第12話 勉強会(1)
インターハイ県予選から数日後。
午後の授業が終わり、後はホームルームを待つだけとなった教室。
俺は先日の試合の疲労からすっかり回復した体を伸ばしながら、ぼんやりと席に座っていた。
大会も一段落したこともあり、今日からテニス部は定期試験前の部活動休止期間に入る。
七月上旬にある期末テストに向けて、これから放課後は試験勉強の毎日だ。
日頃からそれなりに授業の復習はしてきたからそこまで不安はないが、しっかり対策をするに越したことはない。
気持ちを入れ直していると、後ろから裕也の声が聞こえてきた。
「助けてください遥斗様」
振り返ると、いつにも増して切実な表情をした裕也がいた。何となく言いたいことはわかるが、一応訊ねておく。
「どうした」
「期末試験の範囲が広すぎる。こんなの聞いてない」
試験範囲は数週間前から告知されていたはずなんだが、というツッコミを飲み込み、俺は代わりに溜め息を吐いた。
要するに、勉強を教えてくれということだろう。
自分で言うのも何だが、俺は勉強自体はそこまで苦手な方ではない。学年内順位もいつも上位から三十番以内には名前が載っているし、調子がいいときは一桁に近づく時もある。
一方の裕也はというと、どちらかというと下から数えた方が順位が早い。そのような事情もあり、テスト前に裕也が俺に助けを請うてくるのは恒例行事となっていた。
裕也が真面目な口調で続ける。
「このままだと赤点の可能性も否めない」
「おいおい。新部長がテスト休み明けいきなり部活に来れないのはさすがにマズいだろ」
先週の大会で三年生の先輩方の引退が決まり、テスト休み明けからは俺たち二年生が部活をリードしていくことになっている。
そんな中で裕也は俺たちの代の部長になることが決まっていた。部内でも同級生や後輩たちからの人望も厚いし、最適な人選だと思っている。
一方で、うちの高校は県内でもそれなりの進学校なので、テストで赤点をとった場合は補習を受けて追試に合格するまで部活に参加できないという規則があった。
万が一裕也が次のテストで赤点でもとったら、世代交代後の部活を部長なしでスタートすることになってしまう。部の士気の点から考えても、それはあまり良い状態ではないだろう。
「わかったよ。後で俺のまとめノート見せてやるよ」
「あざーっす! 恩に着るぜ友よ! じゃあさっそく、今日の放課後いいか?」
「はいはい」
まったくと息をこぼしながら、俺はさっそくスマホを取り出してカレンダーアプリを確認する。
期末試験は科目数も多く、テスト期間は約一週間にわたる。そうであれば、なるべく序盤の科目から対策ノートを共有してやった方がいいだろう。
どの科目から始めるべきかと考えていたら、スマホ画面の隅の方にRINEの通知がきていることに気がついた。
(ん、実憂?)
メッセージは実憂からで、通知が届いた時刻を見ると午後の授業が終わってすぐに送ってくれていたらしい。
『遥斗君、ちょっとお願いがあります。』
(お願い?)
こんな改まった文面は珍しいなと、俺は少し浮わついた指先で返信を打ち込む。
『どうしたの?』
すると待ってましたと言うように、返事はすぐに返ってきた。
『もしよければ勉強を教えてくれませんか?』
(実憂に勉強を?)
一瞬びっくりしたが、実憂が頼ってくれているということを理解すると、途端に言葉にできない高揚感が沸き上がってきた。
俺はニヤけそうになる口元を押さえて、目の前で不思議そうな顔でこちらを窺っていた裕也に向き直った。
「裕也、悪い。やっぱりノート見せるの明日でもいいか?」
「はあ!? なんでだよ、さっきいいって言ったじゃん!」
食い下がる親友には申し訳ないが、俺の中の優先順位は覆らない。
レディファーストという自分に都合のいい言い訳を胸の中で唱えながら、俺は不満げに眉をひそめる裕也にもう一度ごめんと謝った。
◇
ホームルームが終わり、いそいそと一人教室を出た俺は正門前に来て足を止めた。
実憂からのお願いを快諾したところ、とりあえず今日一緒に帰って相談することになったのだ。
二人で一緒に帰るのはこれで三度目だが、待ち合わせしているときのこの時間は未だに落ち着かない。
蒸し暑いむわっとした空気の中、緊張する胸をなだめるように深く呼吸して待っていると、校舎から出てくる生徒たちの群れの中に実憂の姿を見つけた。
「待たせてごめん。遥斗君、いつも早いね」
「あ、うん。遅れないようにと思って」
(浮かれて早く来てしまいましたとは言えない)
すっかり夏制服姿になった実憂が俺の隣に並んでくる。
半袖のブラウスから伸びる白い腕と、胸元で揺れる水色のリボン。涼しげな彼女の姿に、夏の訪れを改めて実感する。
俺たちは横並びになって駅の方向へとゆっくりと歩き出す。
「ごめんね。急にこんなお願いしちゃって」
「別にかまわないよ。でも、実憂って勉強が苦手ではなかったよね?」
今までメッセージで聞いていた彼女の話によると、これまでも常に平均点以上はとれてると言っており、特別に勉強を教える必要があるようには思えなかった。
俺の問いかけに、実憂は首を横に振って答える。
「そ、そんなことないよ。わたしなんて、一番よかったときだって五十位以内にやっと入るかくらいだもん。遥斗君に比べたら全然」
(裕也に比べたらかなり優秀だけど)
俺は心の中でつぶやきながら、実憂の話に耳を傾ける。
「特にわたし、物理がすごく苦手で。三年生になったら生物クラスに行こうと思ってるけど、今年は必修だから何とかしないとなって」
「そうなんだ。俺は逆に生物よりも物理のほうが好きだから、物理なら教えられることあるかも」
「ほ、ほんと? なら、色々と教えて欲しいです」
うちの高校では二年生から文系と理系でクラスがわかれる。俺たちは今は理系クラスにいるが、来年になると受験科目や国立大学、私立大学志望などでさらにクラスが分けられる。
実憂は生物系を志望するということだから、物理系に進もうと思っている俺とは来年は別のクラスになる。
仕方がないことだけど、少しだけ寂しいような気持ちが込み上げてきた。
「もちろん、俺にわかることなら何でも教えるよ。でも、どこでやろうか?」
駅前のカフェに行ってもいいが、店内はいつも賑やかなので集中して数式と向き合わないといけない科目の勉強には不向きな気もする。
それにこの時期はうちの高校の他の生徒も同じように勉強していることが多いから、知り合いに出くわす可能性も高い。そうなったら今度はそっちが気になって集中できなくなりそうだ。
どうしようかなと俺が唸りながら考えていると、隣から実憂の控え目な声で聞こえてきた。
「ち、ちなみにだけどさ。遥斗君のお家って今日は誰かいるの?」
「え? あー、いないけど?」
うちは父さんと俺の二人しかいないが、父さんは基本いつも仕事が忙しくて帰ってくるのは遅い。
そのため平日はほとんど夜まで一人で過ごしていることが多かった。
とはいえ、昔から父と二人暮らしだったため自炊や家事は一通りできるようになっており、今の暮らしに特に不便さを感じたことはなかったわけだが。
(……ん? 待てよ?)
ようやく先ほどの質問の意図に気づいた俺は、ハッと目を見開いて実憂を見返す。
そこには熱に浮かされたような顔で、うずうずとこちらを窺っている実憂がいた。
そして恥ずかしそうに小さく咳払いをすると、意を決したような声でこう言った。
「あ、あのさ! も、もし迷惑じゃなければ、遥斗君のお家で勉強しませんか?」




