第33話 境界の向こう
次に会ったのは、その数日後だった。
店の外で会うことは、もう一度約束していた。
けれど前回よりも、未沙の胸は静かだった。
緊張がなくなったわけではない。
ただ、逃げたい気持ちはもうなかった。
会いたいから会う。
そのことを、自分で選んだ。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなっていた。
待ち合わせたのは、前と同じ静かな店だった。
五条は先に来ていて、未沙の姿を見つけると、やわらかく目を細めた。
「こんばんは」
「こんばんは」
向かい合って座る。
注文を済ませる。
そんな何でもない流れが、前回より少しだけ自然になっている。
未沙はカップに手を添えながら、小さく息を吐いた。
「この前は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「会えて、よかったです」
そう言うと、五条は少しだけ驚いたように目を瞬いたあと、静かに笑った。
「俺もです」
その短い返事だけで、胸の奥がやわらぐ。
しばらくは、他愛のない話をした。
仕事のこと。
最近少し眠れるようになったこと。
暑さが少しずつやわらいできたこと。
けれど、今日はそれだけで終わるつもりはなかった。
未沙はカップの縁を見つめながら、ゆっくり口を開く。
「私、たぶん」
声が少しだけ揺れる。
「ずっと、どちらかを選ばなきゃいけないと思ってました」
五条は黙って聞いている。
「リオンでいるか、未沙でいるか」
未沙は指先を重ねた。
「仕事としてちゃんとしているか、そうじゃなくなるか」
言葉にしながら、自分でもそれが極端だったのだとわかる。
「でも、本当はそんなふうにきれいに分けられないんですよね」
未沙は少しだけ目を伏せた。
「五条さんの前だと、特に」
五条の視線が、静かにやわらぐ気配がした。
「店ではちゃんとしていたいです」
未沙は続ける。
「それは今でも変わりません」
「はい」
「でも、それだけじゃなくなってしまったことも、もう否定できないです」
そこまで言って、未沙は一度息を止めた。
怖い。
でも、今日は最後まで言いたかった。
「会えないあいだ、ずっと考えてました」
未沙は顔を上げる。
「落ち着きたかったわけじゃなくて、ただ怖かっただけなんだって」
五条は何も言わない。
急かさず、ただ待ってくれている。
「会いたいと思うことも」
「……はい」
「自分から会いたいって言うことも」
未沙は小さく唇を結んだ。
「好きになっていくことも」
最後の言葉は、思っていたより静かにこぼれた。
言ってしまった、と思うより先に、胸の奥が熱くなる。
五条は目を伏せ、短く息をついた。
その横顔が、少しだけ張りつめて見えた。
「……うれしいです」
低く落ちた声は、いつもより少しだけかすれていた。
未沙は黙ってその先を待つ。
「俺も、ずっと迷ってました」
五条はカップに触れたまま言う。
「距離を置いたほうがいいって言ったときも、あれが正しいのか全然わからなかったです」
未沙は目を上げる。
「未沙さんが苦しそうだったから、引いたほうがいいと思ったんです」
五条は静かに続ける。
「仕事を壊したくなかったし、無理もさせたくなかった」
その言葉は、これまで五条が見せてきたやさしさそのものだった。
けれど今日は、それだけでは終わらなかった。
「でも、本当は」
五条は少しだけ苦く笑う。
「俺も全然平気じゃなかったです」
未沙の指先が、わずかに震える。
「予約画面、何度も開きました」
五条は視線を落としたまま言った。
「入れないほうがいいと思って閉じて、また開いて」
「……」
「会わないほうが未沙さんのためなら、そのほうがいいって思おうとしたんですけど」
そこで一度言葉を切り、五条はゆっくり顔を上げた。
「会えないほうが、余計に会いたかったです」
未沙は息をつめる。
その気持ちは、自分が抱えていたものとあまりにも似ていた。
「店で会う時間も、俺にとってはちゃんと大事でした」
五条は続ける。
「施術の時間も、そのあとの少しの会話も」
少しだけ目を細める。
「全部、未沙さんに会ってる時間だったので」
未沙の胸の奥が、やわらかく痛んだ。
店の中の時間。
未沙が境界を引いて守ってきた場所。
そこにいた自分も、ちゃんと五条の中に残っていたのだとわかる。
「だから、壊したくなかったです」
五条の声は穏やかだった。
「リオンさんでいる未沙さんも、未沙さんとして会う時間も、どっちかだけにしたくなかった」
未沙は何も言えなかった。
どちらかを選ばなければいけないと思っていたのは、自分だけだったのかもしれない。
五条は最初から、両方を大事にしようとしてくれていた。
「……ずるいです」
未沙が小さく言うと、五条が少しだけ笑った。
「またですか」
「だって」
未沙は目を伏せる。
「そんなふうに言われたら、もう逃げられないです」
五条の笑みが、少しだけやわらかく深くなる。
「逃げてほしいわけじゃないです」
「わかってます」
「でも、無理はさせたくないです」
その言い方が五条らしくて、未沙は胸の奥がほどけていくのを感じた。
怖さが消えたわけではない。
境界がなくなったわけでもない。
それでも、今はもう、それを理由に引き返したいとは思わなかった。
「私」
未沙はゆっくりと言った。
「これからも、店ではちゃんとしていたいです」
「はい」
「たぶん、急には変われません」
「うん」
「でも」
未沙は五条を見る。
「店の外でも、会いたいです」
言い切った瞬間、胸の奥が静かに震えた。
五条はまっすぐに未沙を見つめていた。
その目に浮かんだ安堵が、はっきりとわかる。
「俺もです」
五条は迷いなく言った。
「これからも会いたいです」
未沙は唇をきゅっと結ぶ。
それだけで十分なはずなのに、まだ足りない気がした。
ここまで来たのなら、もう少しだけ、ちゃんと言いたかった
「……好きです」
未沙の声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
カップから立つ湯気だけが動いている。
ふたりの間の沈黙が永遠のようだった。
五条の目がわずかに見開かれる。
未沙は逃げずに続けた。
「たぶん、ずっと前から少しずつ」
指先を重ねる。
「でも、認めたら戻れなくなる気がして、怖かったです」
五条はしばらく何も言わなかった。
その沈黙に、未沙はもう怯えなかった。
やがて五条が、静かに息をつく。
「……俺も、好きです」
その一言が、未沙の胸の奥にまっすぐ落ちた。
「店で会うたびに、少しずつ」
五条は苦く笑う。
「たぶん、思ってたよりずっと早く」
未沙は思わず目を伏せる。
頬が熱い。
「だから、距離を置いたときも」
五条は続ける。
「これで終わるかもしれないって、少し怖かったです」
未沙は顔を上げた。
五条にも、そんな不安があったのだ。
待てる人、受け止める人、やさしく引ける人。
そう見えていたその奥で、ちゃんと揺れていた。
「終わりたくなかったです」
未沙は小さく言う。
「私も」
五条の表情が、静かにほどける。
テーブルの上に置かれた手が、ほんの少しだけ動いた。
触れそうで、触れない距離で止まる。
そのためらいが、かえってやさしかった。
未沙は少しだけ迷ってから、自分の指先をそっとその近くへ置いた。
触れるか触れないかの、わずかな距離。
それだけで、胸が熱くなる。
「急がなくていいです」
五条が低く言う。
「でも、これからも会いたいです」
「……はい」
「店の中でも」
少しだけ間を置いて、続ける。
「店の外でも」
未沙は小さくうなずいた。
「私もです」
その答えは、もう迷いのないものだった。
帰り道、ふたりは前より少しだけ近い距離で歩いた。
肩が触れることはない。
手をつなぐこともない。
それでも、前とは違う静かな確かさがあった。
駅の前で立ち止まる。
「今日は、ありがとうございました」
五条が言う。
未沙は少しだけ笑った。
「こちらこそ」
そして、ほんの少しだけためらってから続ける。
「……会えて、よかったです」
五条の目がやわらぐ。
「俺もです」
短いその言葉が、今夜は何より深く響いた。
別れたあと、未沙はひとりで夜道を歩きながら、自分の胸にそっと手を当てた。
境界は、なくなったわけではない。
これからもきっと、迷うことはある。
店ではリオンでいたい。
未沙として揺れる自分もいる。
その両方を、きれいに分けきることはもうできないのだろう。
でも、それでいいのかもしれない。
どちらかを捨てるのではなく。
どちらかだけになるのでもなく。
分けきれないままの自分で、五条に会っていく。
その先にあるものを、もう怖がるだけではいたくなかった。
未沙は小さく息を吐く。
今夜、自分の気持ちを言った。
五条の気持ちも聞いた。
そのうえで、これからも会いたいと伝え合った。
それだけで、世界が少しだけ静かに変わった気がした。
境界の向こうには、壊れることばかりがあると思っていた。
けれど本当は、その先にもちゃんと、やわらかな続きがあるのかもしれない。




