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第29話 戻れないまま

 次に五条から予約が入ったのは、それから一週間後だった。


 たった一週間。

 けれど未沙には、もっと長く空いたように感じられた。


 前回のあと、何度もやり取りをしたわけではない。

 連絡は短く、必要以上に続かなかった。

 それでも、会いたいと伝え合ったあとの沈黙は、以前とはまるで違っていた。


 静かなのに、遠くない。


 その感覚が、未沙にはまだうまく扱えなかった。


 予約の通知を見たとき、うれしいと思った。

 同時に、胸の奥が少しだけ強張った。


 また会える。

 でも、また触れる。


 その二つが、今の未沙の中では切り離せない。


 会いたいと思うほど、仕事の手が揺らぎそうになる。

 仕事として向き合おうとするほど、未沙の気持ちが置き去りになる。


 どちらにもなりきれないまま、時間だけが過ぎていく。


 当日、未沙はいつもより早く店に入った。


 掃除をして、タオルを整えて、オイルの残量を確かめる。

 必要以上に手を動かしていないと、落ち着かなかった。


 鏡の前に立つ。


 髪を整え、口元にやわらかな笑みをつくる。


 リオンになる。


 そう思っても、胸の奥にいる未沙は、今日は少しも遠くならない。


 インターホンが鳴る。


 未沙は一度だけ深く息を吸って、扉を開けた。


「こんばんは」

「こんばんは」


 五条はいつも通りの声でそう言った。

 その変わらなさに、未沙は少しだけ救われる。


「どうぞ」

「失礼します」


 施術室へ案内するまでの短い時間、未沙は必要なことしか話せなかった。

 五条も無理に何かを言おうとはしない。


 その静けさが、かえってやさしかった。


「今日は、首が少しつらいです」

「首ですね」

「たぶん、寝不足で」

「最近お忙しいですか」

「少しだけ」


 仕事の会話を交わす。

 それだけで、少しずつ呼吸が整っていく。


 やはり店の中では、手順がある。

 流れがある。

 それに沿っていれば、何とかなる。


 そう思ったのは、施術が始まるまでだった。


 肩に触れた瞬間、未沙の胸が小さく揺れる。


 いつもと同じ体温。

 いつもと同じ距離。

 けれど、自分の中だけがもう前とは違う。


 指先に意識が集まりすぎる。

 触れている場所ばかりが、妙に鮮明になる。


 落ち着いて。

 いつも通りに。


 そう言い聞かせながら、未沙はゆっくり圧を流した。


「……今日、少し冷たいですね」


 不意に、五条が言った。


 未沙の手が止まりかける。


「冷たい、ですか」

「前より、少しだけ」


 責めるような言い方ではなかった。

 ただ気づいたことを、そのまま口にしただけの声だった。


 それでも未沙の胸はざわつく。


「そんなことないです」

「なら、よかったです」


 五条はそれ以上言わなかった。


 けれど未沙は、自分の手が少し硬くなっていることに気づいていた。


 近づきたいのに、近づくほど怖くなる。

 だから無意識に、仕事の手つきへ逃げてしまう。


 正確で、丁寧で、でも少しだけ遠い手。


 それは未沙が自分を守るときの触れ方だった。


 五条は何も言わない。

 ただ静かに身を任せている。


 その沈黙が、未沙には痛かった。


 気づいているのだろうか。

 未沙が、少し引いていることに。

 戻ろうとして、戻れないままいることに。


 首筋へ指を移す。

 呼吸を整える。

 手順をなぞる。


 けれど、どれだけ丁寧に触れても、今日はどこか噛み合わない気がした。


 施術が終わるころには、未沙のほうがひどく疲れていた。


「……お疲れさまでした」

「ありがとうございます」


 五条が起き上がる。

 その表情は穏やかだったが、どこか考え込んでいるようにも見えた。


 未沙は先に部屋を出て、湯を沸かした。

 カップを二つ並べながら、指先に残る感覚を振り払おうとする。


 うまくできなかった。


 今日は、だめだったかもしれない。


 そんな思いが、胸の奥に重く沈む。


 ソファに向かい合って座る。

 湯気の立つカップの向こうで、五条が静かに未沙を見ていた。


「……すみません」


 先に口を開いたのは、未沙だった。


 五条が少し目を瞬く。


「何がですか」

「今日、少し」

 未沙は言葉を探し、視線を落とす。

「うまくできなかった気がして」


 五条はすぐには答えなかった。


「施術のことですか」

「……はい」


 本当は、それだけではない。

 でも、それ以上は言えなかった。


 五条はカップに手を添えたまま、小さく息をついた。


「正直に言うと」

「……はい」


「少しだけ、遠い感じはしました」


 未沙の胸が、静かに痛む。


 やっぱり、気づかれていた。


「すみません」

「謝らせたいわけじゃないです」


 五条の声は穏やかだった。

 だからこそ、余計につらい。


「俺、何かしましたか」


 未沙は顔を上げる。


 その問いに責める色はない。

 ただ、本当に確かめたいだけなのだとわかる。


「してません」

「じゃあ、俺の気のせいですか」

「……気のせいでは、ないかもしれません」


 そこまで言ってから、未沙は唇を結んだ。


 言うべきではない。

 でも、黙っていたらもっと不自然になる。


「近づきたいのに、近づくほど怖くなるんです」


 五条は黙って聞いている。


「だから、たぶん」

 未沙は指先を見つめた。

「仕事のほうに戻ろうとしてしまって」


 戻ろうとして。

 でも、もう戻りきれない。


 その中途半端さが、今日の手に出てしまったのだろう。


 五条はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙が、未沙には重かった。


 やがて、五条が静かに口を開く。


「俺、急ぎすぎましたか」


 未沙はすぐに首を振った。


「違います」

「でも、未沙さんが苦しくなるなら」

「違うんです」


 思ったより強い声が出た。

 未沙は自分でも少し驚く。


「五条さんが悪いわけじゃないです」

「……はい」

「ただ、私が勝手に揺れてるだけで」


 そこまで言って、未沙は小さく息を吐いた。


 五条は視線を落とし、カップの縁を指でなぞった。


「そっか」


 短いその一言が、妙に静かだった。


 未沙は胸の奥がざわつくのを感じた。


「でも」

 五条は顔を上げる。

「未沙さんがそうなるなら、少し距離を置いたほうがいいのかもしれません」


 その言葉に、未沙の呼吸が止まる。


「距離……」

「店に来る間隔も、少し空けます」


 未沙は何も言えなかった。


 それが正しいのかもしれない、と頭ではわかる。

 このまま曖昧なまま会い続ければ、もっと苦しくなるかもしれない。

 仕事にも、気持ちにも。


 でも。


 会えなくなる、と思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


「未沙さんが落ち着くまで」

 五条は静かに続ける。

「そのほうがいいなら、俺は待てます」


 待てます。


 その言葉はやさしいはずなのに、未沙には少し残酷だった。


 待ってくれる。

 急がないでいてくれる。

 それは五条のやさしさだ。


 でも今の未沙には、そのやさしさが、そのまま距離になる。


「……そう、ですね」


 ようやくそれだけ言う。


 本当は嫌だった。

 嫌だと、言いたかった。


 来てほしい。

 会いたい。

 離れたくない。


 そう言えたらよかったのに、喉の奥で全部止まってしまう。


 五条は小さくうなずいた。


「すみません。勝手に決めるみたいで」

「いえ」


 未沙は首を振る。

「たぶん、そのほうが……いいんだと思います」


 言いながら、自分の声が少し遠く聞こえた。


 それで本当にいいのか、自分でもわからない。

 ただ、ここで引き止める勇気がなかった。


 帰る支度をする五条を、未沙は静かに見送った。


 扉の前で、五条が振り返る。


「今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました」


 いつも通りの挨拶。

 いつも通りのはずなのに、今日はひどく遠い。


「おやすみなさい」

「……おやすみなさい」


 扉が閉まる。


 未沙はその音を、ただ静かに聞いていた。


 店の中に残った静けさが、いつもより深い。


 戻れると思っていた。

 少し距離を置けば、また前みたいに整えられると思っていた。


 けれど実際には、もう違った。


 リオンに戻れば守られるはずなのに。

 その殻の中に戻ろうとするほど、息苦しい。


 未沙はゆっくりとソファに腰を下ろした。


 テーブルの上には、飲みきれなかったお茶が残っている。

 さっきまで向かいにいた気配だけが、まだそこにある。


 会えないほうがいい。

 そのほうが落ち着く。

 そう言い聞かせても、胸の奥は少しも納得しなかった。


 むしろ、離れると決まった途端に、会いたさばかりがはっきりしていく。


 未沙はそっと自分の手を握った。


 この手で触れられない時間が続けば、気持ちは薄れるのだろうか。


 たぶん、違う。


 薄れるどころか、触れられないぶんだけ、もっと強く意識してしまう。


 未沙は目を閉じる。


 守られていたはずの殻が、今はもう少しも安心をくれない。


 戻りたいわけじゃない。

 でも、進むのも怖い。


 そのどちらにも行けないまま、未沙は静かな部屋にひとり取り残されていた。


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