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第8話 もう一度だけ

 その日の午後、五条は思っていた以上に仕事へ集中できなかった。


 もちろん、表面上はいつも通りだった。

 会議では必要な発言をし、部下から上がってきた資料には赤を入れ、顧客からの問い合わせにも淡々と対応する。周囲から見れば、普段と変わらない五条だったはずだ。けれど頭の片隅には、昼休みに閉じたはずの予約画面がずっと残っていた。


 再来週の木曜、十九時。

 白い画面の中で、その時間だけが妙に鮮明だった。


 身体のために行く。

 そう考えれば話は簡単なはずなのに、簡単に決めてしまうことへ、どこかで抵抗があった。理由をひとつに絞ってしまうと、そこからこぼれる感情がある気がしたし、逆に感情を認めてしまうと、自分が思っている以上に足元をすくわれそうな気もした。


 結局、午後三時を過ぎたころ、五条はコーヒーを買いに行くふりをして席を立った。

 給湯スペースの脇、人の少ない窓際でスマートフォンを開く。予約ページは、履歴の上のほうにまだ残っていた。


 再来週の木曜、十九時。

 その文字を見つめる。

 数秒迷ってから、五条は予約ボタンを押した。


 名前、連絡先、前回と同じコース。

 入力はほとんど自動で埋まる。確認画面へ進み、最後の送信ボタンの前で、また一瞬だけ指が止まった。


 もう一度だけ。


 心の中で、誰に言い訳するでもなくそう呟く。

 身体の状態を整えるために、もう一度だけ様子を見る。それで十分だ。必要以上の意味を持たせるつもりはないし、持たせるべきでもない。


 そう自分に言い聞かせて、送信した。


 予約完了の画面が表示される。

 胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。


「何してるんですか、こんなところで」


 不意に背後から声をかけられ、五条は反射的にスマートフォンを伏せた。

 振り返ると、佐伯が紙コップを片手に立っている。


「……別に」

「いや、絶対別にじゃない顔してましたよ」

「そんな顔してた?」

「してました。なんか、珍しく悩んでる人の顔」

「いつも悩んでるだろ」

「仕事の悩み方じゃない感じです」


 妙に鋭い。

 五条は苦笑して、紙コップのコーヒーを一口飲んだ。


「おまえ、そういうのよく見てるな」

「五条さんがわかりやすいだけです」

「それは心外だな」

「そうですか? 普段はわかりにくいですけど、たまにすごくわかりやすいですよ」

「たまに、って」

「今とか」


 佐伯はにやりと笑った。

 こういうところは年相応だ。仕事中は真面目なくせに、少し気が緩むとすぐこういう顔をする。


「彼女ですか?」

「違う」

「即答」

「違うから」

「じゃあ元カノ」

「なんでそうなる」

「その否定の仕方、なんか怪しいんですよね」

「おまえ、仕事戻れ」

「図星だ」


 楽しそうに言い残して、佐伯は逃げるように去っていった。

 五条は小さく息を吐く。図星ではない。少なくとも、そのままの意味では。けれど、完全に違うとも言い切れない自分がいるのが厄介だった。


 デスクへ戻ってからも、予約完了メールの通知が気になった。

 開かなくても、もう予約は取れている。再来週の木曜、十九時。たったそれだけの予定が、スケジュール帳の他の予定より妙に存在感を持っている。


 その日の夜、帰宅してから相沢にメッセージを送った。


『予約した』


 すぐに既読がつく。


『お、えらい』

『だからその言い方やめろ』

『で、何日後?』

『再来週』

『来週じゃないんだ』

『空いてなかった』

『ほんとか?』

『ほんとだよ』


 少し間が空いてから、相沢から通話がかかってきた。

 五条は夕食代わりのサンドイッチを片手に、イヤホンをつける。


「もしもし」

『もしもし。予約したんだな』

「した」

『よかったじゃん』

「何が」

『身体のメンテ続ける気になったなら』

「……まあ」

『で、それだけ?』

「何が」

『だから、それだけの理由で予約したのかって話』


 相沢の声は軽いが、問いはまっすぐだった。

 五条はサンドイッチを置き、少しだけ黙る。


「身体が楽になったのは本当だよ」

『うん』

「仕事も、次の日かなり違った」

『うん』

「だから、それで十分理由になる」

『なるな』

「……でも」

『でも?』

「それだけじゃない気もする」


 言ってしまってから、自分でも曖昧すぎると思った。

 相沢は笑わなかった。


『会いたい?』

「……」

『沈黙は肯定だぞ』

「そういう単純な話じゃない」

『じゃあどういう話』

「会いたい、って言い切るのも違う気がする」

『気になる?』

「それは、ある」

『似てるから?』

「最初はたぶんそうだった」

『今は?』


 その問いに、五条はすぐ答えられなかった。


 今は。

 今は、似ていることだけが理由ではない気がする。

 施術中の落ち着いた声とか、必要以上に踏み込まない距離感とか、こちらの言葉を軽く扱わないところとか、そういう細かいものが積み重なって、彼女を「未沙に似た誰か」ではなく、「リオン」というひとりの人間として意識し始めている。


 けれど、それをそのまま口にするのは、まだ少し抵抗があった。


「……まだ、わからない」

『またそれか』

「事実だから仕方ないだろ」

『まあな』


 相沢は少し笑ってから、意外なほどあっさり言った。


『でも、わからないままでも別にいいんじゃないの』

「おまえ、この前も同じこと言ってたな」

『だってそうだろ。二回目行ったくらいで答え出す必要ある?』

「ないけど」

『じゃあ、ない』


 簡単に言う。

 けれど、その簡単さがありがたかった。


『たださ』

「うん」

『相手を元カノの代わりみたいに扱うのはやめろよ』

「そんなことしない」

『するつもりなくても、無意識でやることあるから』

「……」

『そこだけ気をつけろ。あとは別に、身体のためでも、気になるからでも、行けばいい』


 五条は返事をしなかった。

 相沢の言葉は、図星というより、先回りだった。自分でもそこは少し怖いと思っていた。未沙に似ているという最初の衝撃があった以上、完全に切り離して考えるのは難しい。だからこそ、余計に慎重になっている。


「わかってる」

 ようやくそう言うと、相沢は短く「ならいい」と返した。


 通話を切ったあと、五条はしばらくスマートフォンを見つめていた。

 相沢の言う通りだと思う。相手を誰かの代わりにするのは、たぶん一番よくない。自分にとっても、相手にとっても。


 それでも、予約を取った。

 もう一度だけ、と思って。


 その「もう一度だけ」が、どこまで本心なのかは、自分でもまだわからなかった。


 再来週までの二週間は、思ったより長かった。


 仕事が忙しかったのもある。

 月末が近づき、案件の締めが重なり、顧客との打ち合わせも増えた。部下のフォローに回る時間も多く、気づけば一日が終わっている。前回の施術で少し楽になった身体も、日が経つにつれてまたじわじわと重さを取り戻していった。


 肩が張る。

 首が詰まる。

 目の奥が重い。


 それでも前より少しだけ違ったのは、「どうせこんなものだ」と諦めきらずに済んだことだった。

 一度楽になる感覚を知ってしまうと、いまの不調が当たり前ではないとわかる。だからこそ、また整えたいと思う。


 木曜の朝、五条は出勤前にスケジュールを確認した。

 十九時、予約。

 その文字を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。


 身体のためだ。

 そう思う。

 けれど、鏡に映る自分の顔を見ると、それだけではないこともわかる。


 その日は朝から会議が立て込み、午後には顧客との打ち合わせが長引いた。

 気づけば十八時を回っている。資料の修正依頼が一件飛び込み、佐伯が申し訳なさそうにデスクまで来た。


「五条さん、これ、今日中に返したほうがいいですよね」

「……そうだな」

「すみません、先方の確認が遅くて」

「いや、佐伯のせいじゃない」


 画面を見れば、たしかに今日中に返したほうがいい内容だった。

 ここで対応しておけば、明日の朝が楽になる。いつもの五条なら、迷わず残って片づけていたはずだ。


 けれど、デスクの端に置いたスマートフォンには、予約時間が近づいている通知が表示されていた。


 十九時。

 駅から徒歩四分。

 前回と同じ場所。


 五条は数秒だけ黙り込み、それから口を開いた。


「佐伯、これ、いま一緒に優先順位だけ整理しよう」

「え?」

「今日返すべきところと、明日の朝で間に合うところを分ける」

「……はい」

「全部今日やる必要はない。必要なところだけ先に返す」


 佐伯は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。

 二人で画面を見ながら要点を絞り、最低限今日返すべき内容だけをまとめる。十分ほどで方針が決まり、五条は短い返信を作って送信した。


「これでいい。残りは明日の朝やる」

「……五条さんがそう言うの、珍しいですね」

「そうか?」

「かなり」

「たまには線引きするよ」

「いいことだと思います」


 佐伯は本気でそう言っている顔だった。

 五条は少しだけ苦笑し、PCを閉じる。


 会社を出るころには、前回と同じように胸の奥が少し落ち着かなかった。

 ただ、前回のような「知らない場所へ行く」緊張ではない。場所はもう知っている。流れもわかっている。なのに、別の意味で気持ちが定まらない。


 また会う。

 また名前を呼ばれるかもしれない。

 またあの落ち着いた声を聞く。


 それを意識している自分が、少しだけ厄介だった。


 電車に揺られながら、窓に映る自分を見る。

 仕事帰りの顔だ。少し疲れていて、少し硬い。けれど前回よりは、どこか覚悟があるようにも見えた。


 もう一度だけ。


 そう思って取った予約のはずなのに、駅へ近づくにつれて、その言葉は少しずつ頼りなくなっていく。


 たぶん本当は、もう一度だけ、ではないのだ。


 そのことに気づきかけて、五条は窓の外へ視線を逸らした。


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