじゃ、ないです」


 未沙は小さく首を振る。


「ただ……怖いだけです」


「何がですか」


 未沙はすぐには答えられなかった。


 何が怖いのか。

 境界がなくなることか。

 未沙として見られることか。

 好きになってしまうことか。


 たぶん、その全部だった。


「戻れなくなるのが」


 ようやくこぼれた声は、思っていたより小さかった。


 五条は何も言わない。

 ただ、まっすぐに未沙を見ている気配だけがある。


「前みたいに、何も考えずに触れられなくなるのが怖いです」

「……はい」

「仕事なのに、仕事だけじゃなくなっていくのも」


 そこまで言って、未沙は唇を結んだ。


 もう十分だった。

 これ以上は、言葉にしたら本当に戻れなくなる気がした。


 けれど五条は、静かに息をついてから言った。


「戻らなくていい、とは言いません」


 未沙は顔を上げる。


「未沙さんが大事にしてるものを、壊したいわけじゃないので」


 その声は穏やかだった。


「でも」

 少しだけ間を置いて、五条は続ける。

「俺は、リオンさんも未沙さんも、どっちもちゃんと会ってきたつもりです」


 未沙の指先が、わずかに震える。


「だから、どっちかだけじゃなくてもいいんじゃないかって、思ってます」


 未沙は返事ができなかった。


 そんなふうに言われたら、守ってきた境界のほうが、急に頼りなく見えてしまう。


 リオンでいなければ守れないと思っていた。

 未沙を見せたら壊れると思っていた。


 でも本当は、最初から少しずつ、両方のままで会っていたのかもしれない。


 カップの中の湯気が、ゆっくりと薄れていく。


 未沙はその揺らぎを見つめながら、小さく息を吐いた。


「……ずるいです」


 思わずこぼすと、五条が少しだけ笑った気配がした。


「よく言われますか」

「言いません」

「じゃあ、初めてですね」

「そうかもしれません」


 そのやり取りだけで、少し肩の力が抜ける。


 けれど、楽になったわけではない。

 むしろ、楽になってしまうことのほうが怖かった。


 五条がカップを置く。


「今日は、もう帰ります」


 未沙は小さくうなずいた。


 引き止めたい気持ちはあった。

 でも、引き止めてしまったら、また境界がほどける。


 扉の前まで見送る。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」


 五条が少しだけ足を止めた。


「未沙さん」


「……はい」


「この前も今日も、ちゃんと会えてうれしかったです」


 未沙は息を止める。


 ちゃんと会えて。


 その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。


 リオンとしてでも、未沙としてでもなく。

 その両方を含んだまま、会えていたのだと告げられた気がした。


「……私もです」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 五条はやわらかく笑って、「おやすみなさい」と言った。


「おやすみなさい」


 扉が閉まる。

 足音が遠ざかる。


 未沙はそっと自分の指先を見つめた。


 今日もこの手で、五条に触れた。

 仕事として。

 けれど、それだけではない気持ちで。


 そのことを、もう否定できない。


 未沙はゆっくりと踵を返し、静かな施術室へ戻った。


 境界はまだ残っている。

 けれど、もう前と同じ形ではいられないのだろう。


 怖いのに。

 それでも次に会う日を、もう待ってしまっている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ