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最終話 あなたに触れる

 次に五条の予約が入ったのは、その翌週だった。


 端末に表示された名前を見ても、もう前みたいに息を止めたりはしなかった。

 胸の奥は静かに揺れたけれど、その揺れを未沙はもう隠そうとは思わない。


 会える。


 店の外でも、店の中でも。

 その両方でつながっているのだと知った今、その名前は以前よりもやわらかく未沙の中に落ちてきた。


 当日、未沙はいつも通りに店を整えた。


 タオルをたたみ、オイルを並べ、照明を確かめる。

 鏡の前に立ち、髪を整える。


 リオンになる。


 その感覚は、もう無理に自分を切り替えるものではなかった。

 未沙を消すための殻でもない。

 未沙の中にある、仕事をするときの静かな輪郭として、自然にそこにあった。


 インターホンが鳴る。


 未沙は一度だけ息を整え、扉を開けた。


「こんばんは」

「こんばんは」


 五条が立っている。


 いつも通りの声。

 いつも通りの距離。

 けれど、その奥にあるものを、もうお互いに知っている。


「どうぞ」

「失礼します」


 施術室へ案内するあいだ、未沙は自分の呼吸が穏やかなことに気づいていた。

 緊張がないわけではない。

 でも、前みたいに揺れを隠そうとして苦しくなる感じはない。


「今日は肩と背中、どちらがつらいですか」

「肩のほうが少し」

「わかりました」


 仕事の会話をする。

 リオンとしての声で話す。

 そのことに、もう無理はなかった。


 五条もまた、いつも通りに受け答えをしていた。

 けれどふと目が合ったとき、その視線がやわらかくほどける。

 それだけで十分だった。


 施術が始まる。


 肩に触れる。

 背中へ圧を流す。

 呼吸の深さを確かめる。


 未沙は自分の手が、今日は驚くほど落ち着いていることに気づいた。


 好きだから揺れる。

 揺れるから触れられない。

 そう思っていた時期もあった。


 けれど今は違う。


 好きだと認めたからこそ、仕事としての手を大事にできる。

 この時間を壊したくないと思うからこそ、丁寧に触れられる。


 そのことが、指先から静かに伝わっていく気がした。


「……今日、すごく落ち着きます」


 うつ伏せのまま、五条がぽつりと言った。


 未沙は少しだけ笑う。


「よかったです」

「前より、ちゃんと近い感じがします」

「それ、褒めてますか」

「褒めてます」


 未沙は小さく息をこぼした。


 店の中では、こういうやり取りで十分だった。

 それ以上を求めなくても、ちゃんと伝わるものがある。


 施術の終わりが近づくころ、未沙はふと気づく。


 この時間が好きだ。


 ただ会えるからではない。

 触れるからでもない。

 五条の体の強張りが少しずつほどけていくのを、自分の手で感じられるこの時間そのものが、好きなのだ。


 それはリオンとしての誇りであり、未沙としての気持ちでもあった。


「……お疲れさまでした」


 最後の手技を終え、未沙は静かに声をかける。


「ありがとうございます」


 五条が起き上がる。

 その表情は、以前よりずっとやわらかかった。


 未沙は先に部屋を出て、湯を沸かした。

 カップを二つ並べる手つきにも、もう変な迷いはない。


 施術後、向かい合って座る。


 湯気の立つカップ。

 静かな店内。

 何度も繰り返してきたはずの光景なのに、今日は少しだけ違って見えた。


「ありがとうございました」

「こちらこそ」


 五条がカップに手を添えながら、未沙を見る。


「今日、すごく安心しました」

「安心?」

「はい。店で会っても、ちゃんといつも通りで」

 少しだけ笑う。

「でも、前とは違うってわかるので」


 未沙は目を伏せて、小さく息をついた。


「私も、少し安心しました」

「本当ですか」

「はい」


 未沙はカップの縁に指先を添える。


「前は、どちらかにしないといけない気がしてたんです」

「……うん」

「でも今は、そうじゃなくてもいいのかもしれないって思えます」


 五条は静かに聞いている。


「店ではちゃんとしていたいし、この時間も大事です」

 未沙はゆっくり言う。

「でも、それとは別に」

 少しだけ間を置く。

「五条さんに会えるのもうれしいです」


 言い終えると、五条がやわらかく笑った。


「俺もです」

 その声は、ひどく自然だった。

「どっちの時間も、ちゃんと大事にしたいです」


 未沙は小さくうなずく。


 それで十分だった。

 大きな約束や、派手な言葉はいらない。

 こうして同じ気持ちを確かめられるだけで、もう十分に満たされていた。


 カップの中身が少し減ったころ、五条が静かに言った。


「このあと、少しだけ時間ありますか」


 未沙は顔を上げる。


 その言葉の意味は、すぐにわかった。

 施術後の延長ではなく。

 店の中の客とセラピストの時間でもなく。

 その外へ、一緒に出るための誘い。


「……はい」


 未沙はやわらかくうなずいた。


 店を閉める支度をして、照明を落とす。

 最後の確認を終え、扉に鍵をかける。


 カチ、と小さな音がした。


 その瞬間、未沙はふと立ち止まる。


 今までは、ここで終わっていた。

 扉を閉めて、見送って、ひとりで静けさの中へ戻っていく。


 でも今日は違う。


「行きましょうか」


 五条の声が、すぐ隣で聞こえる。


 未沙は顔を上げ、小さく笑った。


「はい」


 並んで歩き出す。


 夜の空気はやわらかく、店の中より少しだけ自由だった。

 肩が触れるほど近くはない。

 けれど、離れてもいない。


 駅へ向かう道の途中、五条がふと歩幅をゆるめる。

 未沙も自然にそれに合わせた。


「店の中の未沙さんも好きです」

 五条が前を向いたまま言う。


 未沙の胸が、静かに熱を持つ。


「……急ですね」

「今、言いたくなったので」

「ずるいです」

「知ってます」


 未沙は少しだけ笑って、視線を落とした。


「でも」

 五条が続ける。

「こうして外で一緒に歩けるのも、すごくうれしいです」


 未沙は足元を見つめたまま、小さく息を吐く。


「私もです」


 その返事は、もう前みたいに震えていなかった。


 少し先で信号が赤に変わる。

 ふたりは並んで立ち止まった。


 すぐ隣にいる気配が、静かに近い。


 未沙はそっと自分の手を見る。

 何度も五条に触れてきた手。

 仕事として、丁寧に、境界を守りながら触れてきた手。


 そして今は、その境界の外で、ただ隣に立っている。


 未沙は少しだけ迷ってから、指先を動かした。


 ほんのわずかに、手の甲が触れる。


 偶然みたいな、かすかな接触。

 けれど五条は気づいたように、静かにこちらを見た。


 未沙は目を上げないまま、小さく息をする。


 次の瞬間、五条の指先がそっと重なった。


 強く握るわけではない。

 確かめるように、やわらかく触れるだけ。


 それでも、胸の奥がひどくあたたかくなる。


 信号が青に変わる。

 ふたりは手を離さないまま、ゆっくり歩き出した。


 店の中で触れる時間もある。

 店の外で、こうして並んで歩く時間もある。


 そのどちらも、もう失いたくなかった。


 リオンでいる自分も。

 未沙として揺れる自分も。

 どちらかを消さなくても、きっとこの先を歩いていける。


 五条のぬくもりが、指先から静かに伝わってくる。


 未沙はそっと目を細めた。


 あなたに触れる。


 それはもう、仕事の中だけのことではなかった。

 けれど、仕事として触れてきた時間があったからこそ、今このぬくもりにもたどり着けたのだと思う。


 夜の街を、ふたりで歩く。


 やわらかな境界の向こうに。

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