第7話 予約画面の前で
その夜、五条は本当に仕事用のPCを開かなかった。
帰宅して、ネクタイを外し、シャツのボタンを二つ外したところで、いつもの癖でデスクの上のノートPCへ視線が向いた。未返信のメールがあることも、明日の朝までに目を通しておいたほうがいい資料があることも、頭のどこかではわかっている。けれど今日は、ジャケットを椅子に掛けたまま、その前に座る気になれなかった。
代わりに、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に半分ほど飲む。
喉を通る冷たさが、施術のあとに言われた「水分をしっかり取ってください」という声を思い出させた。
何もしないでください。
玄関先でそう言われたとき、少し可笑しいと思った。
けれど、いまこうして部屋の真ん中に立っていると、その言葉の意味がじわじわわかる気がする。何かをしようとすると、すぐにいつもの流れへ戻ってしまう。メールを開き、返信を考え、ついでに資料を見て、気づけば日付が変わる。だから「休む」ではなく、「何もしない」と言われたのかもしれない。
五条はスマートフォンをテーブルに置き、ソファへ腰を下ろした。
部屋は静かだった。エアコンの低い音と、外を走る車の気配が遠くにあるだけ。テレビをつける気にもなれず、そのまま背もたれに身体を預ける。
肩が軽い。
首も、来たときよりずっと動く。
身体が楽になるというのは、もっと単純な快適さだと思っていた。痛みが減るとか、可動域が広がるとか、そういうわかりやすい変化だけを想像していた。けれど実際には、それだけではなかった。身体のどこかにずっと引っかかっていたものが少し外れると、思考の流れまで変わるらしい。頭の中の雑音が、いつもより少しだけ遠い。
それでも、完全に静かになったわけではない。
目を閉じると、施術中の手の温度がまだ背中に残っている気がした。
肩に置かれた掌の重さ。
首筋を支えられたときの慎重な指先。
耳元に近い位置で落ちてきた、落ち着いた声。
五条さん。
名前を呼ばれたときの響きが、妙に耳に残っている。
「……なんなんだよ」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
自分でもわかっている。大げさに受け取りすぎだ。相手は仕事として接していただけで、特別な意味などあるはずがない。名前を呼ぶのも、体調を気遣うのも、眠れますようにと言うのも、全部接客の範囲内だ。
そんなことは、わかっている。
それでも、あの声が残る。
未沙に似ていると思った最初の衝撃とは、少し違う形で。
未沙のことを思い出すとき、いつも最初に浮かぶのは匂いか、声だった。
顔より先に、気配が蘇る。笑う前の小さな息遣いとか、電話越しに少し眠そうに返事をする声とか、そういう曖昧なものばかりが、妙に鮮明に残っている。
リオンは未沙ではない。
それはもう、何度も自分に言い聞かせた。
顔立ちも違う。笑い方も違う。やさしさの出し方も違う。未沙はもっと感情が表に出る人だったし、もっと近い距離で人に触れるタイプだった。リオンは違う。落ち着いていて、線を引くのがうまくて、相手の領域に踏み込みすぎない。
だからこそ、安心したのかもしれない。
似ているのに、同じではない。
そのことが、五条の中で妙な均衡を保っている。
スマートフォンが震えた。
相沢からだ。
『寝た?』
まだ十一時前だ。
五条は少しだけ笑って、短く返す。
『まだ』
『PC開いた?』
『開いてない』
『えらい』
『だから子ども扱いするな』
『じゃあ褒めて伸ばす方針で』
『いらない』
すぐに通話がかかってきた。
五条は一瞬迷ったが、結局出る。
「もしもし」
『もしもし。どうよ、眠れそう?』
「まだわからない」
『でも声はちょっと楽そう』
「そうか?」
『うん。いつもより刺がない』
「刺ってなんだよ」
『余裕のなさ』
「失礼だな」
『事実だし』
相沢は笑っている。
五条はソファにもたれたまま、天井を見上げた。
『で、どうだったの、実際』
「普通に良かったよ」
『普通に、ねえ』
「何」
『その言い方のとき、だいたい普通以上なんだよ』
「……身体はかなり楽になった」
『ほらな』
「でも、それだけじゃない気もする」
『何が?』
「わからない」
『またそれか』
呆れたような声のあと、相沢が少しだけ真面目な調子になる。
『担当の人、感じ悪くなかった?』
「全然」
『じゃあ当たりだったんだな』
「……たぶん」
『たぶん多いな今日』
五条は返事をしなかった。
相沢は少し黙ってから、探るようでもなく、ただ確認するように言った。
『似てた?』
その一言に、五条の呼吸がわずかに止まる。
「……何が」
『元カノに』
「なんでそう思うんだよ」
『おまえが“それだけじゃない”とか言うとき、大体そこ絡みだろ』
図星だった。
けれど、認めるのも癪で、五条はしばらく黙ったまま水を一口飲んだ。
『当たり?』
「……少し」
『顔が?』
「顔だけじゃない」
『あー』
「でも、別人だよ」
『そりゃそうだろ』
「似てるけど、違う」
『うん』
「違うのに、最初ちょっと動揺した」
『だろうな』
相沢の声は軽いままだったが、茶化しはしなかった。
そこがありがたい。
『で、今は?』
「今は……」
五条は言葉を探した。
「似てるっていうより、ちゃんと別の人だと思ってる」
『それはいいことじゃん』
「いいこと、なのか」
『少なくとも、勝手に重ねて暴走してる感じではないだろ』
「暴走って」
『おまえならやりかねない』
「しないよ」
『どうだか』
少しだけ笑いが混じる。
そのあと、相沢はあっさり話題を変えた。
『次、行くの?』
「……まだ決めてない」
『身体のためには行ったほうがいいんじゃないの』
「それはそう思う」
『じゃあ答え出てるだろ』
「そんな単純じゃない」
『何が単純じゃないの』
「……また会ったら、余計なこと考えるかもしれない」
『考えればいいじゃん』
「よくないだろ」
『なんで』
「なんでって……」
言葉に詰まる。
よくない、と思う理由はたくさんある気がするのに、いざ説明しようとすると曖昧だった。未沙に似ているから通う、みたいなことはしたくない。相手に失礼だし、自分でも気持ちが悪い。けれど、身体が楽になったのは事実で、また行きたいと思っているのもたぶん事実だ。
『別に、会いたいから行ってもいいだろ』
相沢がさらりと言う。
『それが即アウトってわけじゃない』
「そういう問題じゃない」
『じゃあどういう問題』
「……自分でもまだ整理ついてない」
『まあ、それはそうか』
相沢はそこで無理に結論を出させようとはしなかった。
『でもさ』
「うん」
『似てるから気になるのか、気になる人がたまたま似てたのか、そのへんは急いで決めなくていいんじゃないの』
「……」
『身体しんどいなら、身体のために行けばいい。あとはそのうちわかるだろ』
その言い方は、妙に腑に落ちた。
白黒つけようとしすぎていたのかもしれない。仕事なら、曖昧なまま進めるのは危険だ。だから早く定義して、整理して、判断したくなる。けれど人の感情まで、同じ手順で片づくわけではない。
「おまえ、たまにまともなこと言うな」
『たまにじゃない、いつもだ』
「それはない」
『ひどいな』
少し笑って通話を切る。
スマートフォンをテーブルに置いたあと、五条はしばらくそのまま動かなかった。
似てるから気になるのか。
気になる人がたまたま似てたのか。
どちらなのか、今はまだわからない。
けれど、相沢の言う通り、急いで決める必要もないのかもしれなかった。
その夜、五条は珍しくベッドに入る前にスマートフォンを伏せた。
完全に見ないわけではない。アラームの確認もあるし、緊急の連絡が来る可能性だってゼロではない。けれど、いつものように意味もなくニュースを流し見たり、仕事のチャットを開いたりはしなかった。
部屋の明かりを落とし、ベッドに横になる。
首の下に枕が収まる感覚が、いつもより自然だった。肩が少し下がっているせいかもしれない。
眠れるかどうかは、まだわからない。
そう思っていたのに、気づけば意識は思ったより早く沈んでいった。
翌朝、目が覚めたとき、五条は数秒だけ自分がどこにいるのかわからなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。枕元のスマートフォン。見慣れた天井。いつもの自分の部屋だ。けれど、身体の感覚が少し違う。重だるさがないわけではないが、眠った、という実感があった。
「……寝たのか」
独り言が漏れる。
時計を見ると、アラームの十分前だった。途中で目が覚めた記憶もない。こんなふうにまとまって眠れたのは、いつ以来だろうと思う。
出勤の支度をしながらも、その感覚は残っていた。
コーヒーを淹れ、シャツに袖を通し、ネクタイを締める。いつもと同じ朝のはずなのに、身体のどこかに余白がある。たった一回でこんなに違うものなのかと、少し驚く。
会社に着くと、佐伯が開口一番に言った。
「五条さん、今日ちょっと顔違いますね」
「顔?」
「なんか、寝ました?」
「……少し」
「すごい。わかりやすい」
そんなに違うのか、と五条は苦笑した。
午前中の会議でも、いつもより頭が回る気がした。資料の細かい違和感にも早く気づけるし、部下の説明を聞きながら別の段取りを考える余裕もある。疲れがゼロになったわけではない。けれど、慢性的な鈍さが少し薄れるだけで、こんなにも違うのかと実感する。
昼休み、デスクで簡単に昼食を済ませたあと、五条は何気ないふりをしてスマートフォンを手に取った。
開いたのはメールでもチャットでもなく、あのサロンの予約ページだった。
白を基調にした、静かな画面。
前回と同じように、空き状況が一覧で表示される。
来週は難しい。再来週なら、木曜の夜に一枠だけ空いている。さらにその次の週にも、いくつか候補がある。
五条は画面を見つめたまま、指を止めた。
身体のために行く。
それは本当だ。
またあの軽さを取り戻せるなら、行く価値はある。
けれど、それだけではないことも、自分でわかっている。
また会ったら、どう思うだろう。
最初のように動揺するのか。
それとも、今度はもっと落ち着いて、彼女を彼女として見られるのか。
予約ボタンの手前で、指先が止まる。
仕事なら、必要か不要かで決められる。
費用対効果でも、優先順位でも、締切でも判断できる。
けれど今、画面の前で迷っている理由は、そういう理屈だけでは説明できなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、オフィスのスピーカーから小さく流れる。
五条は一度画面を閉じた。
まだ決めなくていい。
そう思ったのに、数分後、気づけばまた同じページを開いていた。
予約画面の前で立ち止まる自分が、少し可笑しくて、少し厄介だった。




