第19話 動き出す未来(3)
翌日、俺はどこにも行かずに一人で自宅にいた。
本当は今日は部活の練習がある日だったが、部長である裕也のはからいで俺だけ休みにしてもらった。
「体調不良とか適当に嘘ついといてやる」と気を利かしてくれた裕也の言葉に甘えることにしたのだ。
普段真面目な俺(自分で言うのもおかしいが)が部活をサボった理由は主に二つある。
一つ目はあまり学校の知人と顔を合わせたくない心境だったこと。もう会えなくなるかもしれない部活の仲間たちと一緒にいて、いつもと同じ態度でいられる自信がなかったのだ。
そして、もう一つの理由。それは昨晩までぐちゃぐちゃだった頭と気持ちを整理するため。
俺は今日、真正面から真剣に向き合わないといけない相手がいる。
その人と対峙したときにどんな風に話をすればいいか、脳内でシミュレーションしておく必要があった。
自分の部屋にこもり、何度も言葉を選び直しながら、その時を待つ。
いつの間にか窓の外が薄暗くなっていて、俺がいつも夕飯を食べるくらいの時間になったとき、家のドアがガチャリと音を立てた。
「ただいま」
帰ってきた。
いつもは帰ってくるのはたいてい十時を過ぎるのに、今日は普段よりもかなり早い。
「おかえり」
「ああ。ただいま」
玄関に行って出迎えると、父さんは鞄を置きながら一息ついているところだった。
変に間を置くと話しかけづらくなりそうだったので、俺はすかさず口を開く。
「父さん、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「……」
父さんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに何かを察したかのように、いつもと変わらぬ口調で答えた。
「わかった。すぐに行くから、向こうで待っていなさい」
俺は無言で頷き、踵を返した。
ダイニングテーブルに向かう途中、キッチンに寄ってグラスを二つ取り出す。
昨晩父さんがしてくれたように、冷たい麦茶を注いで持っていく。
座って待っていると、手を洗ってきた父さんが戻ってきた。テーブルの上のグラスを見て「ありがとう」とつぶやく。
俺の向かいに座った父さんは、落ち着いているようで、どこか疲れているようにも見える。
「それで、話というのは昨日の件で間違いないな」
「うん」
心臓がドクドクと脈を打ち始める。
真っ直ぐに見据えてくるその眼光は圧が凄くて、脇の下を一筋の汗が伝っていった。
いざ父さんと向き合うと、昼間何度も練習したはずの言葉が喉の奥に張り付いたままなかなか出てこなかった。
今から告げることは、俺の将来を想いながら身を粉にして働いてきた父さんの期待を正面から裏切るような言葉だ。
親不孝だと一蹴されるだけかもしれない。……それでも俺は、自分の気持ちを偽るわけにはいかなかった。後悔のない未来のために。
「俺、父さんと一緒にアメリカには行けない」
「…………」
沈黙が落ちた。
ごおお、というエアコンの音がやけにうるさく響く。
父さんは眉一つ動かさず、ただ俺の目をじっと見つめ返してきた。
「遥斗。それは、どういう意味だ」
低く、感情のない声だった。
怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない。
視線を逸らしたくなる衝動を必死に抑えながら、俺は乾いた喉を震わせる。
「たぶん、数カ月前の俺だったら、父さんに付いて行ったと思う」
言い訳がましく聞こえたかもしれないが、これは紛れもなく本当のことだ。
実憂の話によれば未来の俺は父さんと一緒にアメリカに行く道を選んでいたわけだから。
もちろんこんな話、父さんには口が裂けても言えないが。
「でも今は、どうしても学校を辞めたくないんだ」
わがままを言っているのは自分でもわかっている。
それでも俺は、絶対に手放したくない大切な「今」を選びたい。
俺の目を見据えたまま、父さんが静かに口を開く。
「それは今の友人たちと離れたくないということか?」
「……うん、大切な友人や……初めてできた好きな人とも」
好きな人、という言葉に、父さんの目がピクリと動く。
真面目な父さんからしたら、きっと恐ろしくくだらない理由に聞こえるはずだ。
友人はともかく、高校生のときの一時の恋愛なんてこの先の人生に必要なものではない。
そんなもののために輝かしい将来を棒に振るなんてと、父さんの目にはそう映るのだろう。
逃げ出したくなる自分を必死に抑えつけるように、膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめる。
「自分勝手なこと言ってるのはわかってる。父さんが俺のことを想ってくれているのもわかってるつもりだよ。だけど俺、もしも自分の気持ちに嘘をついて本当に大切な人と別れてしまったら、きっとこの先一生後悔すると思う」
長く、重たい沈黙が流れた。
息が詰まるような張りつめた空気が室内を支配する。
たった数秒の静寂が、永遠のように長く感じられた。
次の瞬間、激しい罵倒さえも覚悟した俺の耳に、父さんの静かな声が響く。
「お前の言う本当に大切な人というのは、山田実憂さんのことか」
「…………え?」
想像もしていなかった返事が返ってきて、俺は一瞬耳を疑う。
(な、なな、なんで……父さんが、実憂のことを!?)
激しく狼狽する俺の姿に、父さんはようやくその険しい表情を緩めた。
「どうやら図星だったようだな」
眼鏡の奥の瞳を少しだけ細めて、父さんはテーブルのグラスを口元に運ぶ。
その仕草はどこか余裕があって、口許が微かに和らいでいるように見えた。
父さんはゆっくりとグラスをテーブルに置くと、俺の胸中を見透かしたかのように口を開く。
「先日、部屋の掃除をしていたときに女性の髪の毛が落ちているのを見つけたよ」
「!……」
心当たりがありすぎるその指摘に、俺の心臓が飛び跳ねた。
その髪の毛は間違いなく実憂のものだ。期末試験の勉強会のとき、実憂は父さんが今座っている椅子に座って勉強していた。あの子は難しい問題を考えるとき、無意識に髪の毛を触るクセがある。きっとそのときに椅子の周辺に落ちたのだろう。
実憂が帰った後、勝手に人を家に招いたことがバレないように念入りに部屋の掃除と現状回復をしたつもりだったが、どうやら詰めが甘かったらしい。
「当然うちには男しかいないし、私は身に覚えはないので、そうなるとこの女性の髪の毛は遥斗の知り合いのものということになる」
まるで探偵のような口調で父さんは話す。俺はただ黙り込む。
「ただ、いくら私とて息子のプライベートを詮索するつもりなんてなかったんだ。だから見て見ぬふりをしようと思ってた。だが、実はつい先日、近所のスーパーに行ったときに偶然有賀さん親子に会ってな」
「え……? 有賀さん親子って、南と?」
「ああ。南ちゃんにも久しぶりにあったが、随分と大きく、そしてきれいになっていてびっくりした。ありがたいことに向こうも私のことを覚えていてくれたよ。お前がまだ幼かったころは、有賀さん家に預かってもらったりと随分とお世話になっていたからな」
父さんと南が繋がっていたというまさかの事実に驚きを隠せない俺をよそに、父さんは淡々とした口調で続ける。
「私は最初、南ちゃんがうちに遊びにきたのかと思った。それで、さりげなく遥斗とまだ仲良くしてくれているのか聞いてみたんだ。そしたら私が思っていた以上に、お前の普段の学校での生活のことを色々と教えてくれてな」
「マジか……」
俺の中で不安が込み上げてくる。南のやつ、変なこと言ってないといいけど。
「で、あいつ、なんて?」
「遥斗は勉強も部活も凄く頑張っていると言っていた。多賀くんと組んだダブルスもこの前の試合で惜しいところまでいってたし、先日の期末テストでも要点をまとめたノートを皆に配ってくれてとても助かったって。さらにそれだけでなく、遥斗はいま恋も絶好調だと言ってたよ。クラスの山田さんという女の子と随分と仲良くしているって。遥斗が勉強や部活を頑張っているのは私も知っていたつもりだったが、まさかお前に恋人がいたとは。これには本当に驚かされた」
「…………」
厳格な父さんには珍しく、そこには思春期の息子を持つ父親としての、どこか恥ずかしそうな微笑みが浮かんでいた。
厳密に言えば俺には恋人はいないし、何ならその想い人にも昨日ふられているわけだが。まあこれはわざわざ言わなくていいだろう。
それにしても、まさか父さんがここまで知っていたなんて。実憂の名前まで知っていたのはさすがに驚愕だ。
何も言えずに固まっていると、父さんがうつむき気味にふうっと息をこぼした。
「だから、お前に『一緒にアメリカには行けない』と言われたときは、内心やはりか、と思った。正直、昨晩この話をしたときも、もしかしたら断られるのではないかと思っていた。ただ南ちゃんの話を聞くより前に既に私のアメリカへの転勤は決まっていたので、お前には当初の予定通りに話すことにしたんだ」
そう語る父さんの顔には、諦めにも似た寂しげな微笑みが滲んでいた。俺は唐突に申し訳ない気持ちに襲われる。
「父さん、自分で言っておいて変かもれないけど、俺、付いて行かなくていいの?」
俺の問いに、父さんが静かに頷く。
「無理に連れて行ったところで、お前の心はここに取り残されたままだろうからな。それでは向こうでの勉学も身に入らんから意味がない」
父さんは手元のグラスに視線を落とし、溶けゆく氷をただじっと見つめていた。
そしてやや間を置いてから、どこか自嘲気味な苦笑を浮かべる。
「まったく、初恋の呪いというのは、つくづく厄介だな」
(……初恋の、呪い?)
論理的な父さんには似合わない情緒的な言葉に、思わず目を見開く。
その真意を量りかねていると、父さんがどこか遠い記憶を慈しむように小さく息をこぼした。
「少しだけ……お前の母さんの話をさせてくれるか」
無言で頷き返す俺を一瞥し、父さんは静かに語り始めた。




