第4話 触れられるたび
「では、うつ伏せからお願いいたします」
カーテン越しにそう告げられ、五条は施術ベッドにゆっくりと身体を横たえた。
顔を伏せるための穴の空いたクッションに頬を預けると、視界は一気に狭くなる。見えるのは淡い色の床の一部だけで、部屋の全体像も、彼女の表情も、もうわからない。代わりに、耳に入る音や、肌に触れる空気の変化ばかりが妙に鮮明になった。
シーツは清潔で、ほんのりと温かかった。
ベッド自体にもわずかに熱が入っているのか、背中に触れる布越しの温度がじんわりと身体をゆるめていく。仕事帰りの身体は、自分で思っていた以上に冷えていたらしい。肩から腰にかけて、固く縮こまっていたものが少しずつほどけていく感覚があった。
「お部屋の温度、大丈夫ですか?」
「はい」
「苦しいところや、触れられたくない箇所があれば、いつでもおっしゃってくださいね」
「……わかりました」
声が近い。
けれど、必要以上には近づいてこない。
その距離感が、かえって五条の意識を敏感にさせた。
カサ、と小さく布の擦れる音がする。
タオルを整えているのだろう。視界がないぶん、何をされているのかを音で想像してしまう。仕事では、見えないものを想像して不安になることなどほとんどない。むしろ情報が足りなければ確認すればいいだけだ。けれど今は、確認すること自体が妙に野暮に思えて、ただ黙って身を任せるしかなかった。
「最初に、少しお身体の状態を見ますね」
その一言のあと、背中の上にそっと手が置かれた。
五条は思わず息を止めた。
強く押されたわけではない。
ただ、掌が静かに触れただけだ。
それなのに、そこから熱がじわりと広がってくる。人の手はこんなにも温かかっただろうかと、一瞬だけ戸惑う。肩甲骨のあたりに置かれた手が、ゆっくりと位置を変え、背骨の両脇を確かめるように辿っていく。
「……かなり張っていますね」
「そうですか」
「はい。特に肩から首にかけて、ずっと力が抜けていない感じです」
「自覚はあります」
「ですよね」
やわらかな声が、少しだけ笑う。
その気配だけで、五条の胸の奥がまた小さく揺れた。
未沙は、こんなふうに人に触れる仕事をしていたわけではない。
それなのに、誰かにやさしく触れられるという行為そのものが、記憶の奥に沈んでいた何かを勝手に掬い上げてくる。
違う。
この人は未沙じゃない。
そう思うたびに、逆にその名前が心の中ではっきりしてしまうのが厄介だった。
「オイル、つけていきますね。冷たかったらすぐ言ってください」
「はい」
次の瞬間、背中にひやりとした感触が落ちた。
思ったより冷たくはない。むしろ、すぐに彼女の手の温度と混ざって、なめらかな熱に変わっていく。肩から背中へ、背中から腰へ。ゆっくりと、一定の圧で流されるたびに、固まっていた筋肉が少しずつ自分の輪郭を取り戻していくようだった。
五条は最初、無意識に身体へ力を入れていた。
知らない相手に触れられることへの緊張もあったし、何より、目の前にいるのが「未沙に似た誰か」であることが、思っていた以上に神経を尖らせていた。けれど彼女の手は急がず、押しつけがましくもなく、ただ必要なだけの圧で身体を辿っていく。
「少し強さ、大丈夫ですか?」
「……ちょうどいいです」
「よかったです。もし途中で変えたくなったら遠慮なく」
肩の付け根に指が入る。
そこを押された瞬間、五条は小さく息を漏らした。
「痛いですか?」
「いえ……効きます」
「かなりお疲れですね」
その言い方に責める響きはない。
ただ事実を静かに受け止めるような声だった。
五条は顔を伏せたまま、目を閉じた。
視界を閉ざすと、触れられている感覚ばかりが際立つ。肩の筋をゆっくり押し流されるたび、首の付け根を丁寧にほぐされるたび、身体の奥に溜まっていた鈍い重さが少しずつほどけていく。
こんなふうに、自分の身体の状態を他人に丁寧に扱われることに慣れていなかった。
仕事では、多少の不調は無視して動くのが当たり前になっている。肩が痛くても、目が重くても、眠れていなくても、やるべきことは減らない。だから不調を感じても、見ないふりをする癖がついた。
けれど今は、その見ないふりをしてきたものを、ひとつずつ見つけられている気がした。
「呼吸、少し浅いですね」
不意にそう言われ、五条は目を開けた。
もちろん、見えるのは床だけだ。
「わかりますか」
「背中の動きで、なんとなく」
「……そんなに」
「緊張されています?」
「少し」
「初めての場所ですもんね」
その返し方が自然すぎて、五条は一瞬だけ言葉に詰まった。
緊張の理由は、初めての場所だからだけではない。けれど、それを説明するわけにもいかない。
「力を抜こうとしなくて大丈夫ですよ」
彼女は静かな声で続けた。
「抜かなきゃ、と思うと余計に入ってしまうので。呼吸だけ、少し深くしてみてください」
言われた通り、五条はゆっくり息を吸った。
鼻から吸って、口から吐く。
一度、二度。
それだけのことなのに、胸のあたりに張りついていたものが少しだけ剥がれる感覚があった。
「そうです。そのままで」
「……はい」
背中を流れる手の動きが、さっきよりも深く身体に入ってくる。
肩甲骨の内側、首筋、腕の付け根。自分では届かない場所を、他人の手が迷いなく辿っていく。そのたびに、身体の奥に沈んでいた疲労が輪郭を持って浮かび上がる。
痛みと心地よさの境目が曖昧になる。
つらいはずなのに、そこを触れられるとほっとする。
矛盾した感覚に身を任せながら、五条は自分の意識が少しずつ沈んでいくのを感じていた。
「普段、眠りは浅いですか?」
施術の手を止めないまま、彼女が尋ねる。
「……浅いほうだと思います」
「途中で起きたり」
「たまに」
「夢は見ますか?」
「見てるんでしょうけど、覚えてないことが多いです」
「そうなんですね」
会話はそれだけで終わった。
必要以上に掘り下げないところが、ありがたかった。
未沙は、眠れない夜に電話をかけてきたことがあった。
逆に、五条が眠れないとき、何も聞かずにただ話し相手になってくれたこともある。思い出そうとしなくても、こういう静かな会話の隙間に、昔の記憶は勝手に入り込んでくる。
五条は眉をわずかに寄せた。
忘れたいわけではない。
けれど、こんなふうに不意打ちのように蘇るのは、やはり少しきつい。
「少し、首まわりいきますね」
彼女の手が肩から首筋へ移る。
その瞬間、五条の身体がわずかに強張ったのが、自分でもわかった。
「痛かったですか?」
「……いえ」
「首は特に敏感なので、ゆっくりやりますね」
その言葉どおり、彼女の手つきはさらに慎重になった。
指先が首の付け根を探るように辿り、固くなった筋を少しずつほどいていく。そこは普段、自分でも無意識に守っている場所なのかもしれない。触れられると、身体より先に心のほうが反応してしまう。
五条は顔を伏せたまま、低く息を吐いた。
「……そこ、すごいですね」
「張ってますか?」
「かなり」
「やっぱり」
「お仕事中、ずっと考えごとをされるタイプですか?」
「考えごと」
「頭が休まっていない感じがするので」
その言葉に、五条は苦笑したくなった。
頭が休まっていない。まさにその通りだった。仕事のことだけではない。終わったはずのこと、もう戻らないこと、考えても仕方のないことまで、気づけば頭のどこかで回り続けている。
「……そうかもしれません」
「真面目な方ほど、そうなりやすいです」
「真面目、ですか」
「少なくとも、無理を無理だと言わないタイプには見えます」
図星だった。
五条は返事をしなかったが、彼女もそれ以上は言わない。
ただ、首筋を流れる手の温度だけが、静かに残る。
触れられるたび、身体がほどけていく。
それと同時に、心の奥にしまっていたものまで、少しずつ緩んでしまいそうで怖かった。
こんなふうに無防備になるつもりはなかった。
肩こりをほぐしに来ただけだ。
知らない誰かに身体を整えてもらって、少し楽になって帰るだけ。そのはずだった。
なのに、彼女の手が肩に触れるたび、首筋を辿るたび、胸の奥では別の何かが静かに揺れている。
「少し、楽になってきましたか?」
不意に問われ、五条は数秒遅れて答えた。
「……はい。思ったより」
「よかったです」
その声は近いのに、どこか遠かった。
未沙ではない。
わかっている。
それでも、目を閉じると、記憶と現実の境目が少しだけ曖昧になる。
五条は自分の指先をシーツの上でわずかに握った。
このまま眠ってしまえたら楽なのかもしれないと思う一方で、眠ってしまったら何かを取りこぼす気もした。
彼女の手が、再び肩の上をゆっくりと流れていく。
そのたびに、身体の奥に沈んでいた疲れと一緒に、忘れたふりをしていた感情まで浮かび上がってくるようだった。




