第16話 花火大会(2)
打ち上げ開始まで、あと五分。
俺たちは人気のない小さな公園のベンチに座り、その時を待っていた。
かき氷を食べ終えた後、実憂が俺をつれて向かったのは専用の観覧エリアではなく、会場から少し離れたところにあるこの公園だった。
「ちょっと遠いけど、ここから花火がよく見えるの。人も少ないし、おすすめ」
「へえ、さすが地元民」
「うん。子供のころ、よくお姉ちゃんと一緒にここに来て遊んでた」
園内には少し古びたすべり台とブランコ、あとは大きさの違う鉄棒があるだけだ。
それ以外には俺たちが今座っているものを含めてベンチが三つと、敷地の隅に街灯が二つ。
花火を見に来た人の多くは観覧エリアの方に行ってしまったため、祭りの喧騒は遠く、あたりはしんと静まり返っていた。
時折湿り気を帯びた夜風が吹いて、草木を揺らす音だけが聞こえてくる。
まるで世界からここだけが切り取られたかのように、穏やかな時間が流れていた。
「なんか、気持ちいいな」
思わずつぶやくと、少し間を置いてから実憂の静かな声が聞こえた。
「わたし、夏の夜の匂いってなんか好き」
「あー、わかるかも」
何気なくこぼした一言だったのに、不思議と心が通じ合ったような気がして笑みが浮かぶ。俺たちは少しだけ感性が似ているのかもしれない。
続けて何か話しかけようかとも思ったが、どうせもうすぐ花火が始まるし、中途半端になるくらいならこのまま静かに待っていようと思った。
満を持して二人で空を見上げる。
沈黙したまましばらく待っていると、
「あ……」
尾を引きながら夜闇を昇っていく一筋の光が見えた。次の瞬間、ぱっと光が弾けてあたりが照らされ、ドンという夜空を叩いたような轟音が響いた。
始まった。
わずかに間を置いてから次の花火がひゅるると打ち上げられる。眩い閃光を放ちながら勢いよく爆ぜる。
たしかに実憂の言う通り少し距離はあったけど、遮蔽物になるものもなくて、色鮮やかな光の輪をすべて目に焼き付けることができた。
「わあ……」
隣から実憂の小さく息を呑むような声が聞こえた。
次々と打ち上げられる花火は、黒一色だったキャンバスを鮮やかに彩る。赤、青、緑。浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
ときにそれは幾重にも重なり合う大輪となって夜空を埋め尽くしたり、黄金色のしだれ柳のようになって光の雨を降らせたり。
その圧倒的で煌びやかな光景に、俺たちはただひたすらに空を仰いだ。
途中でスポンサーの名前を告げるアナウンスが流れてやや白ける場面もあったが、それでもすぐにまた大量の花火が打ち上がると、俺たちは黙って空を見つめた。
「綺麗だね……」
「うん」
俺はそっと隣に目をやる。
白い光に照らされた実憂の横顔。大きな瞳に映る小さな花火はとても綺麗で、俺は息が止まりそうになる。
空を見上げるのも忘れて、俺の視線は隣にいる少女に釘付けになっていた。
「実憂」
気がつけば自然と名前を呼んでいた。実憂が何も言わずにゆっくりとこちらを向く。
見つめ合うと、心臓の音が耳元まで響いてくるくらいうるさく鳴った。花火の轟音すら今は遠く感じる。
何を言おうかなんてまるで考えてなかった。だから、思考が追い付くよりも早く、俺の口は勝手に動いていた。
「好きです」
――? 何を言っているんだ俺は?
これではまるで、告白しているみたいじゃないか。
混乱する気持ちを置き去りにして、俺の口は止まらない。
「実憂のことが好きです。俺と付き合ってください」
体が全く言うことをきかなかった。頭と体が別人になってしまったような気分だ。
いっそ花火の音でかき消してくれればよかったのに。
そんな俺の期待も虚しく、実憂は驚愕の色を浮かべたままぴくりとも動かなくなる。
時間が止まったようだった。
夏の夜空に咲き乱れる花火の轟音だけがただ無慈悲に響いていた。ドン、ドンという激しい音が俺たちを急かすように鳴り続ける。
そのままどれくらい経ったのだろうか。実際は十秒程度しか経っていないはずのその時間がやけに長く感じた。
それからややあって、実憂の目元に小さな雫が滲み、唇が微かに動いた。
「……ご、めん……なさい……」
俺はただ黙って、一筋の涙がその頬を静かに伝っていくのを見つめていた。
◇
心臓が止まるかと思った。
あれだけうるさかった花火の音が一瞬で聞こえなくなる。
突然訪れた静寂の中、遥斗君の口からこぼれたその四文字がわたしの頭の中で何度も何度もループする。
『好きです』
最初は冗談かと思った。あるいはただの聞き間違いかもしれない。
そうやって自分をごまかそうとしていると、そんなわたしの考えを否定するかのように彼は言葉を重ねてきた。
「実憂のことが好きです。俺と付き合ってください」
頭が真っ白になった。
ずっと、ずっと憧れていた人から告白されるという夢のような瞬間。
恋愛小説でしか見たことがないイベントが今目の前で起きている。
なのに、わたしの胸を埋め尽くしたのは喜びではなく、引き裂かれるような痛みだった。
(無理だよ)
気づけばわたしは泣いていた。
だけどこの涙は嬉しくて流れているわけではない。
罪悪感。
彼はもうすぐお父さんの仕事の都合でこの街を離れていく。それも、もう二度と会えないのではないかと思うくらい、遥か遠くまで。
つまりわたしたちが付き合って結ばれるなんて未来は最初からなかったのだ。
だからわたしは今日、ずっと胸に秘めてきたこの想いを彼に伝えて、お別れをしようと思ってこの花火大会に誘った。
花火を眺めながらも、どんな言葉でこの気持ちを、そしてお別れを告げようかとずっと考えていた。
だけど――
『俺と付き合ってください』
当然そんな事情を知る由もない彼は、わたしとの「未来」を求めてきた。
その真剣なまなざしを見ると、彼の真っ直ぐな気持ちを自分が踏みにじっているように思えて。
何も知らない彼の純粋な想いを、一方的に未来を知っている自分が弄んでいる。
そんな気がして、たまらなくなった。
こんなことになるなら、もっと早くに切り出すべきだった。いやむしろ、最初から彼に話しかけなければよかった。そうすればこんな風にはならずに済んだ。
(結局わたしは、大好きな人を傷つけることしかできない)
わたしは乾いた唇を震わせながら、必死に声を絞り出す。
「……ご、めん……なさい……」
そう伝えるのがやっとだった。
わたしもあなたのことが好きですと、そう言えたらどれだけよかったか。
だけどそんなことを伝えたら、きっと彼を余計に傷つけてしまう。
何もできない自分が歯がゆくて、視界がどんどんぼやけていく。
「……どうして?」
遥斗君はただ一言だけ、そう聞き返してきた。
彼が今どんな顔をしているのかはよく見えなかったが、理由を尋ねてくるその声には動揺、困惑、絶望などさまざまな感情が綯い交ぜになっているように聞こえた。
「いえ、ない……でも、もうすぐ、わかる、から……」
遥斗君は口を閉ざして何も言わなくなる。
怒っているのか、悲しんでいるのかはわからない。
会話がなくなった二人の間に、花火の連射音が遠慮なく響いた。
スターマインだ。もうすぐクライマックスなのだろう。その音はさっきまでよりも勢いを増しているように思えた。
今まで見た中で最も美しく、残酷な花火が終わろうとしている。
――わたしも遥斗君のことが好きです。
花火の音に紛らわせるように、声に出さずにつぶやく。
――いつもやさしくて、真っ直ぐ誠実で、だけど少しだけ不器用で。そんなあなたが大好きです。
最後の花火までのカウントダウンをするかのように、胸の内で何度も何度もつぶやいた。
(ああ、わたしは本当にだめだな)
結局この想いは遥斗君に告げられそうにない。
わざわざタイムリープまでしてこの世界に来たというのに。
あまりに情けなくて、我ながら呆れてしまう。
(だけど……)
彼と過ごした今日までの日々はかけがえのない時間だった。
雨の日に同じ傘に入りながら帰った放課後も、皆で一緒に飲んだ甘いフラペチーノも、汗だくになりながらボールを追いかけるあなたを応援したあの日も、二人きりで教科書を並べ合った勉強会も。
そのすべてが、絶対に忘れることのないわたしの宝物だ。
(お礼、言わなくちゃ)
それだけは絶対に言わないといけないと思った。
たとえこの想いを伝えることができなくても、自分勝手な女だと思われたとしても、今何も言わなければわたしはこれから一生後悔する。
「遥斗君」
わたしは洟を啜りながら、黙り込んでしまった遥斗君の顔を見る。
そして今の自分にできる精一杯の笑みを浮かべてこう言った。
「ありがとう。わたしに、特別な時間をくれて」




