第1話 別れてからの三年
残り香のゆくえの本編からエピローグまでを再編成した長編です。
よろしかったら最後までお付き合いください。
別れてから三年が経っても、五条は季節の変わり目になると、ふと同じ匂いを探してしまうことがあった。
雨上がりのアスファルトに混じる、やわらかな柑橘の香り。
電車のドアが開いた瞬間に流れ込む、誰かの髪からこぼれたシャンプーの残り香。
冬の終わり、乾いた空気のなかに一瞬だけ混じる、甘すぎない花の匂い。
それが未沙のものだと、もう断言できるわけではない。
記憶のなかで都合よく編み直された香りかもしれないと、自分でも思う。
それでも胸の奥のどこかが、そういう曖昧な気配にだけは、いまだに律儀に反応してしまうのだった。
金曜の夜、午後八時を少し回ったオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
島型に並んだデスクの半分以上はすでに空席で、モニターの電源が落ちた黒い画面が、天井の白い光を鈍く映している。遠くの給湯スペースから、誰かがマグカップを洗う水音が一度だけ聞こえ、それきりまた静寂が戻った。
五条はノートPCの画面に向かったまま、右手でこめかみを軽く押さえた。
目の奥が重い。肩は朝からずっと石のように固まっていて、首を回すたびに鈍い痛みが走る。けれど、それを不調と呼ぶほどの感覚はもうなかった。ここ数年、そういう状態が平常になってしまっている。
「五条さん、先方から修正版きました」
若い部下がノートPCを抱えて席までやってくる。
入社三年目の佐伯は、まだ少し遠慮がちなところがあるが、仕事は丁寧だった。五条はモニターから目を離し、軽く頷いた。
「ありがとう。共有フォルダにも入れておいて」
「はい。……今日中に確認、必要ですか?」
「必要。こっちで見るから、君は先に上がっていいよ」
「でも、まだ結構ありますよね」
「大丈夫。細かいところを見たいだけだから」
「……わかりました。お先に失礼します」
佐伯は一礼して去っていった。
その背中を見送りながら、五条は小さく息を吐く。自分が若かった頃は、上司に先に帰れと言われても、建前でももう少し粘ったものだと思う。けれど今は、そういう遠慮や気遣いを美徳だとは思わない。帰れる人間は帰ったほうがいい。仕事は長く続く。無理を続けることに、たいした意味はない。
そう考えるようになったのは、年齢のせいだけではないのかもしれなかった。
都内の中堅IT企業に入社して、もうすぐ十年になる。
いまの肩書きは開発部門の係長。チームの人数は七人。若い頃のように、自分ひとりが徹夜してどうにかすれば済む仕事ばかりではなくなった。進行管理、顧客対応、仕様調整、部下のフォロー、上への報告。責任の種類が変わったぶん、疲れ方も変わった。
昔は忙しさに飲まれていれば余計なことを考えずに済んだ。
目の前のタスクを片づけ、終電に飛び乗り、シャワーだけ浴びて眠る。そういう日々のほうが、むしろ楽だった気さえする。考える余白がなければ、人は案外平気でいられる。
けれど今は違う。
仕事の手順が身体に馴染みすぎたせいか、ふとした隙間に別のことが入り込んでくる。
たとえば、もう会わないはずだった人のこととか。
スマートフォンが短く震えた。
デスクの端に伏せて置いていた画面を裏返すと、相沢からのメッセージが表示されている。
『まだ会社?』
五条は数秒だけ画面を見つめ、それから短く返した。
『まだ』
すぐに既読がつき、次のメッセージが来る。
『また?』
『また』
そのやり取りから十秒もしないうちに、通話の着信が来た。
五条は少しだけ眉を寄せたが、無視する理由もない。イヤホンを耳に差し、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもしじゃないよ。おまえ、また残ってんの?』
「残ってる」
『金曜の夜に?』
「週明けに持ち越したくない案件がある」
『はいはい、優等生』
相沢の軽い声に、五条は少しだけ肩の力を抜いた。
大学時代からの付き合いになる友人で、いまもこうして気安く連絡を寄こしてくる数少ない相手だ。営業職らしい人懐っこさと、妙に人の機微に敏いところがある。面倒くさいと思うこともあるが、ありがたいと思うことのほうが多い。
『で、飯は?』
「まだ」
『だろうと思った。なんか食って帰れよ』
「うん」
『うん、じゃないんだよなあ。おまえ、その返事するとき大体食わないだろ』
「今日は食うよ」
『信用ならん』
五条は苦笑した。
相沢は少し間を置いてから、さっきまでの軽さを残しつつも、声の調子をわずかに変えた。
『なあ、おまえ最近、仕事以外の話題ないの?』
その言い方に、五条はキーボードを打つ手を止めた。
「急にどうしたの」
『いや、別に急じゃない。前から思ってた』
「何を」
『なんか、ずっと同じ場所に立ってる感じがするから』
「同じ場所?」
『ちゃんと前に進んでるように見えるのに、心だけ置いてきぼり、みたいな』
五条は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
白い蛍光灯の光が、やけに乾いて見える。
「詩人みたいなこと言うな」
『茶化すなよ』
「茶化してない」
『じゃあ図星?』
返事をしないでいると、相沢が小さく息を吐く気配がした。
『……まだ、引きずってる?』
「引きずるっていう言い方は、あんまり好きじゃないな」
『じゃあ、何』
「忘れてないだけだよ」
言葉にした瞬間、自分でもそれがずいぶん都合のいい表現だと思った。
忘れていないだけ。たしかにそうだ。未沙のことを、完全に過去として処理できていないだけ。けれど、それは引きずっているのと何が違うのかと問われれば、うまく答えられない。
『それ、だいぶ重症だぞ』
「そうかもね」
『新しい恋しろとは言わないけど、せめて休め。顔、死んでたし』
「ひどい言い方するな」
『事実だし』
少し笑ってしまって、五条はデスクの上の缶コーヒーに手を伸ばした。ぬるくなったそれを一口飲む。苦味だけが舌に残る。
『この前会ったときも思ったけどさ、おまえ、疲れてるっていうより、ずっと力入ってる感じなんだよ』
「仕事だから」
『仕事だけじゃないだろ』
「……」
『まあ、いいけど』
相沢は追及しすぎない。そこがありがたいところでもある。
踏み込むべきところと、引くべきところの見極めがうまい。営業向きだなと、学生の頃から思っていた。
『でさ、ひとつ提案』
「なに」
『知り合いの奥さんが通ってる個人サロンがあるんだけど、評判いいらしいぞ』
「サロン?」
『そう。オイルマッサージとかフェイシャルとか、そういうやつ』
「急にそっち?」
『急じゃない。おまえ肩こりひどいだろ』
「まあ」
『前に飲んだとき、首回して変な音してたし』
「そんな音してた?」
『してた。こっちが心配になるくらい』
五条は思わず首を回してみた。たしかに、筋が引っ張られるような感覚がある。
「男が行っても平気なやつ?」
『平気平気。完全予約制で、静かで、変に気を遣わなくていいらしい』
「らしい、って」
『俺は行ったことないからな。でも、かなり良かったって聞いた。仕事帰りに一回くらい、身体ほぐしてこいよ』
「マッサージ店なら会社の近くにもあるけど」
『そういうチェーンじゃなくて、もっと落ち着いたとこ。たまにはそういう場所行けって』
「似合わないだろ、俺」
『似合う似合わないで休むな』
相沢の言い方が妙におかしくて、五条は小さく笑った。
笑ったのは、いつぶりだろうと思う。少なくとも今日、会社に来てからは初めてだった。
『どうせこのままだと、土日もPC開いて終わるんだろ』
「……否定はしない」
『じゃあ決まり。あとでURL送る』
「強引だな」
『おまえ相手にはこれくらいでちょうどいい』
通話が切れたあと、オフィスはさっきよりもさらに静かになっていた。
誰かが最後に帰ったのか、遠くでセキュリティドアの閉まる音がする。空調の低い唸りだけが、一定のリズムで耳に残った。
五条はしばらくスマートフォンを見つめていた。
相沢の言うことは、たいてい半分くらいは余計なお世話だ。けれど残り半分は、案外的を射ている。
未沙と別れたのは三年前だった。
大きな喧嘩をしたわけではない。どちらかが決定的に裏切ったわけでもない。ただ、少しずつ噛み合わなくなって、気づいたときには、同じ方向を見ているつもりでまったく違う場所を見ていた。
仕事が忙しかった。
未沙にも未沙の事情があった。
会えない日が続き、連絡の温度が変わり、埋めようとしたはずの距離が、かえって互いを疲れさせた。
最後に会った日のことを、五条はいまでもときどき思い出す。
駅前のカフェ。冷めかけた紅茶。窓の外を歩く人の流れ。未沙は泣かなかった。責めもしなかった。ただ静かに、「たぶん、もう無理だと思う」と言った。その言い方があまりにも穏やかで、だからこそ何も言い返せなかった。
あのとき、もっと違う言葉を選べていたら何か変わったのだろうか。
そんなことを考えるのは、もう何度目かわからない。
けれど答えは一度も出たことがない。
スマートフォンが再び震えた。
相沢から、店の案内と予約ページのリンクが送られてくる。
『ここ。雰囲気よさそうだろ』
開いてみると、白を基調にした落ち着いたデザインのサイトだった。
派手さはない。写真も必要以上に飾っていなくて、室内のやわらかな照明や、整えられた小さな空間が静かに映っている。女性向けの店にありがちな甘さが前面に出ていないぶん、五条にも入りやすそうに見えた。
スクロールしていくうちに、ある一文に指が止まる。
――忙しい日々のなかで、ふっと呼吸を取り戻せる場所でありたい。
「……呼吸を取り戻す、か」
思わず声に出していた。
その言葉は、思ったより静かに胸へ落ちた。
呼吸をしていないわけではない。
生きているのだから、当然している。
けれど、ちゃんと息をしている感覚がないまま日々をやり過ごしている、という意味なら、たしかにそうかもしれなかった。
予約可能な日時を開く。
来週の水曜、夜七時。
その時間だけ、ぽっかりと空いていた。
五条は少し迷った。
こういうものは勢いで取らないと、結局行かない。そうわかっている一方で、知らない場所へひとりで行くことに、わずかな気後れもあった。マッサージやサロンの類に慣れているわけではない。仕事帰りのスーツ姿で行って浮かないだろうか、などと、どうでもいいことまで考える。
けれど、画面を閉じようとした指は止まった。
このまま帰っても、どうせコンビニで適当な夕食を買って、シャワーを浴びて、少しだけ仕事の続きをして、気づけば日付が変わる。土日も似たようなものだ。休んだつもりで、何も休めていないまま月曜が来る。
それなら、一度くらい試してみてもいいのかもしれない。
五条は予約ボタンを押した。
名前、連絡先、簡単な体調の記入。必要事項を埋めて送信する。確認画面に切り替わるまでの数秒が、妙に長く感じられた。
やがて表示された「ご予約を承りました」の文字を見て、五条は小さく息を吐いた。
ただ、疲れた会社員が、友人に勧められてサロンを予約しただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう思ったのに、送信完了の画面を見つめながら、胸の奥には説明のつかない小さなざわめきが残っていた。
それが何に対するものなのか、このときの五条にはまだわからなかった。
オフィスの窓の外では、夜の色がすっかり深くなっていた。
ビルの谷間を走る車のライトが、途切れ途切れの光の線になって流れていく。五条はPCを閉じ、デスクの上を簡単に片づけてから立ち上がった。肩が重い。けれど、ほんの少しだけ、気持ちは軽かった。
エレベーターで一階に降り、ビルの外へ出る。
夜風は思ったよりぬるく、都会特有の乾いた匂いがした。駅へ向かう人の流れに混じりながら歩き出したとき、ポケットの中でスマートフォンがまた震える。
『予約した?』
相沢からだった。
五条は少しだけ笑って、短く返す。
『した』
『えらい』
『子ども扱いするな』
『当日バックレるなよ』
『しない』
『ほんとか?』
『たぶん』
『たぶんじゃねえ』
そのやり取りが可笑しくて、五条は口元を緩めたままスマートフォンをしまった。
駅前の信号で立ち止まる。
向かいのガラスに映った自分の顔は、たしかに少し疲れていた。目の下には薄く影が落ち、表情も硬い。相沢が「顔が死んでる」と言ったのも、あながち大げさではないのかもしれない。
青に変わった信号を渡りながら、五条はふと思う。
三年という時間は、長いようでいて、案外何も変えてくれないものなのかもしれない。少なくとも、自分のなかのいくつかの感情は、うまく風化してはくれなかった。
未沙のことを、もう愛しているのかと聞かれたら、答えに詰まる。
戻りたいのかと聞かれても、たぶん違う。
ただ、あの時間が確かにあって、それが自分のなかにまだ残っている。その事実だけが、妙に静かで、厄介だった。
帰宅して、ネクタイを外し、シャツのボタンを二つ開ける。
冷蔵庫にはミネラルウォーターと、買い置きのヨーグルト、それから賞味期限ぎりぎりのハムしか入っていない。結局、駅前で買ったおにぎりとサラダをテーブルに並べ、テレビもつけずに食べた。
食後、ソファに座ってぼんやりしていると、予約完了メールの通知が目に入る。
店名の下に、日時が記されていた。
来週水曜、十九時。
たったそれだけの情報なのに、なぜか視線が離れなかった。
行ったところで、肩こりが少し楽になるだけだ。
知らない誰かに身体をほぐされて、少し眠りやすくなるだけ。
それで十分なはずだった。
なのに、胸の奥では、言葉にならない何かが静かに波打っている。
五条はスマートフォンを伏せ、ソファの背にもたれた。
天井を見上げる。白い天井は何も答えない。
「……ただのサロンだろ」
独り言は、思ったよりも小さな声で部屋に落ちた。
その夜、ベッドに入ってからも、なかなか寝つけなかった。
仕事のことを考えていたはずなのに、気づけば頭のなかには、白を基調にした静かなサイトの画面と、「呼吸を取り戻せる場所」という一文だけが残っていた。
別れてから三年。
何も変わっていないわけではない。
けれど、何かが終わったまま、どこかで止まっている感覚だけは、ずっと消えずにいた。
来週の水曜、その感覚に何か変化があるとは、このときはまだ思っていなかった。




