第97話「お前がいない日々に」
第97話「お前がいない日々に」
朝から落ち着かなかった。
何が違うというわけではない。いつもの朝食。いつもの香草茶。いつもの白湯。
でも、空気が違う気がした。
カイン様が、いつもより早く食堂を出た。何かの用事だろうか。
午前中の仕事を終えて、午後に温室に向かった。
温室の扉を開けた。
カイン様がいた。
椅子に座っているのではなく、立っていた。温室の中央に、真っ直ぐ立っている。
「カイン様? どうしましたか」
カイン様がこちらを向いた。
表情はいつもと同じだ。無表情。でも、目が揺れている。
「座れ」
椅子を示された。座った。
カイン様は立ったままだ。
「話がある」
あの言葉だ。連邦との合意のとき、「終わったら話がある」と言っていた。
心臓が跳ねた。
カイン様が上着のポケットに手を入れた。
小さな箱を取り出した。
箱を開けた。
指輪だった。
銀の台座に、小さなルーン石がはめ込まれている。控えめで、でも光が当たると青く輝く。
息が止まった。
カイン様が——膝はつかなかった。この人は膝をつくような人ではない。
真っ直ぐ立って、指輪を差し出した。
手が、震えている。
「お前がいない日々に」
声が低かった。いつもの声だ。でも、かすかに震えている。
「意味がなかった」
言葉が途切れた。カイン様が息を吸った。
「これからも——ここにいてくれ。俺の、隣に」
温室が静かだった。
植物の呼吸だけが聞こえる。暖炉石の微かな熱。午後の光が天窓から差し込んでいる。
指輪を持つ手が震えている。剣を振るう手。魔物を斬る手。百人の兵を率いる手。
その手が、今、小さな指輪一つを持つだけで震えている。
涙が出た。
止められなかった。頬を伝って、顎から落ちた。
「カイン様」
声が震えた。
「わたくしも——同じです」
立ち上がった。カイン様の前に立った。
「あなたの隣で、ちゃんと生きていたいのです」
ちゃんと生きる。
前世では、できなかった。一人で、消耗して、壊れた。
今世では違う。この人の隣で、ちゃんと生きていける。
あの夜、前世の自分に言った。「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」と。
あの言葉の続きが、今ここにある。
一人で大丈夫なのではない。この人と一緒に、大丈夫になった。
カイン様が指輪を取り出した。
わたくしの左手を取った。
薬指に、指輪を通した。
ルーン石が、明るく脈打った。
光が、温室の中を一瞬だけ照らした。植物の葉に反射して、緑と青の光が混じり合った。
「最初からお前は特別だった」
カイン様が言った。
最初から。辺境に来たときから。帳簿を整え、温室で泥まみれになり、鉱山に入り、民を救い、この土地を変えていった。最初からずっと、特別だった。
涙が止まらない。でも、笑っていた。泣きながら笑っていた。
「はい」
それだけだった。
指輪が光っている。ルーン石の青い光が、薬指の上で静かに輝いている。
カイン様の目が、ほんの少しだけ潤んでいた。泣いてはいない。この人は泣かない。でも、目の奥に何かが光っていた。
温室の中で、二人で立っていた。
どちらからともなく、手を繋いだ。
窓の外に、春の光が差している。
——この指輪のことを、父に伝えなければならない。ヴァルトシュタイン公爵が、辺境伯との婚約をどう受け取るか。
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指輪をはめたまま、温室を出た。
カイン様と並んで廊下を歩いた。手は繋いでいない。でも、距離が近い。肩が触れそうだ。
左手の薬指が、かすかに温かい。指輪のルーン石が、まだ光を帯びている。
「カイン様」
「何だ」
「この指輪、ゲルツ親方が作ったのですか」
「……ああ」
「いつ頼んだのですか」
少し間があった。
「連邦との交渉が終わった翌日に」
あの日だ。合意が成立して、わたくしが「カイン!」と呼び捨てにしてしまった日。
あの日に、もう決めていたのか。
「ディートリヒとフリッツは知っていましたか」
「……たぶん」
「ゾフィとヨハンナも?」
「知らないはずだが」
全員知っていた。間違いなく。
廊下の角を曲がったら、ゾフィが立っていた。
こちらを見て、わたくしの左手を見て、指輪を見て。
叫んだ。
「きゃあああ!」
「ゾフィ、静かに」
「無理です! エリナ様、指輪! 指輪ですよね!?」
頷いた。
ゾフィが飛び上がった。文字通り、その場で跳んだ。
「やったー! おめでとうございます! ずっと待ってたんです! ずーっと!」
ゾフィが泣き始めた。
「ゾフィ、泣かないで。あなたの方が泣いてどうするの」
「だって嬉しいんですもん」
ディートリヒが廊下の奥から静かに歩いてきた。
わたくしの手を見た。指輪を見た。
表情は変わらなかった。だが、深く一礼した。
「おめでとうございます。旦那様。エリナ様」
その声が、かすかに震えていた。
カイン様がディートリヒを見た。
「知っていたのか」
「ほぼ百パーセント予想しておりました」
「ほぼ」ではないだろう。百パーセントだろう。
ヨハンナが茶を持ってきた。
わたくしの手を見て、指輪を見て、一瞬だけ目を閉じた。
「お嬢様。おめでとうございます」
それだけだった。でも、ヨハンナの目が赤かった。
「ヨハンナ。泣いていますか」
「目が乾いただけです」
同じ言い訳を二回目だ。
夕食は特別だった。
ゾフィが全力で作った。メインは辺境の鹿肉のロースト。付け合わせに根菜のグラタン。デザートにハート型のパン。
ハート型のパンは、前にも一度出てきた。あのときは意味がわからなかった。今ならわかる。
カイン様が、ハート型のパンを見て固まった。
「……これは」
「ゾフィの祝福です。食べてあげてください」
カイン様がハート型のパンを手に取った。耳が赤い。
食堂の空気が温かかった。
ディートリヒが給仕しながら、珍しく口元が緩んでいた。
フリッツが扉の前に立ちながら、無表情のまま頷いていた。
みんなが喜んでくれている。
夜、部屋に戻った。
指輪を外さなかった。
ベッドに入って、左手を天井にかざした。
ルーン石の青い光が、暗い部屋の中で微かに光っている。
(前世では、こんな未来は想像もしなかった)
二十六歳で死んだ女。独身で、恋人もいなくて、毎日終電で帰って、最後は過労で倒れた。
その女が、今世では。
辺境伯にプロポーズされた。指輪をもらった。城中が祝福してくれている。
涙がまた出てきた。
今日は何度泣いたか、数えていない。
でも、全部嬉しい涙だった。
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翌朝、城中が知っていた。
食堂に行くと、使用人たちの顔がいつもと違った。みんなにこにこしている。掃除の老人まで笑っている。
「おめでとうございます、エリナ様」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます!」
三人続けて言われた。
(ゾフィが広めたのか。それとも全員がもう知っていたのか)
答えは後者だろう。ディートリヒの言い方からして、城の使用人は全員気づいていた。
午前中、城下に出た。
市場のグレーテが駆け寄ってきた。
「エリナ様! 辺境伯様とご婚約なさったって本当ですか!?」
もう市場にまで広がっている。
「はい。昨日」
「やっぱり! みんな言ってたんですよ、いつかこうなるって!」
肉屋のハンスが奥から顔を出した。
「おめでとうございます! 祝いの肉を用意しますよ。一番いい部位を!」
パン屋のマルタが、泣いていた。
「マルタさん、泣かないでください」
「だって……エリナ様が来てから、この領地が変わったんです。それが、辺境伯様と結ばれるなんて」
涙が伝染する。グレーテも目を拭いている。
(わたくしは嫁ぐわけではないのに。ここにいるのに。でも、みんなが泣いてくれるのは嬉しい)
ルーカスが走ってきた。
「エリナ様! 結婚するんですか!?」
「婚約よ。結婚はまだ先」
「辺境伯様と?」
「そうよ」
ルーカスが少し考えた。
「じゃあ、エリナ様はずっとここにいるってことですか」
「そうなるわね」
ルーカスが笑った。
「よかった」
その一言が、一番嬉しかった。
午後、ルドルフから祝いの手紙が届いた。
『エリナ様。ご婚約おめでとうございます。商人の目に狂いはなかったと、改めて確信しました。お祝いの品を近日中にお届けします。ルドルフ』
ルドルフらしい手紙だ。簡潔で、でも温かい。
ゲルツ親方が温室に来た。
「指輪、気に入ったか」
「とても。ありがとうございます、ゲルツ親方」
「旦那様が、何度もやり直させたんだ。石の角度がどうの、サイズがどうのと。あの人は剣の手入れよりこだわっていたな」
何度もやり直させた。
この人は——言葉では何も言わないのに、行動だけが雄弁だ。
夕食後、ディートリヒが書斎に来た。
「旦那様。正式な婚約の手続きについて確認がございます」
カイン様が頷いた。
「ヴァルトシュタイン公爵家への正式な申し入れ。王室への届け出。婚約発表の場と時期」
「手紙を書く」
カイン様が言った。
「ヴァルトシュタイン公爵宛の婚約申し入れ書。俺が書く」
ディートリヒが少し驚いた顔をした。
「旦那様がご自身でお書きになるのですか」
「当然だろう。エリナの父親に出す手紙を、人に書かせるわけにはいかない」
その夜、カイン様は書斎にこもっていた。
翌朝見たら、ゴミ箱に丸めた紙が七枚入っていた。
(七回書き直したのか)
完成した手紙を見せてもらった。短い文章だった。
『ヴァルトシュタイン公爵殿。令嬢エリナとの婚約を申し入れる。理由は一つ。この先も、エリナの隣にいたい。ドラクロワ辺境伯 カイン』
短すぎる。でも、この人らしい。
ヨハンナが手紙を読んで、「書き直した方がよいのでは」と言った。
カイン様が「これ以上は書けない」と答えた。
そのまま出した。
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