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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第97話「お前がいない日々に」

第97話「お前がいない日々に」


 朝から落ち着かなかった。


 何が違うというわけではない。いつもの朝食。いつもの香草茶。いつもの白湯。


 でも、空気が違う気がした。


 カイン様が、いつもより早く食堂を出た。何かの用事だろうか。


 午前中の仕事を終えて、午後に温室に向かった。


 温室の扉を開けた。


 カイン様がいた。


 椅子に座っているのではなく、立っていた。温室の中央に、真っ直ぐ立っている。


 「カイン様? どうしましたか」


 カイン様がこちらを向いた。


 表情はいつもと同じだ。無表情。でも、目が揺れている。


 「座れ」


 椅子を示された。座った。


 カイン様は立ったままだ。


 「話がある」


 あの言葉だ。連邦との合意のとき、「終わったら話がある」と言っていた。


 心臓が跳ねた。


 カイン様が上着のポケットに手を入れた。


 小さな箱を取り出した。


 箱を開けた。


 指輪だった。


 銀の台座に、小さなルーン石がはめ込まれている。控えめで、でも光が当たると青く輝く。


 息が止まった。


 カイン様が——膝はつかなかった。この人は膝をつくような人ではない。


 真っ直ぐ立って、指輪を差し出した。


 手が、震えている。


 「お前がいない日々に」


 声が低かった。いつもの声だ。でも、かすかに震えている。


 「意味がなかった」


 言葉が途切れた。カイン様が息を吸った。


 「これからも——ここにいてくれ。俺の、隣に」


 温室が静かだった。


 植物の呼吸だけが聞こえる。暖炉石の微かな熱。午後の光が天窓から差し込んでいる。


 指輪を持つ手が震えている。剣を振るう手。魔物を斬る手。百人の兵を率いる手。


 その手が、今、小さな指輪一つを持つだけで震えている。


 涙が出た。


 止められなかった。頬を伝って、顎から落ちた。


 「カイン様」


 声が震えた。


 「わたくしも——同じです」


 立ち上がった。カイン様の前に立った。


 「あなたの隣で、ちゃんと生きていたいのです」


 ちゃんと生きる。


 前世では、できなかった。一人で、消耗して、壊れた。


 今世では違う。この人の隣で、ちゃんと生きていける。


 あの夜、前世の自分に言った。「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」と。


 あの言葉の続きが、今ここにある。


 一人で大丈夫なのではない。この人と一緒に、大丈夫になった。


 カイン様が指輪を取り出した。


 わたくしの左手を取った。


 薬指に、指輪を通した。


 ルーン石が、明るく脈打った。


 光が、温室の中を一瞬だけ照らした。植物の葉に反射して、緑と青の光が混じり合った。


 「最初からお前は特別だった」


 カイン様が言った。


 最初から。辺境に来たときから。帳簿を整え、温室で泥まみれになり、鉱山に入り、民を救い、この土地を変えていった。最初からずっと、特別だった。


 涙が止まらない。でも、笑っていた。泣きながら笑っていた。


 「はい」


 それだけだった。


 指輪が光っている。ルーン石の青い光が、薬指の上で静かに輝いている。


 カイン様の目が、ほんの少しだけ潤んでいた。泣いてはいない。この人は泣かない。でも、目の奥に何かが光っていた。


 温室の中で、二人で立っていた。


 どちらからともなく、手を繋いだ。


 窓の外に、春の光が差している。


 ——この指輪のことを、父に伝えなければならない。ヴァルトシュタイン公爵が、辺境伯との婚約をどう受け取るか。



---


 指輪をはめたまま、温室を出た。


 カイン様と並んで廊下を歩いた。手は繋いでいない。でも、距離が近い。肩が触れそうだ。


 左手の薬指が、かすかに温かい。指輪のルーン石が、まだ光を帯びている。


 「カイン様」


 「何だ」


 「この指輪、ゲルツ親方が作ったのですか」


 「……ああ」


 「いつ頼んだのですか」


 少し間があった。


 「連邦との交渉が終わった翌日に」


 あの日だ。合意が成立して、わたくしが「カイン!」と呼び捨てにしてしまった日。


 あの日に、もう決めていたのか。


 「ディートリヒとフリッツは知っていましたか」


 「……たぶん」


 「ゾフィとヨハンナも?」


 「知らないはずだが」


 全員知っていた。間違いなく。


 廊下の角を曲がったら、ゾフィが立っていた。


 こちらを見て、わたくしの左手を見て、指輪を見て。


 叫んだ。


 「きゃあああ!」


 「ゾフィ、静かに」


 「無理です! エリナ様、指輪! 指輪ですよね!?」


 頷いた。


 ゾフィが飛び上がった。文字通り、その場で跳んだ。


 「やったー! おめでとうございます! ずっと待ってたんです! ずーっと!」


 ゾフィが泣き始めた。


 「ゾフィ、泣かないで。あなたの方が泣いてどうするの」


 「だって嬉しいんですもん」


 ディートリヒが廊下の奥から静かに歩いてきた。


 わたくしの手を見た。指輪を見た。


 表情は変わらなかった。だが、深く一礼した。


 「おめでとうございます。旦那様。エリナ様」


 その声が、かすかに震えていた。


 カイン様がディートリヒを見た。


 「知っていたのか」


 「ほぼ百パーセント予想しておりました」


 「ほぼ」ではないだろう。百パーセントだろう。


 ヨハンナが茶を持ってきた。


 わたくしの手を見て、指輪を見て、一瞬だけ目を閉じた。


 「お嬢様。おめでとうございます」


 それだけだった。でも、ヨハンナの目が赤かった。


 「ヨハンナ。泣いていますか」


 「目が乾いただけです」


 同じ言い訳を二回目だ。


 夕食は特別だった。


 ゾフィが全力で作った。メインは辺境の鹿肉のロースト。付け合わせに根菜のグラタン。デザートにハート型のパン。


 ハート型のパンは、前にも一度出てきた。あのときは意味がわからなかった。今ならわかる。


 カイン様が、ハート型のパンを見て固まった。


 「……これは」


 「ゾフィの祝福です。食べてあげてください」


 カイン様がハート型のパンを手に取った。耳が赤い。


 食堂の空気が温かかった。


 ディートリヒが給仕しながら、珍しく口元が緩んでいた。


 フリッツが扉の前に立ちながら、無表情のまま頷いていた。


 みんなが喜んでくれている。


 夜、部屋に戻った。


 指輪を外さなかった。


 ベッドに入って、左手を天井にかざした。


 ルーン石の青い光が、暗い部屋の中で微かに光っている。


 (前世では、こんな未来は想像もしなかった)


 二十六歳で死んだ女。独身で、恋人もいなくて、毎日終電で帰って、最後は過労で倒れた。


 その女が、今世では。


 辺境伯にプロポーズされた。指輪をもらった。城中が祝福してくれている。


 涙がまた出てきた。


 今日は何度泣いたか、数えていない。


 でも、全部嬉しい涙だった。



---


 翌朝、城中が知っていた。


 食堂に行くと、使用人たちの顔がいつもと違った。みんなにこにこしている。掃除の老人まで笑っている。


 「おめでとうございます、エリナ様」


 「おめでとうございます」


 「おめでとうございます!」


 三人続けて言われた。


 (ゾフィが広めたのか。それとも全員がもう知っていたのか)


 答えは後者だろう。ディートリヒの言い方からして、城の使用人は全員気づいていた。


 午前中、城下に出た。


 市場のグレーテが駆け寄ってきた。


 「エリナ様! 辺境伯様とご婚約なさったって本当ですか!?」


 もう市場にまで広がっている。


 「はい。昨日」


 「やっぱり! みんな言ってたんですよ、いつかこうなるって!」


 肉屋のハンスが奥から顔を出した。


 「おめでとうございます! 祝いの肉を用意しますよ。一番いい部位を!」


 パン屋のマルタが、泣いていた。


 「マルタさん、泣かないでください」


 「だって……エリナ様が来てから、この領地が変わったんです。それが、辺境伯様と結ばれるなんて」


 涙が伝染する。グレーテも目を拭いている。


 (わたくしは嫁ぐわけではないのに。ここにいるのに。でも、みんなが泣いてくれるのは嬉しい)


 ルーカスが走ってきた。


 「エリナ様! 結婚するんですか!?」


 「婚約よ。結婚はまだ先」


 「辺境伯様と?」


 「そうよ」


 ルーカスが少し考えた。


 「じゃあ、エリナ様はずっとここにいるってことですか」


 「そうなるわね」


 ルーカスが笑った。


 「よかった」


 その一言が、一番嬉しかった。


 午後、ルドルフから祝いの手紙が届いた。


 『エリナ様。ご婚約おめでとうございます。商人の目に狂いはなかったと、改めて確信しました。お祝いの品を近日中にお届けします。ルドルフ』


 ルドルフらしい手紙だ。簡潔で、でも温かい。


 ゲルツ親方が温室に来た。


 「指輪、気に入ったか」


 「とても。ありがとうございます、ゲルツ親方」


 「旦那様が、何度もやり直させたんだ。石の角度がどうの、サイズがどうのと。あの人は剣の手入れよりこだわっていたな」


 何度もやり直させた。


 この人は——言葉では何も言わないのに、行動だけが雄弁だ。


 夕食後、ディートリヒが書斎に来た。


 「旦那様。正式な婚約の手続きについて確認がございます」


 カイン様が頷いた。


 「ヴァルトシュタイン公爵家への正式な申し入れ。王室への届け出。婚約発表の場と時期」


 「手紙を書く」


 カイン様が言った。


 「ヴァルトシュタイン公爵宛の婚約申し入れ書。俺が書く」


 ディートリヒが少し驚いた顔をした。


 「旦那様がご自身でお書きになるのですか」


 「当然だろう。エリナの父親に出す手紙を、人に書かせるわけにはいかない」


 その夜、カイン様は書斎にこもっていた。


 翌朝見たら、ゴミ箱に丸めた紙が七枚入っていた。


 (七回書き直したのか)


 完成した手紙を見せてもらった。短い文章だった。


 『ヴァルトシュタイン公爵殿。令嬢エリナとの婚約を申し入れる。理由は一つ。この先も、エリナの隣にいたい。ドラクロワ辺境伯 カイン』


 短すぎる。でも、この人らしい。


 ヨハンナが手紙を読んで、「書き直した方がよいのでは」と言った。


 カイン様が「これ以上は書けない」と答えた。


 そのまま出した。


---


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