第30話 空いた時間
五条が言った通り、それから予約は入らなかった。
最初のうちは、それでよかったのだと思おうとした。
少し距離を置く。
会う間隔を空ける。
そうすれば、未沙も落ち着けるかもしれない。
店で触れることも。
未沙として揺れることも。
いったん離れれば、また前みたいに整えられるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、現実は違った。
朝、店に来て端末を開く。
予約一覧を確認する。
そこに五条の名前がない。
それだけのことに、胸の奥が静かに沈む。
昼の空き時間にも、閉店前にも、帰宅してからも。
見なくていいはずの画面を、未沙は何度も開いてしまった。
来ない。
自分でそうなるようにしたのに。
自分で引き止めなかったのに。
いざ本当に来なくなると、その不在ばかりが目についた。
店の中はいつも通りだった。
予約は入る。
客は来る。
未沙は笑う。
リオンとして触れ、整った声で会話をして、何事もない顔で見送る。
ちゃんとできている。
そう思うたびに、胸のどこかが少しだけ空しくなった。
できてしまうのだ。
五条が来なくても、店は回る。
仕事は続く。
何も壊れない。
それなのに、未沙の中だけが、少しずつ静かに崩れていく。
夜、最後の客を見送ったあと、未沙は施術室のタオルをたたみながら手を止めた。
この時間なら、前はまだ五条の気配が残っている日もあった。
ソファに置かれたカップ。
少しだけぬるくなったお茶。
帰ったあとの静けさ。
そんなものを思い出してしまう自分に、未沙は小さく息を吐いた。
会わないほうがいい。
そのほうが落ち着く。
そう思っていたはずなのに、今はその静けさのほうがつらい。
家に帰っても同じだった。
メイクを落とし、髪をほどき、ベッドに入る。
目を閉じれば眠れるはずなのに、意識は勝手にあの店へ戻っていく。
五条がうつ伏せで目を閉じている背中。
施術後に向かい合って座る時間。
短い言葉。
やわらかな沈黙。
思い出すのは、特別なことばかりではない。
むしろ、何でもない時間のほうが、ひどく胸に残っていた。
未沙は寝返りを打ち、枕に顔を埋める。
会いたい。
その言葉が、もうごまかしようもなく胸の奥にあった。
来てほしい、ではない。
予約を入れてほしい、でもない。
会いたい。
未沙自身が、五条に。
そこまで考えて、未沙は目を閉じたまま息を止める。
認めてしまった。
待っているだけではなく。
店で会えるのを期待するだけでもなく。
自分から会いたいと思っている。
その事実は、思っていたよりずっと重かった。
数日後の昼休み、未沙はバックヤードの椅子に座り、スマートフォンを開いた。
連絡先の画面を開いて、閉じる。
また開いて、指を止める。
何を送るつもりなのか、自分でもまだ決めきれていなかった。
元気ですか。
最近どうしてますか。
そんな言葉では、あまりにも不自然だ。
予約のことを口実にすることもできる。
けれど、それは違う気がした。
店の連絡に紛れ込ませたら、また逃げることになる。
未沙はスマートフォンを伏せ、額に手を当てた。
こんなふうに迷うくらいなら、何もしないほうがいいのかもしれない。
時間が経てば、少しは薄れるのかもしれない。
けれど、そう思って過ごした数日で、薄れるどころか、気持ちはむしろはっきりしてしまった。
会えない時間が、忘れさせてくれるわけではない。
むしろ、会えないからこそ、会いたさだけが残る。
その日の営業が終わったあと、未沙はひとりでソファに座っていた。
照明を少し落とした店内は静かで、時計の針の音だけがやけに耳につく。
テーブルの上には、飲みかけの水。
手の中には、スマートフォン。
画面をつければ、すぐに連絡先は開ける。
文字を打つことだってできる。
でも、そこから先が進まない。
もし迷惑だったら。
困らせたら。
距離を置こうと言ったのに、未沙のほうから崩すことになる。
そう考えるたびに、指先が止まる。
けれど同時に、別の声も胸の奥で静かに響いていた。
このままでいいのか。
待っているだけで。
来なくなったことに傷ついて。
でも何も言えないまま、ただ時間が過ぎるのを待つだけで。
それで本当に、落ち着けるのだろうか。
違う。
未沙はゆっくり息を吸った。
落ち着きたいわけじゃない。
なかったことにしたいわけでもない。
怖いだけだ。
会いたいと思っていることも。
自分から会いたいと言うことも。
その先に進んでしまうことも。
ただ、怖い。
でも、怖いからといって、何もしないままでいたら。
きっとこのまま、何も変わらない。
未沙はスマートフォンを握りしめた。
待っているだけじゃだめだ。
その思いが、胸の奥でようやく形になる。
来てほしいと願うだけではなく。
選ばれるのを待つだけでもなく。
自分がどうしたいのかを、自分で選ばなければならない。
未沙はゆっくりと顔を上げた。
静かな店内に、自分ひとりの気配だけがある。
それが今夜は、ひどくはっきりしていた。
会いたい。
その気持ちは、もう十分すぎるほどわかっている。
あとは、それをどうするかだけだった。
未沙はスマートフォンの画面を開き、五条の名前を見つめた。
指先はまだ、少し震えている。
それでも、もう目をそらさなかった。




