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第31話 選ぶのは自分

 営業が終わったあとの店内は、いつもより静かに感じられた。


 照明を少し落とした施術室。

 片づけ終えたタオル。

 テーブルの上の、飲みかけの水。

 そのどれもが整っているのに、未沙の気持ちだけが落ち着かなかった。


 手の中のスマートフォンは、もう何度目かわからないほど開いている。


 五条の名前。

 短いやり取りの履歴。

 最後に並んでいるのは、あの夜の言葉と、そのあとの静かな途切れ方だった。


 未沙は画面を見つめたまま、小さく息を吐く。


 待っているだけじゃだめだ。

 そう思った。


 けれど、思ったからといって、すぐに動けるわけではない。


 何を送ればいいのかわからない。

 どう言えば、不自然にならないのかもわからない。


 未沙は一度、短く文字を打った。


『お久しぶりです』


 それを見て、すぐに消す。


 おかしい。

 たった少し会っていないだけなのに、そんな言い方はよそよそしすぎる。


 次に打つ。


『最近、お忙しいですか』


 それも違う気がした。

 探るみたいで嫌だった。


 未沙はスマートフォンを膝の上に置き、ソファにもたれた。


 何を送っても、少しずつ違う。

 言葉を選ぼうとするほど、気持ちから遠ざかっていく。


 予約の話にしてしまえば、もっと簡単かもしれない。

 次回のことをそれとなく聞く。

 体調を気づかうふりをして、店の話につなげる。


 でも、それでは意味がない。


 それはリオンの言葉だ。

 未沙が送りたいのは、そういうものじゃない。


 店の外で。

 仕事とは関係なく。

 未沙として、五条に会いたい。


 そこまで思って、未沙は目を閉じた。


 怖い。


 断られたらどうしよう。

 困らせたらどうしよう。

 距離を置こうと言った相手に、自分から近づくなんて、勝手すぎるかもしれない。


 それでも。


 このまま何も言わずにいるほうが、もっと苦しい。


 未沙はもう一度、スマートフォンを手に取った。


 画面を開く。

 メッセージ欄に指を置く。


 今度は、回りくどい言葉をやめた。


『少しだけ、お会いしたいです』


 打ち終えて、未沙は息を止めた。


 短い。

 飾りもない。

 言い訳もない。


 でも、それでよかった。


 これ以上きれいに言おうとしたら、また逃げてしまう気がした。


 未沙はしばらくその一文を見つめたまま、送信ボタンに触れられなかった。


 送ってしまえば、戻れない。

 何もなかったふりはできない。

 ただ待っているだけの自分では、もういられなくなる。


 それでも、もう決めたのだ。


 未沙は小さく息を吸い、送信した。


 画面の中に、自分の言葉が残る。


『少しだけ、お会いしたいです』


 送った瞬間、心臓がうるさいほど鳴り始めた。


 早すぎたかもしれない。

 重かったかもしれない。

 やっぱり消したい、と思っても、もう遅い。


 未沙はスマートフォンを伏せた。

 けれど気になって、数秒後にはまた手に取ってしまう。


 返事は、すぐには来なかった。


 その数分が、ひどく長く感じられる。


 未沙はソファに座ったまま、落ち着かない指先を自分で握った。

 時計の針の音が、やけに大きい。


 もし断られたら。

 もし困らせていたら。

 もし、もう距離を戻すつもりがないのだとしたら。


 考えたくないことばかりが、次々に浮かぶ。


 そのとき、通知音が鳴った。


 未沙の肩が小さく揺れる。


 画面を見る。

 五条の名前。


 指先が少し震えたまま、未沙はメッセージを開いた。


『もちろんです』

『俺も、お会いしたいと思っていました』


 未沙はその文を見たまま、しばらく息をするのも忘れていた。


 俺も、お会いしたいと思っていました。


 胸の奥が、じわりと熱を持つ。


 自分だけではなかった。

 会いたかったのは。

 迷っていたのは。

 たぶん、待っていたのも。


 未沙は唇をきゅっと結ぶ。

 少しでも気を抜いたら、泣きそうだった。


 すぐに返事をしなければと思うのに、言葉がまとまらない。


 何と返せばいいのだろう。

 うれしいです。

 ありがとうございます。

 どれも間違いではないのに、どれも足りない。


 未沙は何度か文字を打っては消し、ようやく短く返した。


『よかったです』


 それだけ送ってから、少し迷って、もう一文足す。


『お時間のある日に、少しだけ』


 送信すると、今度はすぐに返事が来た。


『はい』

『未沙さんの都合に合わせます』


 そのやさしい返し方に、未沙は目を伏せる。


 急かさない。

 決めつけない。

 でも、ちゃんと会いたいと言ってくれる。


 そのことが、どうしようもなくうれしかった。


 未沙は予定を頭の中で確かめる。

 今週の営業日。

 空いている夜。

 店の外で会うなら、遅すぎない時間のほうがいい。


 少し考えてから、未沙は送った。


『明後日の夜でしたら、大丈夫です』


 返事はすぐだった。


『ありがとうございます』

『楽しみにしています』


 その一文に、未沙の胸がまた静かに熱くなる。


 楽しみにしています。


 そんなふうに言われるだけで、次に会う日が急に現実味を帯びる。


 店ではない場所で。

 施術でもなく。

 客とセラピストでもなく。


 未沙として、五条に会う。


 怖さが消えたわけではない。

 むしろ、約束が決まったことで、緊張は前よりはっきりした。


 何を話せばいいのだろう。

 どんな顔で会えばいいのだろう。

 店の外で向かい合ったとき、自分はちゃんといられるだろうか。


 不安はいくらでもある。


 けれど、それでもよかった。


 会える。


 自分で選んで、会う約束をした。


 その事実が、未沙の中で静かに形を持っていく。


 待っていたときとは違う。

 来てくれるのを願っていたときとも違う。


 今度は、自分で手を伸ばしたのだ。


 未沙はスマートフォンを胸元に引き寄せ、ソファに深くもたれた。


 照明を落とした店内は静かだった。

 けれど今夜の静けさは、これまでとは少し違う。


 ひとりなのに、ひとりきりではない気がした。


 明後日、会う。


 その約束が、未沙の胸の奥でやわらかく灯っている。


 怖い。

 でも、うれしい。


 その両方を抱えたまま、未沙は小さく目を閉じた。


 選んだのは、自分だった。


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