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第17話 動き出す未来(1)

 花火が終わった後、俺はどうやって自宅に帰ったかほとんど覚えていない。

 実憂を家の前まで送っていって、そこで彼女と別れてからの記憶がまるでなかった。

 唯一覚えているのは帰り道に何も会話がなかったということだけ。

 そして気がつけば俺はいつの間にか自宅のドアの前にいた。

 こうして無事にマンションまで帰ってくることができたので、体が自然と戻るべき場所へと俺を運んでくれたのだろう。

 こんな夜道を一人でぼうっと歩いていたのに、よくも事故も起こさず帰ってこれたものだ。

 ドアの鍵を開けて、家の中に入る。

 すると廊下の向こうに見えるリビングには明かりがついていて、奥の部屋から声が聞こえてきた。


「おかえり。遥斗」

「あ……ただいま」


 出迎えてくれたのは父――青山(あおやま)孝一(こういち)だった。

 実憂のことがあってすっかり忘れていたが、仕事を終えて帰宅していたらしい。

 俺より背が高く、すらりとしたやせ型の体躯。だがその顔には壮年男性らしい貫禄のようなものが滲み出ている。

 眼鏡越しに向けられたその視線は、何事も見透かしてしまいそうなほどに理知的で鋭い。

 名の知れた一流化学メーカーで研究部長という要職についていることもあり、その佇まいは家の中にいても隙がなかった。


「遅かったな」

「ちょっと、友達と遊んでた」

「そうか」


 短い会話が終わり、無言の時間が流れる。

 父さんは普段から余計な干渉をしてくるタイプではないので、俺の帰宅が少しばかり遅くなった程度では怒らない。

 自分と同じく生真面目な息子が道を踏み外すような真似はしないだろうと、信頼してくれているのかもしれない。

 いつもならここで会話が終わり父さんがリビングに戻っていくはずだったが、この日はそれだけでは終わらなかった。


「遥斗。実はちょっと話したいことがある」

「え、何」

「少し大事な話だから向こうで話したい。先に手を洗ってきなさい」

「……わかった」


 嫌な予感がした。

 父さんは有無を言わさぬ様子で身を翻すと、一人でリビングへと戻っていく。

 去り際に見えたその横顔には、何か言いにくいことを隠しているような複雑な表情があった。

 想い人にふられたばかりの俺としては今すぐ自室にこもって一人きりになりたい気分だったが、何故かこの話は今すぐに聞かなければならないような気がした。


 手を洗ってダイニングテーブルに向かうと、父さんが既に座っていた。

 テーブルの上には麦茶と氷が入ったグラスが二つ並んでいる。

 俺は父さんと向かい合うようにして、いつもの自分の席に腰かける。


「疲れているところすまないな」


 そう言って、父さんは静かにグラスに口をつける。

 抜け殻のようになっている俺の顔を見て、遊び疲れていると勘違いしたらしい。

 何かあったのかと聞かれても返事に困るので、深入りしてこないでくれるのは正直助かる。

 グラスをテーブルに置いた父さんが俺の顔を見ると、何の前置きもなくいきなり切り出した。


「遥斗。実は父さん、アメリカに行こうと思っているんだ」


(……は?)


 あまりの唐突さに言葉を失う。

 父さんはそんな俺を気にせずに淡々と続ける。


「いきなりこんなことを言い出してすまない。だが、仕事の都合で今度ボストンにある子会社を任されることになってしまって」

「…………」


 沈黙が流れた。

 呆然とする俺を父さんが真面目な顔で見つめる。


(父さんが、アメリカに?)


 じわじわと思考が追い付いてきて、目の前の現実を整理し始める。

 父さんの神妙な面持ちからして、アメリカに行くというのはちょっと数週間出張で家を空けるという軽い感じではないのだろう。

 そうなると、おそらくアメリカに引っ越して向こうで暮らすという意図であることは何となく想像できた。


「実は今までも会社の上司からは海外に行けないかと何度か言われていたんだ。ずっと断ってはいたんだが、今回ばかりは断れない状況で――」


 父さんの説明はあまり入ってこなかった。

 ずっと一緒に暮らしていたたった一人の家族がいなくなる。

 その事実だけが俺の頭を支配していた。


(…………いなくなる?)


 ふと、俺の中である言葉が蘇る。

 それは家に着くまではずっと頭を離れなかったのに、父さんと向き合った瞬間に忘れてしまっていたあの子の言葉。


『青山君が……いなくなっちゃったの』


 初めて実憂と一緒に帰った日に告げられた「俺がいなくなる」という不吉な未来。

 事故でも病気でもなく、この世界から俺が消え失せるわけでもないというその言葉の本当の意味は――


(まさか、俺も一緒にアメリカに?)


 すべてが繋がった気がした。

 花火大会で俺がふられた後、理由を訊ねたときに実憂が泣きながら答えた「もうすぐわかる」という言葉。

 あのときはふられたショックで頭が混乱していたから理解できなかったが、今ならわかる。

 それは、たった今父さんが切り出して来たアメリカへの転勤。おそらく俺は父さんと一緒にアメリカに行くことになるのだろう。

 きっと実憂は最初からすべて知っていたのだ。俺の身にいつ、何が起こるのかを。


「――遥斗? 大丈夫か?」


 俺の様子が変わったことに気づいた父さんが話を止めた。

 父さんの声が、どこか遠くの方から聞こえてくるような気がした。


「……俺は、これからどうなるの」


 感情のない声で静かに言うと、父さんの目がピクリと見開かれた。

 ほんのわずかにたじろいだような顔を見せて、父さんは覚悟を決めたように深く息を吐く。


「相変わらず察しがいいな、お前は。わかった、正直なことを言おう。私は遥斗と一緒にアメリカで暮らせたらと思っている」


 やはりか、と思った。

 予想はしていたが、面と向かって言われると想像以上にきつい。

 父さんは俺を気遣うように少しだけ口調を柔らかくした。


「アメリカに行けば生活は大きく変わるし、当然今の高校も辞めて向こうの学校に通うことになる。友人たちと離れるのはつらいかもしれないが、若いうちから世界を知ることができるのはお前の将来にとって絶対に損はないと私は思っている。勉強や進学についてはもちろん私が責任もって考えるし、当然ながら金の心配も一切いらない」


 父さんはやや間を置いてから「少し考えておいて欲しい」と俺に伝えると、静かにテーブルから立ち上がった。

 これ以上話を続けても俺の頭が情報を受け付けられないと気づいたのだろう。

 リビングを後にする父さんの背中を見送ると、廊下の向こうでドアの閉まる音が小さく響いた。

 一人になった俺はそのまましばし呆けながら、グラスの中の氷をただ静かに眺めていた。



 ◇



 自分の部屋に戻ると、俺は倒れこむようにベッドに身を沈めた。

 音のない部屋で一人、死んだようにシーツに顔をうずめる。

 今日一日色んなことがありすぎて、頭の中が全く整理できない。

 これから俺はどうなってしまうのだろう。

 実憂のこと。父さんのこと。考えれば考えるほどまとまらない思考が脳内をぐるぐると巡って、どうすればいいのかわからなくなる。


(実憂の話によれば、未来の俺は父さんについていく道を選んだんだな)


 実憂は「俺がいなくなる」と言っていたのだから、つまりそれは俺が今の高校を辞めてアメリカに行く選択をしたということだ。

 今の俺からすれば随分と思い切った決断をしたようにも思えたが、全く理解できないというわけではなかった。

 俺はきっと、父さんのことを自分が思う以上に必要としている。

 幼かった頃に母親が他界して以来再婚することもなく男手一つで育ててくれた父。

 わかりやすくやさしさを表現してくれるような人ではないけど、俺を想う気持ちに嘘がないことだけは子供のころからずっと変わらなかった。

 今回のアメリカへの転勤に俺を連れて行こうとしているのだって、きっと本心からその方が俺の将来のためになると思っているのだろう。

 一流企業で世界を相手に仕事をしている父さんにとって、将来俺が同じようにエリートとして人生を歩んでいける道を示すことこそが、最大限の親心であり、愛なのだ。


(……だけど)


 今の俺の頭に浮かぶのは、おそらく未来の俺が知るはずもなかった、美しい夜空の下で涙を流す少女の顔。

 脳裏に焼き付いて離れないその瞳が、俺が本来選ぶはずだった未来を遠ざけてくる。

 もう一度実憂と話してみようかと、何度も考えた。

 だがそのたびに「話したところでどうなる?」と冷ややかに自問する声が聞こえてきて、RINEの通話ボタンを押そうとした指が止まる。

 そうしているうちに気がつけば時計はもう十二時を回っていて、日付が変わっていた。

 早くシャワーを浴びて寝ないといけないとはわかってはいるが、全く体が動く気がしない。

 廊下の向こうからは何の物音もしなくなっており、きっと父さんはもう寝ているのだろう。

 静寂の中、どうすることもできないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 頭がおかしくなりそうだった俺は、助けを求めるかのように実憂のとは違う別のRINEのアカウントを開いた。

 無意識のまま、通話ボタンを押す。


『……もしもし? 遥斗か?』


 スマホの向こうから聞こえてきたのは、眠たそうな親友の声。


『どうしたよ? こんな時間に』


 言われて、非常識な時間だったことに今さら気づく。


「……すまん、ええと……」

『?……』


 口ごもる俺に、裕也があくびをかみ殺す。

 勢いで電話してしまったが、何を話せばいいのか自分でもわからない。

 ごめん、なんでもない、と電話を切ろうとした矢先、

 

『なんかあったのか?』

「えっ」


 電話越しなのにこちらの心境を見透かしたかのような声に思わず息を呑む。

 再び黙り込んでいると、まともな返事が返ってこないことにしびれを切らしたのか、裕也がやれやれと言いたげに息を吐いた。


『お前今どこにいんの? 家?』

「え? そ、そうだけど?」

『よし、じゃあ今からそっち行くわ』

「……は? へっ? いまから!?」

『秒で行くからちょっと待ってろ。んじゃ』


 裕也が一方的に言うと、俺が答えるよりも早く通話が切られる。

 呆然とスマホを握りしめながら、俺はようやく重たかった体を起こした。

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