第3話 未沙ではないひと
案内されたソファに腰を下ろしても、五条の鼓動はなかなか落ち着かなかった。
室内は静かだった。
外の廊下で感じたよりも、さらに音が少ない。どこかで小さく空調が鳴っているはずなのに、それすら意識しなければ気づかないほどだった。間接照明のやわらかな光が白い壁に滲み、低いテーブルの上にはガラスの花瓶と、季節のものらしい小さな枝ものが一輪だけ挿してある。整えられているのに、作り込みすぎた感じがない。誰かの生活の延長線上にあるような、静かな空間だった。
「こちら、初回のカウンセリングシートになります」
目の前に座った彼女が、クリップボードを差し出してくる。
五条は一瞬だけその手元に視線を落とした。細く長い指。爪は短く整えられていて、艶だけをのせたような控えめな手入れがされている。仕事のための手だ、と思った。見せるためというより、触れるための手。
「体調や気になるところを簡単にご記入ください。書ける範囲で大丈夫です」
「はい」
受け取ったペンは軽かった。
名前、連絡先、既往歴、気になる部位。書くこと自体は単純なのに、五条の視線はどうしても紙の上に定まらない。目の前に座る彼女の横顔、髪の流れ、声を落とすタイミング、そのどれもが記憶のどこかを不用意に刺激してくる。
未沙に似ているのは、顔立ちそのものというより、空気だった。
人との距離の取り方。
相手を急かさない沈黙の置き方。
こちらが言葉を探しているときに、必要以上に覗き込んでこないところ。
未沙も、そういうところがあった。
誰かにやさしくするとき、押しつけがましくならない人だった。気遣いを見せつけるのではなく、相手が気づかないくらい自然に差し出す。だから一緒にいると楽だったし、だからこそ失ったあとに、その不在が妙に大きく残った。
五条は自分の名前を書きながら、胸の奥に小さな苛立ちが生まれるのを感じた。
似ているだけだ。
世の中には、誰かに似た人間なんていくらでもいる。
そんなこと、わかっている。
それなのに、こうして目の前に座っているだけで、三年前の記憶が勝手に輪郭を持ち始めるのが厄介だった。
「お仕事はデスクワークですか?」
不意に声をかけられ、五条は顔を上げた。
「え?」
「肩と首がおつらいと書かれていたので。普段、パソコン作業が多いのかなと思って」
「ああ……はい。そうです」
「やっぱり」
彼女はやわらかく頷いた。
その頷き方まで落ち着いていて、五条はまた妙に意識してしまう。
「肩まわり、かなり張っていそうですね」
「そんなにわかりますか」
「なんとなくですけど。座ったときに少し力が入っているので」
「……そんなところまで見てるんですね」
「職業柄、つい」
控えめに笑う。
営業用の笑顔のはずなのに、その笑い方まで少しだけ懐かしく見えてしまって、五条は困る。
未沙は、笑うときにもう少し目尻が下がった。
この人は、笑ってもどこか理性的で、自分の輪郭を崩しすぎない。
似ているのに、違う。
違うのに、似ている。
その曖昧さが、五条の心を落ち着かなくさせた。
「失礼ですが、あまり休めていないですか?」
さらりと落とされた問いに、五条は一瞬だけ言葉を失った。
「……顔に出てますか」
「少しだけ」
「よく言われます」
「では今日は、なるべく力が抜けるように整えていきますね」
整えていきますね。
その言い方が、妙にやさしかった。
治します、でもなく、楽にします、でもない。
整える、という言葉の距離感が心地よい。大げさな約束をしないぶん、かえって信用できる気がした。
五条はシートに視線を戻し、残りの項目を埋めていく。
睡眠時間は平均五時間半。運動習慣はほぼなし。気になる部位は肩、首、目の疲れ。自分の生活をこうして文字にすると、思っていた以上に余裕のない人間に見える。実際そうなのだろう。
彼女は記入が終わるのを急かさず待っていた。
その静けさが、かえって五条の意識を落ち着かなくさせる。沈黙が苦手なわけではない。むしろ仕事では、無駄な会話よりこういう静かな時間のほうが楽なことも多い。けれど今は、その沈黙のなかで自分の動揺だけがやけに大きく聞こえる気がした。
「ありがとうございます。確認しますね」
シートを受け取った彼女は、目を通しながら小さく頷いた。
「肩、首、目のお疲れが強めですね。あと、背中も少し張っていそうです」
「背中までわかりますか」
「姿勢でなんとなく。ずっと同じ体勢でお仕事されること、多いですか?」
「多いですね。気づくと何時間も座りっぱなしです」
「それだと固まりやすいです。呼吸も浅くなりやすいので」
「呼吸」
「はい。肩に力が入ると、どうしても」
呼吸、という言葉に、五条は一瞬だけ予約サイトの一文を思い出した。
――呼吸を取り戻せる場所でありたい。
あのときは少し大げさな表現にも思えたのに、いま目の前で同じ言葉の気配に触れると、不思議と腑に落ちるものがある。
「……すごいですね」
「何がですか?」
「そこまで見てわかるの」
「慣れです」
彼女はそう言って、ほんの少しだけ肩をすくめた。
その仕草は未沙にはなかったものだ。未沙はもっと感情が表に出る人だった。困ったときは困った顔をするし、嬉しいときは素直に笑う。目の前の彼女は、感情を隠しているわけではないのに、どこか一枚薄い膜を挟んでいるような落ち着きがある。
違いを見つけるたび、五条は少しだけ安心する。
同時に、その安心に自分が縋っていることにも気づく。
「本日はオイルトリートメント六十分のコースでお取りしています」
彼女はシートをテーブルに置きながら言った。
「重点的にほぐしたい箇所があれば、遠慮なくおっしゃってください」
「お任せします」
「かしこまりました。では、肩と首を中心に、全体のバランスも見ながら進めますね」
仕事では、相手に任せるより自分で判断したほうが早いと思うことが多い。
部下に任せるにしても、最終的には自分で確認しないと落ち着かない。そういう性分だと自覚している。けれど今は、そう言うしかなかった。自分の身体のことより、目の前の女にどう振る舞えばいいのか、そのほうがわからない。
「では、本日の担当ですが、改めましてリオンと申します」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「本名ではないんですけど、こちらではこの名前を使っています」
「そうなんですね」
「少し覚えていただきやすいかなと思って」
リオン。
その名前が、彼女に不思議と似合っていた。
やわらかい響きなのに、どこか輪郭がある。軽すぎず、重すぎず、掴めそうで掴みきれない感じが、目の前の彼女そのもののように思えた。
「変ですか?」
五条が黙ったまま名前を反芻していたせいか、彼女が少しだけ首を傾げる。
「いえ。似合うと思います」
「ありがとうございます」
そう言って微笑む表情は、今度こそ未沙とは違って見えた。
似ているのに、同じではない。
その事実が、五条を安心させるような、逆に落ち着かなくさせるような、曖昧な感覚を生んでいた。
「お着替えのご案内をしますね」
彼女は立ち上がり、部屋の奥にある小さな更衣スペースを示した。
「終わりましたら、こちらのベルを鳴らしてください」
「はい」
五条も立ち上がる。
そのとき、彼女との距離が少しだけ近づいた。すれ違うほどではない、けれど互いの体温がわずかに感じられそうな距離。ふわりと、さっき廊下で感じたのと同じアロマの香りが近くなる。
甘すぎず、清潔で、やわらかい匂い。
未沙の香りとは違う。
違うのに、胸の奥のどこかがまた静かに揺れた。
更衣スペースに入ってカーテンを閉めた瞬間、五条は深く息を吐いた。
思っていた以上に、肩に力が入っていたらしい。狭い空間のなかでひとりになると、ようやく少しだけ現実感が戻ってくる。
「……なんなんだよ」
思わず、声が漏れた。
似ているだけだ。
ただ、それだけのことだ。
世の中には、誰かに似た人間なんていくらでもいる。そんなこと、わかっている。
それなのに、胸の奥がこんなにも騒ぐのはなぜだろう。
シャツのボタンを外しながら、五条は自分の指先がわずかに震えていることに気づいた。
緊張しているのか、動揺しているのか、自分でも判別がつかない。
着替えを終え、ベルを鳴らす。
少しして、カーテンの向こうから彼女の声がした。
「失礼します。ご準備ありがとうございます」
その落ち着いた声を聞いただけで、また胸の奥が小さく波立つ。
未沙ではない。
わかっている。
それでも、これから触れられるのだと思った瞬間、五条は自分の心が思った以上に無防備になっていることを知った。




