第28話 ほどけていく境界
次の予約が入ったのは、その二日後だった。
端末に表示された名前を見た瞬間、未沙は指先を止めた。
五条 輝
胸の奥が、静かに波立つ。
会いたいと送った。
俺も会いたいと返ってきた。
そのやり取りがあってから初めて、店で会う。
未沙は画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
うれしい。
その気持ちは、もう隠しようがなかった。
けれど同時に、少し怖かった。
店で会えば、未沙はリオンでいなければならない。
やわらかく笑って、整った距離を保って、何も知らないふりをして触れなければならない。
できるだろうか。
あの短いやり取りを知ってしまったあとで。
会いたいと、自分から言ってしまったあとで。
未沙は端末を伏せ、しばらく動かなかった。
会えるのはうれしい。
でも、会うほどに境界が曖昧になっていく気がする。
リオンでいれば守られる。
未沙でいれば、揺れる。
そのはずだったのに、最近はリオンでいる時間にまで、未沙の気持ちが滲み出してしまいそうになる。
予約の時間が近づくにつれて、落ち着かなくなった。
タオルを整える。
オイルを並べる。
照明を確かめる。
何度も確認しているのに、まだ足りない気がして、また手を動かす。
鏡の前に立つ。
髪を整え、口元にやわらかな笑みをつくる。
リオンになる。
そう思っても、今日はうまく切り替わらない。
鏡の中の自分は、たしかにいつもの顔をしている。
けれど、その奥にいる未沙のほうが、いつもよりずっと近い。
インターホンが鳴った。
未沙は一度だけ深く息を吸って、扉へ向かった。
「こんばんは」
「……こんばんは」
扉を開けると、五条が立っていた。
たった数日ぶりなのに、ひどく久しぶりに感じる。
五条も同じことを思ったのか、一瞬だけ目を細めた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
いつも通りのやり取り。
いつも通りの声。
それなのに、あのメッセージを知っているだけで、空気の温度が少し違って感じられる。
五条が靴を脱いで入ってくる。
未沙はその背を見ないようにしながら、施術室へ案内した。
「今日はお疲れですか」
「少しだけ」
「肩、張ってます?」
「たぶん。最近ずっと座りっぱなしで」
仕事の会話をする。
リオンとしての声を使う。
それで平静を保とうとする。
けれど、五条がふとこちらを見るたびに、未沙の胸は小さく揺れた。
施術が始まる。
肩に触れる。
背中へ圧を流す。
呼吸の深さを確かめる。
いつもと同じ手順。
いつもと同じ動き。
なのに、指先だけが落ち着かない。
触れるたびに思い出してしまう。
会いたいと送った夜のことを。
俺も会いたいと返ってきた、あの短い文字を。
「……今日、少し静かですね」
うつ伏せのまま、五条が言った。
「いつもこんな感じです」
「そうでしたっけ」
「そうです」
未沙はできるだけ平坦に返す。
けれど五条は、小さく笑った気配を見せた。
「緊張してます?」
「してません」
「この前も聞いた気がします」
「気のせいです」
「じゃあ、そういうことにしておきます」
その言い方がやさしくて、未沙は少しだけ困る。
からかわれているわけではない。
追いつめられているわけでもない。
ただ、見透かされている気がする。
それが落ち着かない。
未沙は意識を手元に戻した。
肩甲骨のきわをゆっくり押し流し、首筋へ指を移す。
今日の五条は、いつもより体の力が抜けていない気がした。
完全に緩んでいない。
どこかで、こちらを意識している。
それに気づいてしまうと、未沙まで余計に落ち着かなくなる。
「この前」
五条が静かに口を開く。
未沙の手が、ほんのわずかに止まる。
「……はい」
「メッセージ、うれしかったです」
胸の奥が、どくんと鳴った。
未沙は返事をしなかった。
できなかった。
あの短いやり取りを、こうして声にされるだけで、急に逃げ場がなくなる。
「未沙さんから言ってもらえると思ってなかったので」
その声は、うれしそうで。
でも、押しつけがましさは少しもなかった。
未沙は目を伏せる。
「……あまり、言わないでください」
「すみません」
「余計に、意識するので」
言ってから、自分で息を止めた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
五条の沈黙が落ちる。
その静けさが、かえって熱を持っていた。
「……俺だけじゃなかったんですね」
低く、やわらかな声だった。
未沙は何も言えない。
否定できない。
したくもない。
でも、認めるにはまだ近すぎる。
施術を続けるしかなかった。
背中から肩へ。
肩から首筋へ。
いつもより丁寧に、いつもより慎重に。
触れているあいだだけは、言葉の代わりになる気がした。
けれど本当は、触れるほどにごまかせなくなっていく。
この人に触れるのが、仕事だからだけではなくなっている。
その事実が、指先から伝わってしまいそうで怖かった。
「未沙さん」
五条がまた静かに呼ぶ。
「……何ですか」
「無理してませんか」
未沙は思わず手を止めた。
「無理、とは」
「ちゃんとリオンさんでいようとしてる感じがするので」
その一言に、未沙の呼吸が浅くなる。
見抜かれていた。
やわらかく笑って、整った声を使って、何も変わっていないふりをして。
そうやって保っていたものを、五条は静かに見ていた。
「……仕事ですから」
ようやくそれだけ言う。
「はい」
五条は素直にうなずいた。
「でも、無理はしないでほしいです」
未沙は返事をしなかった。
やさしい。
だから困る。
リオンのままでいさせてくれないわけじゃない。
未沙を引きずり出そうとするわけでもない。
ただ、どちらでもいいと受け止めるように、そこにいる。
そんなふうにされたら、余計に境界がほどけていく。
施術の終盤、未沙は自分でもわかるほど慎重になっていた。
少しでも長く触れていたい気持ちと、
これ以上触れていたら何かがこぼれそうな怖さと。
その両方が、指先に宿っている気がした。
「……お疲れさまでした」
最後の手技を終え、未沙は静かに声をかけた。
「ありがとうございます」
五条が起き上がる。
未沙は先に部屋を出て、湯を沸かした。
手元だけを見つめながら、カップを二つ並べる。
施術が終われば、少し落ち着くと思っていた。
けれど実際には逆だった。
触れていた時間が終わったぶん、言葉の距離が近くなる。
着替えを終えた五条がソファに座る。
未沙も向かいに腰を下ろした。
二人の前に、湯気の立つカップが並ぶ。
「ありがとうございます」
「いえ」
短いやり取りのあと、静かな時間が落ちる。
未沙はカップに視線を落としたまま、息を整えた。
何か言えば、余計なことまでこぼれてしまいそうだった。
「今日」
先に口を開いたのは、五条だった。
「少し無理させましたか」
未沙は顔を上げる。
「そんなことは」
「もしそうなら、すみません」
その言い方があまりにもまっすぐで、未沙は否定しきれなくなる。
「……無理、というより」
言葉を探す。
うまく言えない。
でも、何も言わないままではいられなかった。
「前みたいに、きれいに分けられなくなってるだけです」
五条は黙って聞いている。
未沙は指先でカップの縁に触れた。
「店では、ちゃんとしていたいんです」
「はい」
「リオンでいれば、平気だったので」
そこまで言ってから、未沙は少しだけ目を伏せた。
「でも最近は、そうしていても……未沙のほうが、出てしまう気がして」
言い切ったあと、胸が苦しくなる。
こんなことまで言うつもりじゃなかった。
けれど、もう隠しきれなかった。
五条はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、未沙にはありがたかった。
急かさないでいてくれることが、今は救いだった。
「……うれしいです」
やがて五条が、静かに言った。
未沙は目を上げる。
「でも、それで未沙さんが苦しくなるなら、俺は嫌です」
その言葉に、胸の奥がやわらかく痛んだ。
うれしいと言いながら、同時に未沙のほうを気にかける。
その順番が、五条らしかった。
「苦しいわけじゃ、ないです」
未沙は小さく首を振る。
「ただ……怖いだけです」
「何がですか」
未沙はすぐには答えられなかった。
何が怖いのか。
境界がなくなることか。
未沙として見られることか。
好きになってしまうことか。
たぶん、その全部だった。
「戻れなくなるのが」
ようやくこぼれた声は、思っていたより小さかった。
五条は何も言わない。
ただ、まっすぐに未沙を見ている気配だけがある。
「前みたいに、何も考えずに触れられなくなるのが怖いです」
「……はい」
「仕事なのに、仕事だけじゃなくなっていくのも」
そこまで言って、未沙は唇を結んだ。
もう十分だった。
これ以上は、言葉にしたら本当に戻れなくなる気がした。
けれど五条は、静かに息をついてから言った。
「戻らなくていい、とは言いません」
未沙は顔を上げる。
「未沙さんが大事にしてるものを、壊したいわけじゃないので」
その声は穏やかだった。
「でも」
少しだけ間を置いて、五条は続ける。
「俺は、リオンさんも未沙さんも、どっちもちゃんと会ってきたつもりです」
未沙の指先が、わずかに震える。
「だから、どっちかだけじゃなくてもいいんじゃないかって、思ってます」
未沙は返事ができなかった。
そんなふうに言われたら、守ってきた境界のほうが、急に頼りなく見えてしまう。
リオンでいなければ守れないと思っていた。
未沙を見せたら壊れると思っていた。
でも本当は、最初から少しずつ、両方のままで会っていたのかもしれない。
カップの中の湯気が、ゆっくりと薄れていく。
未沙はその揺らぎを見つめながら、小さく息を吐いた。
「……ずるいです」
思わずこぼすと、五条が少しだけ笑った気配がした。
「よく言われますか」
「言いません」
「じゃあ、初めてですね」
「そうかもしれません」
そのやり取りだけで、少し肩の力が抜ける。
けれど、楽になったわけではない。
むしろ、楽になってしまうことのほうが怖かった。
五条がカップを置く。
「今日は、もう帰ります」
未沙は小さくうなずいた。
引き止めたい気持ちはあった。
でも、引き止めてしまったら、また境界がほどける。
扉の前まで見送る。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
五条が少しだけ足を止めた。
「未沙さん」
「……はい」
「この前も今日も、ちゃんと会えてうれしかったです」
未沙は息を止める。
ちゃんと会えて。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
リオンとしてでも、未沙としてでもなく。
その両方を含んだまま、会えていたのだと告げられた気がした。
「……私もです」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
五条はやわらかく笑って、「おやすみなさい」と言った。
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
未沙はそっと自分の指先を見つめた。
今日もこの手で、五条に触れた。
仕事として。
けれど、それだけではない気持ちで。
そのことを、もう否定できない。
未沙はゆっくりと踵を返し、静かな施術室へ戻った。
境界はまだ残っている。
けれど、もう前と同じ形ではいられないのだろう。
怖いのに。
それでも次に会う日を、もう待ってしまっている。




