第5話 眠れない理由
うつ伏せのまま目を閉じていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていった。
背中を流れる手の温度は一定で、急かすことも、試すこともなく、ただそこにある。肩甲骨の内側をゆっくり押し流されるたび、固まっていた筋肉が自分の存在を思い出すように鈍く軋んだ。痛みはある。けれど、それは嫌な痛みではなかった。長いあいだ放置していた場所に、ようやく手が届いたときのような、遅れてくる安堵に近い。
五条は顔を伏せたまま、浅く息を吐いた。
「少し、右のほうが張りが強いですね」
彼女の声が、背中越しに落ちてくる。
「右?」
「はい。マウスを持つ手の影響もあるかもしれませんし、無意識に片側へ重心をかける癖があるのかもしれません」
「……たしかに、右ばかり使ってる気はします」
「肩も少し前に入っていますね。胸が閉じやすい姿勢です」
「胸が閉じる」
「呼吸が浅くなりやすいんです」
またその言葉だ、と五条は思った。
呼吸。
この店に来てから、何度もその言葉を聞いている気がする。けれど不思議と押しつけがましくない。深呼吸をしましょう、リラックスしましょう、といったありきたりな励ましではなく、ただ身体の状態を説明するための自然な言葉としてそこにある。
彼女の手が肩の付け根を押し、ゆっくりと外へ流していく。
その動きに合わせるように、五条はもう一度息を吐いた。
「普段、眠る直前までお仕事されますか?」
何気ない調子で問われ、五条は少し考えてから答えた。
「……すること、多いですね」
「パソコンとか、スマホとか」
「どっちも」
「そうすると、頭が休みにくいんです」
「やっぱりそういうものですか」
「はい。身体は疲れていても、脳だけ起きたままになりやすいので」
脳だけ起きたまま。
その表現は妙にしっくりきた。
たしかに、ベッドに入ってもすぐ眠れない夜がある。
身体は重く、まぶたも落ちそうなのに、頭のどこかだけが妙に冴えている。今日返せなかったメールのこと、来週の会議のこと、部下の進捗、顧客の反応、修正が必要な資料。そういう現実的なことから始まって、気づけばまったく別のことまで考えている。
たとえば、三年前のこととか。
「眠れないときって、どうしてますか?」
彼女の問いに、五条は一瞬だけ返事を迷った。
「……どうもしないです」
「そのままですか」
「寝ようとして、寝られなくて、諦めてスマホ見たり」
「一番よくないやつですね」
少しだけ笑いを含んだ声だった。
責めるでもなく、呆れるでもなく、ただ事実として言われて、五条もわずかに口元を緩めた。
「やっぱり」
「やっぱりです」
「でも、他にすることもなくて」
「そういうときは、眠ろうとしすぎないほうがいいこともあります」
「眠ろうとしすぎない」
「はい。眠らなきゃ、って思うほど、頭が緊張するので」
彼女の指先が、首の付け根をゆっくりと辿る。
そこを押されるたび、頭の奥に溜まっていた鈍い重さが少しずつほどけていく気がした。
「五条さん、普段から気を張ることが多いですよね」
さらりと言われて、五条は目を開けた。
見えるのは床だけだが、それでも反射的に視線を上げようとしてしまう。
「……そう見えますか」
「見えます」
「そんなにわかりやすいですか」
「わかりやすいというより、身体に出ています」
身体に出ている。
その言い方は、仕事で評価を受けるときの言葉とはまるで違った。能力でも成果でもなく、もっと手前の、生き方の癖のようなものを見抜かれている感じがする。
「肩だけじゃなくて、背中全体がずっと構えている感じなんです」
「構えてる」
「何かに備えているみたいに」
五条は返事をしなかった。
できなかった、というほうが近い。
何かに備えている。
その表現が、思った以上に胸の奥へ刺さったからだ。
仕事では、たしかに常に何かに備えている。
トラブル、遅延、認識違い、急な変更。先回りして考え、起こりうる問題を潰し、誰かが困る前に動く。それが自分の役割だと思ってきたし、実際そうすることで回ってきたものも多い。
けれど、仕事以外でもそうなのかもしれない、とふと思う。
誰かに踏み込まれすぎないように。
自分が期待しすぎないように。
また何かを失っても、致命傷にならないように。
そんなふうに、ずっとどこかで構えていたのだとしたら。
「……職業病みたいなものかもしれません」
ようやくそう返すと、彼女は少しだけ間を置いた。
「お仕事、責任ある立場なんですね」
「まあ、それなりに」
「周りを見ながら動くことが多いですか?」
「多いです」
「じゃあ、休むのが下手かもしれないですね」
「それは、よく言われます」
相沢にも同じようなことを言われた気がする。
休め、力を抜け、顔が死んでる。言い方は雑だったが、意味はたぶん近い。
彼女の手が肩から腕へ移る。
肘の少し上を流されると、思った以上に張っていて、自分でも驚いた。
「腕もお疲れです」
「そこもですか」
「指先まで使いっぱなしですね」
「仕事柄、ずっとキーボード打ってるので」
「スマホもよく触ります?」
「……たぶん」
「たぶん、ということは、かなりですね」
「否定はしません」
また少しだけ笑いが混じる。
その小さなやり取りが、思っていた以上に心地よかった。
必要以上に親しくはない。
けれど、よそよそしすぎもしない。
その絶妙な距離感が、五条にはありがたかった。
未沙は、もっと近い人だった。
近かったからこそ、失ったときの空白が大きかった。
目の前の彼女は、最初から一定の距離を保っている。その距離があるからこそ、安心できるのかもしれない。そう思った瞬間、自分が何に安心しているのかを考えそうになって、五条は意識的に思考を止めた。
「少し、仰向けになれますか?」
彼女の声に促され、五条はゆっくり身体を起こした。
ベッドの上で体勢を変えると、シーツがかすかに擦れる音がする。仰向けになると、天井のやわらかな照明が目に入った。直接光が当たらないよう調整されているのか、眩しさはない。視界が開けたことで、逆に少しだけ落ち着かなくなる。
「タオル、失礼しますね」
胸元まで丁寧に整えられたタオルの感触に、五条は無意識に息を詰めた。
視界の端に、彼女の横顔が入る。近い。けれど、仕事として必要な距離以上には踏み込んでこない。その線引きがきちんとしているからこそ、余計に意識してしまう。
「首、少し触りますね」
「はい」
仰向けの状態で首に手が入ると、うつ伏せのときとは違う緊張が走った。
喉元に近い場所は、どうしても無防備になる。そこへ彼女の指先がそっと触れ、首の後ろを支えるように持ち上げられる。思ったよりもずっと丁寧で、慎重な手つきだった。
「力、入ってます?」
「……少し」
「ですよね。大丈夫です、落とさないので」
「そういう問題じゃない気もしますけど」
「たしかに」
彼女が小さく笑う。
その笑い声は、耳に近いぶん、さっきまでよりも柔らかく響いた。
首を支えられたまま、ゆっくりと筋を伸ばされる。
じわりとした痛みのあとに、深いところがほどける感覚がくる。五条は思わず目を閉じた。
「ここ、つらいですね」
「……はい」
「我慢しすぎないでくださいね」
「我慢してるつもりはないんですけど」
「無意識の我慢が一番残ります」
その言葉に、五条はまた返事を失った。
無意識の我慢。
それは身体の話だけではない気がした。
未沙と別れてから、自分は何を我慢してきたのだろう。
寂しさか、後悔か、怒りか、それとも未練か。
どれも大げさに認めるほどではないと思ってきた。仕事もしているし、生活も回っている。誰かに迷惑をかけているわけでもない。だから大丈夫だと、自分に言い聞かせてきた。
けれど、もしそれが「無意識の我慢」だったのだとしたら。
「……眠れない理由って、身体だけじゃないですよね」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
自分でも驚いた。
こんなことを、初対面に近い相手へ口にするつもりはなかった。
彼女の手が一瞬だけ止まる。
けれどすぐに、首を支えるやわらかな圧が戻った。
「そうですね」
彼女は静かに言った。
「身体が先に出ることもありますけど、身体だけじゃないことも多いです」
それ以上、踏み込んではこなかった。
どうして眠れないのか、何があるのか、聞こうとはしない。
ただ、否定もせず、軽く扱いもせず、その言葉をそこに置いてくれる。
その受け止め方が、五条にはありがたかった。
「……そういうものですか」
「はい。人によりますけど」
「じゃあ、俺みたいなのも珍しくない?」
「珍しくないです」
彼女の声は穏やかだった。
「ちゃんとしている人ほど、眠れなくなることがあります」
「ちゃんとしてる、ですか」
「ちゃんとしようとする人、のほうが近いかもしれません」
その言い方に、五条は小さく息を吐いた。
褒められているわけではない。むしろ、不器用さをやわらかく言い換えられているだけだ。それでも、少しだけ救われる気がした。
彼女の指先が、耳の下から首筋へと流れていく。
そこを辿られるたび、頭の奥に張りついていたものが少しずつ剥がれていくようだった。
「終わったあと、水分をしっかり取ってくださいね」
「はい」
「今日はできれば、スマホも少し早めに置いて」
「耳が痛いですね」
「皆さんそうおっしゃいます」
また小さく笑う。
その笑い声を聞きながら、五条は思う。
未沙ではない。
似ているけれど、違う。
それはもう何度も確認したはずなのに、こうして近くで声を聞いていると、ときどき境界が曖昧になる。
けれど同時に、曖昧になればなるほど、違いもはっきり見えてくる。
未沙はこんなふうに、相手の言葉を静かに受け止めて、そのまま返す人ではなかった。もっと感情が先に動く人だった。やさしいけれど、やさしさの出し方が違う。
目の前の彼女は、やさしいというより、整っている。
感情を押しつけず、相手の領域に土足で入らない。
その落ち着きが、五条の心を少しずつほどいていく。
「では、最後に頭まわり少し触りますね」
指先がこめかみの近くに触れた瞬間、五条は思わず息を止めた。
そこは、思っていた以上に疲れていたらしい。軽く押されるだけで、頭の奥に鈍い痛みが広がる。
「……すごいですね」
「ここもお疲れです」
「全部ですね」
「かなり」
「救いがないな」
「でも、ほぐしがいはあります」
冗談めかしたその言い方に、五条は久しぶりに自然な笑いを漏らした。
声に出して笑ったのは、いつ以来だろうと思う。
彼女の手は最後まで丁寧だった。
急に強くなることも、雑になることもない。ただ一定の温度と圧で、五条の身体をひとつずつ解いていく。
施術が終わりに近づくころには、最初に感じていた緊張はだいぶ薄れていた。
代わりに残っていたのは、身体の重さが抜けていく心地よさと、その奥にまだ言葉にならないまま沈んでいる感情だった。
「お疲れさまでした。ゆっくり起き上がってくださいね」
そう声をかけられても、五条はすぐには動けなかった。
身体が軽くなっているのに、胸の奥だけが妙に静かで、妙に騒がしい。
眠れない理由は、身体だけじゃない。
さっき自分で口にした言葉が、遅れて胸の中に落ちてくる。
たぶん、その通りなのだろう。
そして厄介なのは、その理由を自分でもまだ、きちんと言葉にできていないことだった。




