表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/34

第32話 店の外で

 約束の日は、思っていたより早くやってきた。


 朝から未沙は、どこか落ち着かなかった。


 仕事の日と同じ時間に起きて、同じように支度をしているのに、胸の奥だけがいつもと違う。

 店へ向かう必要はない。

 リオンになる必要もない。

 それなのに、鏡の前に立つと、つい髪の流れや口元の表情を確かめてしまう。


 未沙として会う。


 その当たり前のことが、今日はひどく難しく感じられた。


 服を選ぶだけでも時間がかかった。

 気合いを入れすぎていると思われたくない。

 でも、どうでもいいとも思われたくない。


 何着か出しては戻し、ようやく落ち着いた色のワンピースに決める。

 店で見せる整った雰囲気とは少し違う、やわらかな印象の服だった。


 これでいい。

 そう思っても、胸のざわつきは消えない。


 約束の時間より少し早く着いてしまって、未沙は店の前で立ち止まった。


 駅から少し離れた、小さなカフェだった。

 夜でも明るすぎず、静かで、長居しても浮かないような場所を選んだつもりだった。


 ガラス越しに店内を見て、未沙は小さく息を吐く。


 まだ帰りたくなるほどではない。

 でも、扉を開けるには少し勇気がいる。


「未沙さん」


 不意に名前を呼ばれて、未沙は肩を揺らした。


 振り向くと、五条が立っていた。


「……こんばんは」

「こんばんは」


 五条は少しだけ息を弾ませていた。

 急いできたのかもしれない。


「すみません、お待たせしましたか」

「いえ、私も今来たところです」


 そう答えながら、未沙は自分の声が少し硬いことに気づく。


 店の中なら、もっと自然に話せるのに。

 施術の流れがあれば、もっと落ち着いていられるのに。


 今日は何もない。

 ただ向かい合って、話すだけだ。


「入りましょうか」

「……はい」


 五条が扉を開ける。

 未沙は小さく会釈して、中へ入った。


 案内された席に向かい合って座る。

 テーブルは小さく、店で向かい合うときよりも距離が近い気がした。


 メニューを開く。

 けれど、文字があまり頭に入ってこない。


「何にしますか」

「……温かいものにします」

「じゃあ、俺もそうします」


 そんな短いやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜ける。


 注文を終えると、ふたりのあいだに静かな時間が落ちた。


 気まずいわけではない。

 でも、何を最初に話せばいいのかわからない。


 未沙は水の入ったグラスに指先を添えた。

 冷たさが、少しだけ気持ちを落ち着かせる。


「来てくださって、ありがとうございます」


 先に口を開いたのは、未沙だった。


 五条がやわらかく目を細める。


「こちらこそ」

「急に、すみませんでした」

「うれしかったです」


 その返事がまっすぐで、未沙は少しだけ目を伏せた。


 うれしかった。

 そう言われるだけで、胸の奥が静かに熱を持つ。


「……少し、迷いました」

 未沙は小さく言った。

「連絡していいのか」


 五条は黙って聞いている。


「距離を置いたほうがいいって言われたのに、自分から会いたいなんて、勝手かもしれないと思って」


「勝手だなんて思ってません」

 五条はすぐに言った。

「むしろ、連絡もらえてほっとしました」


 未沙は顔を上げる。


「ほっと?」

「はい。あのままのほうがよかったのか、ずっと迷ってたので」


 その言葉に、未沙の胸が少しだけ痛む。


 迷っていたのは、自分だけではなかった。


「この前」

 五条は静かに続ける。

「未沙さん、苦しそうだったから」


 未沙はすぐには答えられなかった。


 苦しそうだった。

 たしかにそうだったのだと思う。

 近づきたいのに、近づくほど怖くて、施術の手まで硬くなってしまった。


「……はい」

 ようやく、未沙はうなずく。

「苦しかったです」


 言葉にすると、思っていたより素直に出た。


「でも」

 未沙はグラスから手を離し、膝の上で指を重ねる。

「会えなくなったら、もっと落ち着くと思ってたんです」


 五条は何も言わない。

 ただ、急かさずに待ってくれている。


「少し離れれば、また前みたいに戻れるかもしれないって」

「……はい」

「でも、全然違いました」


 未沙は小さく息を吐いた。


「会わないほうが、余計に会いたくなって」

 その声は、自分でも驚くほど静かだった。

「来てほしいんじゃなくて、私が会いたいんだって、やっとわかりました」


 言い切ったあと、胸の奥が強く鳴る。


 こんなふうに、まっすぐ言うつもりではなかった。

 でも、ここまで来てごまかしたくなかった。


 五条はしばらく黙っていた。

 その沈黙が長すぎないことに、未沙は少し救われる。


「……うれしいです」


 やがて、五条が静かに言った。


 未沙は目を上げる。


「俺も、会いたかったです」

 五条は未沙を見つめたまま続ける。

「でも、あのときは、未沙さんを困らせたくなかった」


 その声は穏やかで、押しつけるところが少しもなかった。


「だから距離を置いたほうがいいのかと思ったんですけど」

 五条は少しだけ苦く笑う。

「正直、俺も全然落ち着きませんでした」


 未沙は思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。


 その小さな笑みを見て、五条の表情もやわらぐ。


 ちょうどそのとき、注文した飲み物が運ばれてきた。

 湯気の立つカップが、ふたりのあいだに置かれる。


 未沙はカップに手を添えた。

 あたたかさが、指先からゆっくり伝わってくる。


「この前、うまく言えなかったんですけど」


 未沙はカップを見つめたまま言った。


「怖かったんです」

「……はい」

「戻れなくなるのが」


 五条は黙って聞いている。


「店ではちゃんとしていたいし、リオンでいることも、私には大事で」

 未沙は少しずつ言葉を選ぶ。

「でも、五条さんの前だと、それだけじゃいられなくなる気がして」


 カップの縁に視線を落としたまま、未沙は続けた。


「未沙のほうが出てしまうのが、怖かったです」

「うん」

「それで、仕事まで変になったらどうしようって」


 そこまで言って、未沙はようやく顔を上げた。


「でも、会えないほうがもっと苦しかった」


 五条の目が、静かにやわらぐ。


「……ありがとうございます」

「え」

「言ってくれて」


 未沙は少しだけ戸惑う。


 こんなふうに受け取られると思っていなかった。

 もっと困らせるかもしれないと思っていたのに。


「俺、未沙さんが大事にしてるものを軽くしたくないです」

 五条はゆっくりと言った。

「店のことも、リオンさんでいることも」


 未沙は黙って聞く。


「だから、無理に変えなくていいと思ってます」

「……はい」

「ただ、その外で会えるなら、俺はそれがうれしいです」


 その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。


 無理に変えなくていい。

 でも、その外で会いたい。


 未沙が怖れていたものを壊さずに、ちゃんとこちらへ来てくれる言い方だった。


「店では、ちゃんとしていたいんです」

 未沙はもう一度、確かめるように言う。

「たぶん、これからも」


「はい」

 五条はすぐにうなずいた。

「そのほうが未沙さんらしいなら、俺はそのままでいいです」


 未沙は息をつめる。


 そのままでいい。


 ずっと、どちらかを選ばなければいけない気がしていた。

 リオンでいるか、未沙でいるか。

 仕事を守るか、気持ちを認めるか。


 でも本当は、そんなふうにきれいに分けられないのかもしれない。


「……ずるいです」

 未沙が小さく言うと、五条が少し笑った。


「また言われました」

「だって、そうです」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「違います」


 そう返しながら、未沙の口元も少しだけゆるむ。


 店の中ではないのに。

 施術の流れもないのに。

 こうして向かい合って笑えることが、少し不思議だった。


 しばらく、他愛のない話をした。

 仕事のこと。

 最近忙しかったこと。

 寝不足が続いていること。

 店では話していたようで、実はあまり知らなかったことを、少しずつ埋めていくような時間だった。


 そのどれもが、未沙には新しかった。


 触れなくても、こんなふうに近づけるのだと思った。


 カップの中身が半分ほど減ったころ、五条が静かに言った。


「また、会えますか」


 未沙の指先が、カップの持ち手に触れたまま止まる。


 店ではなく。

 施術でもなく。

 その外で、また。


 その意味を、未沙はちゃんとわかっていた。


 怖さが消えたわけではない。

 でも、前みたいに逃げたいとは思わなかった。


「……はい」


 未沙は小さくうなずく。


「会いたいです」


 言った瞬間、胸の奥が熱くなる。


 けれど今度は、言ってしまったことへの後悔はなかった。


 五条は目を細めて、やわらかく笑った。


「よかった」

 その声は、心から安心したように聞こえた。


 店を出るころには、夜の空気が少しだけやわらいでいた。


 駅までの道を、ふたりで並んで歩く。

 肩が触れるほど近くはない。

 でも、ひとりで歩くよりずっと近い。


 会話が途切れても、不思議と気まずくなかった。


 店の前まで来たところで、五条が足を止める。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」


 未沙も立ち止まる。


 別れ際の空気が、少しだけ名残惜しい。


「連絡、もらえてうれしかったです」

 五条が言う。

「本当に」


 未沙は目を伏せて、小さく息をついた。


「……私も、送ってよかったです」


 それは、今夜いちばん素直な言葉だったかもしれない。


 五条は少しだけ笑って、「おやすみなさい」と言った。


「おやすみなさい」


 背を向けて歩き出す五条を、未沙はすぐには見送れなかった。

 遠ざかる足音を聞きながら、胸の奥に残る熱をそっと確かめる。


 店の外で会った。

 未沙として話した。

 怖いことも、会いたかったことも、少しだけ言えた。


 それでも、何かが壊れたわけではない。


 むしろ、ようやく自然に息ができた気がした。


 未沙は夜風の中で、そっと自分の指先を握る。


 まだ怖い。

 でも、もう戻りたいとは思わなかった。


 次も、会いたい。


 その気持ちを、今夜の未沙はもう隠さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ