第20話 動き出す未来(4)
「私が里美と出会ったのは、まだ大学生のときだった。誰もが振り向くような美人というわけではなかったが、一緒にいるとそれだけで楽しくて、心が落ち着くような不思議な人だった」
懐かしむような口調で、父さんが母との思い出を話す。
「私はすぐに自分が恋していることに気がついた。私は中学高校とずっと男子校だったから、里美との出会いが私にとっていわゆる初恋だったんだ。その後何度かデートに誘い、私たちは交際を始めた。大学を出た後私たちは無事に結婚し、やがて遥斗が生まれた。あの頃は本当に何もかもが順調に思えた」
父さんは一度言葉を切り、グラスの中の氷をカラン、と鳴らした。
「……だが、元々体が丈夫ではなかった里美はその数年後、幼いお前を残したままこの世を去ってしまった。あのときは本当に途方に暮れたよ。これからどうすればいいのか、運命とは何と残酷かと、何度思ったことか」
俺には母の記憶がほとんどない。
写真の中で笑う優しそうな女性。それが俺にとっての「母親」のすべてだった。
だけど、目の前で肩を落とす父さんにとっては、その痛みは今もまだ深く胸に刻まれているのだと思い知らされる。
「だがその一方で、これからお前を立派な人間に育てていこうという気持ちが強くなりもした。向こうで里美が安心できるように、私がしっかりせねばと気が引き締まったんだ」
語気を強めて言う父さんを、俺は口を閉ざしたまま見つめる。
「最初のうちは、自分一人で遥斗を育てようと思っていた。幸い会社や周囲の人たちの理解もあり、仕事との両立は不可能ではないと思った。ただその一方で、まだ幼かった頃の遥斗がときどき見せた寂しそうな顔を見ると、この子にはやはり母親が必要なのではないかと思うことが増えていたのも事実だった。悩んだ挙句私は、真剣に再婚を考えて婚活をすることにした」
「えっ? 婚活? 父さんが?」
初耳だった。
父さんが俺のために、新しい母親を探そうとしていたなんて。
動揺する俺に向かって父さんは「ああ、そうだよ」と苦笑い。
「当時は私もまだ若く、経済的な余裕もあったから、子連れでも会ってくれる女性は何人かいたよ。実際に会ってみると、独身時代に戻ったような新鮮な感覚があった。中には私と同じように一人で子供を育てている女性もいて、子育ての話で意気投合することもあった」
「そういえば昔、やけに頻繁に祖父母宅に預けられていたことあったけど、もしかしてあのとき?」
「ああそうだ。よく覚えているな」
子供の頃に一時期、毎週のように祖父母宅に預けられていたことがあった。
祖父母はとてもやさしくて、遊びに行くたびに美味しいおやつを用意してくれたので、当時の俺は純粋に祖父母に会える週末を楽しみにしていた。
だがしかし、まさかその裏側で父さんが女性とデートをしてたとは。
(もしも父さんが本当に再婚していたら、今頃俺にも義妹とか義姉がいたかもしれないのか)
こんな状況なのに漫画でありそうな展開を妄想してしまい、少しだけ複雑な気持ちになる。
「ま、とはいえ、この男二人の現状を見てわかる通り、うまくいかなかったわけだがな」
父さんは少し苦い顔を浮かべながら、グラスの麦茶を飲み干した。
「彼女たちとの仲が深まるにつれて、どうしても里美と一緒にいた時間を思い出してしまうんだ。昔こうやって一緒に歩いたなとか、あのときはこんなことを話していたなとか。その度に、こんな気持ちで彼女らと一緒になるのは失礼だと思い、結局再婚に踏み切ることはできなかった。そのとき私は思い知らされたよ。私にとって、里美と過ごしたあの時間は本当に特別なものだったということを。本気の恋というのは、人生でそうそう簡単にできるものではないということを」
特別な時間。
それは昨晩の実憂が泣きながら口に出したフレーズでもあった。
父さんと母さんが俺が生まれる前の時代にどんな時間を過ごしてきたのかはわからないけど、実憂と一緒にいたときに感じた胸の奥が熱くなる気持ちを思い出せば、その意味が少しだけ分かるような気がした。
父さんも俺も、不器用なくらい一途なところは案外似ているのかもしれない。
「……さて、少々昔話が過ぎたな。我々が今考えないといけないのは過去ではなくて、これからの未来についてだな」
そう前置きをしてから、父さんは軽く咳ばらいをして居住まいを正す。
「残念ながら私の海外転勤を今から覆すのは難しいだろう。赴任期間を短くするくらいの交渉ならできなくはないがな。そうなると、残された選択肢は遥斗がここで一人暮らしをするということになるが――」
「え、いいの?」
思わず食いついてしまった俺に、父さんは「まあ、待ちなさい」と手のひらを向けてくる。
「当然、無条件でというわけにはいかない。一人暮らしには相応の責任が伴うからな。だが、これまでのお前の生活態度を振り返れば、無理だと決めつけているわけでもない。家事は一通りこなせるし、悔しいが今となっては私よりも上手いくらいだ」
「うん」
「そこは嘘でもそんなことはないと言って欲しかったんだが……まあ、いい。あとは本業である勉強についてだが、こちらも今のところ問題なくこなせていると言っていいだろう。部活とも両立できているしな」
父さんは腕を組み、ふっと表情を和らげた。
「まあ、何か困ったことがあったらすぐに大人に相談すると約束できるなら一人暮らしを認めよう。隣町にいる叔母さんには定期的に遥斗のことを気にかけてもらうように私から事情を話してお願いしておく。それに本当に困った場合は有賀さん家に相談するでもいい」
「わかった」
俺は深く頷き、この約束だけは絶対に守ろうと胸に誓った。
張り詰めていた空気がふっと緩み、俺の肩から余計な力が抜けた。
無事に終わったと、安堵の息を吐いていると、
「あ、そうだ。言い忘れていたが、もう一つ大事な条件がある」
「え?」
急に思い出したかのような口調で告げられたのは、
「彼女を家に呼ぶなとは言わないが、決して羽目を外さないこと」
「…………はい」
思い切り釘を刺された。まあ、当然と言えば当然か。
若干気まずい空気になって視線を泳がしていると、父さんが「よし」と椅子から立ち上がった。
「遥斗、お前飯はどうした? もしまだなら少し遅くなってしまったが何か作ろうか」
そういえば今日はまだ夕飯を食べてなかった。
父さんとの話し合いについて考えすぎていたせいで、食事のことをすっかり忘れていた。
だが、不思議と腹はまったく減っていなかった。たった今自分の運命が変わったことの高揚感が空腹すらも遠ざけていたのかもしれない。
それ以上に俺の胸の内に秘めていたのは、今すぐ大切な人にこのことを伝えたいという強い衝動だった。
「ごめん父さん。俺、行かないといけないところがある」
「え、今からか?」
時計を確認する父さんをよそに、俺は椅子から立ち上がる。
父さんと過ごせる時間だって残り少ないと考えると、一緒に夕食を食べたい気持ちにもなった。
それでも俺は、今すぐに会いに行かなければいけない人がいる。
メッセージではなくて、会って、自分の声で直接伝えたい。
父さんは何かを察したかのように表情を緩めると、「わかった。気を付けて」とだけ残してテーブルから離れて行った。
「ありがとう。行ってきます」
その背中に短く感謝を投げかけ、俺はスマホと財布だけポケットに突っ込むと急いで玄関へと向かう。
靴を履いてドアを押し開けると、俺は全力で飛び出した。
生ぬるい夜風を頬に受けながら、ひたすらに走る。一秒でも早く、彼女のもとへ。




