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第6話 名前を呼ぶ声

「お疲れさまでした。ゆっくり起き上がってくださいね」


 その声が耳に残ったまま、五条はしばらく仰向けで天井を見ていた。


 身体は明らかに軽くなっていた。

 肩の奥にずっと居座っていた鈍い重さが薄れ、首を少し動かしただけで感じていた引っかかりも和らいでいる。背中全体に張りついていた見えない板のようなものが、ようやく外れたような感覚だった。


 それなのに、胸の奥だけが妙に落ち着かない。


「……大丈夫ですか?」


 少しだけ近くなった声に、五条は我に返った。


「あ、はい。すみません」

「ふらつきはありませんか?」

「大丈夫です。ちょっと、ぼんやりしてただけで」

「よかったです。急に起きると立ちくらみが出る方もいるので、ゆっくりで大丈夫ですよ」


 五条は小さく頷き、肘をついて身体を起こした。

 視界が戻る。やわらかな照明、整えられたタオル、ベッド脇に立つ彼女の姿。施術中は見えなかったものが一気に現実の輪郭を取り戻していく。


 リオンは少し距離を取った位置に立っていた。

 必要以上に覗き込まず、けれどこちらの様子はきちんと見ている。その立ち方が、最後まで彼女らしかった。


「お水、お持ちしますね」

「ありがとうございます」


 彼女が部屋の隅の小さなワゴンへ向かう。

 その後ろ姿を見ながら、五条はゆっくり首を回してみた。まだ完全に軽いわけではないが、来たときとは明らかに違う。可動域が広がっている。自分の身体が、自分のものとして少し戻ってきたような感覚があった。


「どうぞ」


 差し出されたグラスを受け取る。

 冷たすぎない水が喉を通ると、身体の内側まで静かに落ち着いていく気がした。


「かなりお疲れが溜まっていましたね」

「……自分で思ってたより、ひどかったみたいです」

「そういう方、多いです。慣れてしまうので」

「慣れるものなんですね」

「慣れてしまう、のほうが近いかもしれません」


 彼女はそう言って、やわらかく笑った。


 その笑い方を見て、五条はまた一瞬だけ胸の奥が揺れるのを感じた。

 未沙に似ている、と思う感覚は、施術のあいだに少し薄れた気がしていた。触れられているうちに、似ていることよりも、目の前の彼女が「リオン」というひとりの人間として輪郭を持ち始めたからかもしれない。


 けれど、こうしてふとした表情を見ると、まだ記憶が勝手に反応する。


「今日は特に、首と肩が強かったです」

 彼女は続けた。

「あと、頭もかなりお疲れでした」

「頭までわかるんですね」

「触るとわかります。考えごとが多い方は、頭皮まで硬くなりやすいので」

「……全部見抜かれてる感じがしますね」

「見抜くというより、出ているものを見ているだけです」


 その言い方が、妙に印象に残った。


 出ているものを見ているだけ。

 仕事でも、人は案外そうなのかもしれない。隠しているつもりでも、疲れや焦りや苛立ちは、言葉の端や姿勢や目線に出る。五条自身、部下のそういう変化には気づくほうだった。けれど、自分のこととなると、見ないふりをしてきた。


「少し、今日は早めに休めそうですか?」


 問われて、五条はグラスを持ったまま考えた。


「……どうでしょう」

「正直ですね」

「期待しすぎると寝られない気がして」

「それはあります」


 彼女は小さく頷いた。


「でも、いつもより少しだけスマホを置く時間を早めるとか、お風呂のあとにそのまま横になるとか、それくらいでも違うと思います」

「仕事のメール、見ないほうがいいですよね」

「見ないほうがいいです」

「やっぱり」

「少なくとも、寝る直前は」


 言い切る口調なのに、きつさがない。

 押しつけではなく、経験からくる確信のようなものがある。


「難しいですか?」

「……難しいですね」

「皆さんそうおっしゃいます」

「ですよね」

「でも、五分だけでも違いますよ」

「五分」

「はい。いきなり完璧にやろうとすると続かないので」


 完璧にやろうとすると続かない。

 それは仕事にも、そのまま当てはまりそうだった。

 五条は思わず苦笑する。


「耳が痛いです」

「よく言われます」


 また同じやり取りをして、今度は二人とも少しだけ笑った。

 その短い笑いのあとに落ちた沈黙は、不思議と気まずくなかった。


「お着替え、ゆっくりで大丈夫です」

 彼女は立ち上がりながら言った。

「終わりましたら、お声がけください」

「はい」


 更衣スペースに戻り、シャツに腕を通す。

 さっきまでより布が軽く感じる。肩が少し下がっているのだろう。ネクタイを締め直しながら鏡を見ると、来たときより表情がやわらいで見えた。疲れが消えたわけではない。けれど、顔のどこかに張りついていた硬さが少し取れている。


 それでも、胸の奥のざわめきだけは消えていなかった。


 着替えを終えてカーテンを開けると、彼女はすぐに気づいて立ち上がった。


「お帰りのお支度、ありがとうございます」

「こちらこそ」

「お会計の前に、少しだけ今日の状態をお伝えしても大丈夫ですか?」

「はい」


 ソファに戻ると、彼女は向かいに座った。

 施術中よりも距離があるはずなのに、なぜかさっきより彼女の存在を近く感じる。たぶん、一度触れられたあとだからだ。人の手の温度を知ってしまうと、その人の輪郭まで少し変わって見える。


「今日は、肩と首が中心でしたが、背中全体もかなり張っていました」

 彼女は落ち着いた声で言う。

「特に肩甲骨の内側と、首の付け根ですね。あと、頭皮も硬さがあったので、目のお疲れも強いと思います」

「全部仕事に直結してますね」

「そうですね。姿勢と、考えごとの多さと、画面を見る時間と」

「逃げ場がない」

「ないですね」


 さらりと言われて、五条はまた少し笑った。


「次にもし受けていただくなら、あまり間を空けすぎないほうが楽だと思います」

「どれくらいですか?」

「理想は二週間から三週間くらいですけど、お忙しいと思うので、無理のない範囲で」

「……そんなに頻繁に来るものなんですね」

「ひどくなってから一度整えるより、少し楽な状態を保つほうが、結果的にお身体は楽です」


 理屈はわかる。

 仕事でも同じだ。問題が大きくなってから対処するより、小さいうちに手を打ったほうがいい。そう考えると、彼女の言っていることはもっともだった。


「検討します」

「はい。ご無理のない範囲で」


 営業らしい押しの強さはない。

 来てほしいのだろうに、無理に勧めてこない。その控えめさが、かえって印象に残る。


 会計を済ませ、コート代わりに持ってきた薄手のジャケットを手に取る。

 帰るだけだ。そう思うのに、なぜか少しだけ足が重い。ここを出たら、またいつもの生活に戻る。仕事があって、メールがあって、眠れない夜があって、考えなくていいことまで考える日々が続く。


 その当たり前のことが、今は少しだけ遠く感じられた。


「本日はありがとうございました」


 玄関まで見送ってくれた彼女が、丁寧に頭を下げる。

 五条も靴を履きながら軽く会釈した。


「こちらこそ。……かなり楽になりました」

「よかったです」

「正直、ここまで違うとは思ってなかったです」

「そう言っていただけると安心します」


 その言葉のあと、ほんの一瞬だけ間が空いた。

 何かを言うべきなのか、このまま帰るべきなのか、自分でもわからないまま、五条はドアのほうへ身体を向ける。


 そのときだった。


「五条さん」


 不意に名前を呼ばれて、五条は振り返った。


 その響きに、胸の奥が小さく跳ねる。


 仕事では毎日のように呼ばれている名前だ。

 部下にも、上司にも、取引先にも。珍しくもなんともない。けれど、彼女の声で呼ばれたそれは、なぜか少し違って聞こえた。やわらかいのに、輪郭がある。静かなのに、耳に残る。


「はい」

「今日は、たぶん思っている以上にお疲れだったので」

 彼女はやわらかく微笑んだ。

「帰ったら、できるだけ何もしないでください」


 何もしないでください。


 その言い方が、妙に可笑しくて、妙にやさしかった。

 休んでください、でもなく、無理しないでください、でもない。何もしないでください、という少し投げやりにも聞こえる言葉が、かえって現実的で、五条にはすっと入ってきた。


「……努力します」

「努力しなくていいです」

「じゃあ、善処します」

「それも少し怪しいですね」

「信用ないな」

「少しだけ」


 彼女が笑う。

 五条もつられて笑った。


 その一瞬、未沙に似ているとか、似ていないとか、そういうことが少しだけどうでもよくなった。

 目の前にいるのは、未沙ではない。

 リオンという名前の、落ち着いた声で人を安心させる、少しだけ意地悪く笑うひとだ。


「おやすみなさい」

 彼女が言った。

「今夜は少しでも眠れますように」


 その言葉に、五条は一拍遅れて頷いた。


「……ありがとうございます」


 ドアを開けて廊下へ出る。

 さっき上がってきたときと同じ白い壁、同じ静けさ。けれど、来たときより足取りは軽かった。階段を下りながら、肩を回してみる。やはり違う。身体が少し、自分のものに戻っている。


 ビルの外へ出ると、夜風が頬に触れた。

 昼間の熱はもうほとんど消えていて、空気は思ったより涼しい。大通りのほうから車の音が流れてくる。駅へ向かう道を歩き出しながら、五条はポケットからスマートフォンを取り出した。


 相沢から、ちょうどメッセージが来ていた。


『どうだった』


 五条は立ち止まり、少し考えてから短く打つ。


『思ったより良かった』

『だろ』

『なんでおまえが得意げなんだ』

『俺の手柄だから』

『違うだろ』


 すぐに返信が返ってくる。


『で、次も行くの?』


 その一文を見た瞬間、五条の指が止まった。


 次も行くのか。

 身体のために考えれば、行ったほうがいいのだろう。実際、かなり楽になった。仕事の効率だけを考えても、悪い投資ではない。そういう理屈はいくらでも並べられる。


 けれど、指が止まった理由はたぶんそこではなかった。


 また会いたいのか、と問われた気がしたのだ。


 未沙に似ているから?

 それとも、似ているのに違う、その曖昧さに惹かれているから?

 あるいは、ただ自分の疲れを静かに受け止めてくれる場所が、思っていた以上に心地よかったからか。


 どれも違う気がして、どれも少しずつ当たっている気もした。


 結局、五条は相沢にこう返した。


『わからない』


 送信してから、自分でも曖昧すぎると思った。

 案の定、すぐに返ってくる。


『何がだよ』

『いろいろ』

『めんどくさいな、おまえ』

『自覚はある』


 そのやり取りを終えてスマートフォンをしまう。

 駅前の信号が赤に変わり、人の流れが止まる。向かいのガラスに映った自分の顔は、来たときより少しだけやわらかかった。


 眠れるかどうかは、まだわからない。

 仕事のことを考えずにいられるかもわからない。

 けれど、さっき名前を呼ばれたときの声だけが、なぜか耳の奥に残っていた。


 五条さん。


 たったそれだけの呼びかけなのに、妙に静かで、妙に近い。


 信号が青に変わる。

 歩き出しながら、五条は自分でも説明のつかない感覚を胸の奥に抱えたまま、夜の駅へ向かった。


 その夜、帰宅してからも、彼はすぐには仕事用のPCを開かなかった。

 それだけでも、いつもとは少し違っていた。


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