第2話 扉の向こう
水曜の夜、五条は珍しく定時から三十分ほどで仕事を切り上げた。
正確には、切り上げたというより、無理やり区切りをつけた、というほうが近い。やろうと思えばまだいくらでも手を入れられる資料があり、返しておきたいメールも残っていた。けれど今日は、これ以上机に向かっていても集中力は戻らないと、珍しく自分で自分に線を引いた。
「五条さん、もう上がるんですか?」
隣の島から顔を上げた佐伯が、少し意外そうに言う。
その反応に、五条は苦笑した。
「たまには帰るよ」
「いや、帰るのはいつも帰ってますけど……この時間に、っていうのが」
「そんなに珍しい?」
「かなり」
「そうか」
自覚はあったが、他人に言われると少しだけ可笑しい。
PCをシャットダウンし、必要な書類だけを鞄に入れる。ネクタイを緩めるか迷って、結局そのままにした。どうせ知らない場所へ行くだけだ。少しでもきちんとしていたほうが、気後れせずに済む気がした。
「どこか行かれるんですか?」
「まあ、ちょっと」
「飲みですか?」
「違う」
「じゃあデート」
「もっと違う」
「え、なんですか、逆に気になります」
「気にしなくていいよ」
佐伯はなおも何か言いたげだったが、五条が鞄を肩にかけると、さすがにそれ以上は追及しなかった。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
オフィスを出てエレベーターに乗る。
閉まりかけた扉に映る自分の顔は、相変わらず少し疲れていた。けれど金曜の夜に比べれば、まだましに見える。週の真ん中という中途半端な日なのに、今日は妙に一日が長かった。
一階に降り、ビルの外へ出ると、夜の空気は思ったよりやわらかかった。
昼間の熱を少しだけ残した風が、スーツの袖口をかすめていく。駅へ向かう人の流れに混じりながら歩き出したとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
相沢からだ。
『今日だっけ?』
『今日』
『ちゃんと行くんだな』
『行くよ』
『えらい』
『だから子ども扱いするな』
『終わったら感想よこせ』
短いやり取りを終えて画面を閉じる。
相沢は本当に、こういうときだけ妙に世話焼きだ。ありがたい半面、少しだけ面倒でもある。けれど、誰かに「行くんだな」と確認されることで、逃げ道が塞がれるのも事実だった。
会社の最寄り駅とは反対方向のホームに立つ。
普段ならまず乗らない路線だった。見慣れた通勤客の流れから外れるだけで、少しだけ別の一日を生きているような気分になる。
電車が滑り込んできて、五条は空いているドアから乗り込んだ。
車内は帰宅途中の会社員や学生でほどよく埋まっている。吊り革につかまりながら窓の外を見ると、見慣れたオフィス街の明かりが少しずつ離れていった。
数駅過ぎるころには、景色の色が変わってくる。
高層ビルのガラスに反射する白い光ではなく、低い建物の看板や、個人商店のあたたかな照明が目につくようになった。チェーンの居酒屋、古びたクリーニング店、夜でも開いている小さな花屋、マンションの一階に入ったカフェ。どこにでもある街並みなのに、知らない場所というだけで、少しだけ輪郭がやわらかく見えた。
予約完了メールを開き、店の住所をもう一度確認する。
駅から徒歩四分。
大通りから一本入った場所。
迷うほどではなさそうだが、こういうときに限って方向感覚が鈍ることもある。五条は念のため地図アプリも開いておいた。
目的の駅で降りると、改札の外は会社の最寄り駅よりずっと人が少なかった。
夜七時前。仕事帰りの人間はいるが、流れはせわしなくない。駅前のロータリーにはタクシーが二台停まり、コンビニの前では高校生らしい二人組がアイスを食べながら笑っていた。
五条は地図を見ながら歩き出す。
大通り沿いにはドラッグストアやファストフード店が並んでいたが、一本脇道に入ると急に静かになった。車の音が遠のき、代わりにどこかの部屋から漏れるテレビの音や、ベランダで揺れる洗濯物の金具のかすかな音が耳に入る。
こういう住宅街に近い空気は、都心のオフィス街ではあまり感じない。
人が暮らしている匂いがする。
それは別に珍しいことではないのに、五条には少しだけ新鮮だった。
やがて、白い外壁の小さなビルが見えてきた。
予約ページで見た写真と同じ建物だとすぐにわかる。派手な看板はなく、入口の脇に控えめなプレートが掛かっているだけだった。そこに店名が記されている。
ここか、と五条は足を止めた。
予約時間までは、あと三分。
早すぎず遅すぎず、ちょうどいいはずなのに、なぜか少しだけ呼吸が浅くなる。
別に初めての取引先へ行くわけでもない。
面接でも、商談でもない。
ただ、友人に勧められたサロンに来ただけだ。
それなのに、ビルの前に立ったまま、すぐには足が動かなかった。
自分でも理由はよくわからない。
知らない場所に入ることへの気後れかもしれないし、こういう「休むための場所」に自分が似合わない気がしているせいかもしれない。あるいは、仕事以外の時間を自分のために使うことに、まだどこか慣れていないのかもしれなかった。
五条は無意識にネクタイの結び目を整えた。
少しだけ曲がっていたそれを直し、ジャケットの前を軽く払う。
別に誰に見せるわけでもないのに、そうしてしまう自分に少しだけ苦笑した。
「……何やってるんだろうな」
小さく呟く。
声は夜の空気にすぐ溶けた。
ビルの入口はオートロックではなく、そのまま中へ入れるようになっていた。
階段を上る。二階までのわずかな距離なのに、足音だけがやけに響いた。廊下には余計な装飾がなく、白い壁とグレーの床が静かに続いている。突き当たり近くのドアの横に、小さなプレートが掛かっていた。
予約メールに書かれていた部屋番号と一致する。
五条はその前で立ち止まった。
ドアの向こうから、かすかにアロマの香りがする。甘すぎず、清潔で、どこかやわらかい匂いだった。
その瞬間、胸の奥が理由もなくざわついた。
なぜだろう、と五条は思う。
この香りに覚えがあるわけではない。未沙が使っていた香水とも違う。もっと淡くて、輪郭の曖昧な匂いだ。なのに、鼻先をかすめた途端、心のどこかが不意に揺れた。
五条は一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。
ここまで来て帰るのもおかしい。予約までして、相沢にも行くと言って、わざわざ仕事を切り上げてきたのだ。今さら何をためらう必要がある。
そう自分に言い聞かせてから、静かにインターホンを押した。
短い電子音。
そのあと、室内の気配がわずかに動く。
小さな足音が近づいてきて、カチャリ、と控えめな音を立ててドアが開いた。
「お待ちしておりました。本日担当いたします、リオンです」
現れた女性を見た瞬間、五条は息をするのを忘れた。
そこに立っていたのは、未沙によく似た、けれど未沙ではないはずの女だった。
喉の奥がひどく乾く。
心臓が、遅れて強く脈を打つ。
時間の流れが一瞬だけおかしくなったような感覚がした。目の前の光景だけが妙に鮮明で、廊下の白い壁も、彼女の肩に落ちる髪も、ドアの隙間から漏れるやわらかな灯りも、すべてが現実味を失ったまま輪郭だけを強く持って迫ってくる。
似ている。
最初にそう思った。
次に、違う、とも思った。
顔立ちそのものが瓜二つというわけではない。
目元の印象も、唇の形も、細かく見れば違うところはいくらでもある。けれど、立っているときの空気のまとい方や、相手を見るときの視線の置き方が、あまりにも記憶の中の未沙に近かった。
胸の奥で、三年前に置き去りにしたはずの感情が急に息を吹き返す。
目の前の女性は、五条の反応に気づいたのか、ほんのわずかに目を見開いた。
けれどそれも一瞬のことで、すぐに接客用のやわらかな微笑みに表情を戻す。
「……お客様?」
その声で、五条はようやく我に返った。
「あ……すみません。予約していた、五条です」
「はい。お待ちしておりました。どうぞ、中へ」
落ち着いた声だった。
未沙より少し低く、やわらかいのに、芯のある響き方をしている。
違う。
似ているけれど、違う。
そう頭では理解しているのに、身体のほうが追いつかない。
喉の渇きが消えず、指先にわずかに力が入る。こんなふうに動揺するのはいつ以来だろうと、五条は半ば他人事のように思った。
彼女がドアを少し大きく開け、室内へ入るよう促す。
その仕草まで丁寧で、余計な圧がない。五条は一瞬だけためらったあと、靴を脱いで中へ足を踏み入れた。
室内は白と淡いグレージュで統一されていた。
間接照明の光はやわらかく、壁際には背の低い観葉植物がいくつか置かれている。どこか生活感を消しすぎない、けれどきちんと整えられた空間だった。外の廊下より少しだけ温度が高く、アロマの香りも近くなる。
「こちらへどうぞ」
案内されるまま数歩進みながらも、五条の意識はまだ落ち着かなかった。
背中にじわりと汗がにじむ感覚がある。仕事で初対面の相手に会うことなどいくらでもあるのに、こんなふうに言葉を失うことはない。
未沙ではない。
そんなことはわかっている。
それでも、目の前の女が記憶のどこかを不用意に揺らしてくる。
ソファの前まで来たところで、彼女が振り返る。
「お荷物、こちらに置いていただいて大丈夫ですよ」
その何気ない一言に、五条はまた一拍遅れて反応した。
「あ、はい」
「お仕事帰りですよね。お疲れさまです」
「……ありがとうございます」
自分でも驚くほど、声が少しかすれていた。
彼女は気にした様子もなく、やわらかく微笑む。
その笑みを見た瞬間、五条の胸の奥がまたざわついた。
似ている。
でも、同じではない。
その当たり前の事実が、なぜこんなにも落ち着かないのか、自分でもわからなかった。




