表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
98/119

第96話「ディートリヒの観察」

第96話「ディートリヒの観察」


 旦那様の様子がおかしい。


 わたくし、ディートリヒは、ドラクロワ辺境伯家の執事を務めて八年になる。旦那様の癖も、表情の読み方も、だいたい把握しているつもりだ。


 だが、最近の旦那様は——今まで見たことのない動きをしている。


 まず、ゲルツ親方に会いに行った。


 鍛冶場に旦那様が足を運ぶのは珍しくない。武具の手入れや、新しい剣の発注はよくある。


 だが、今回は違った。


 「ゲルツ。指輪を作れるか」


 鍛冶場の入口で、旦那様のその言葉が聞こえた。


 聞き間違いかと思った。


 「指輪? 装飾品は専門外だが、やれなくはない。何に使うんだ」


 旦那様が黙った。長い沈黙だった。


 「……贈り物だ」


 旦那様の声が、かすかに小さくなっていた。


 ゲルツ親方が「ああ」と頷いた。何を理解したのか、それ以上は聞かなかった。


 「素材は?」


 「ルーン石を。小さいやつで——」


 わたくしは鍛冶場の柱の陰で、全てを聞いてしまった。


 その夜、ゾフィに報告した。


 「ゾフィ。聞いてくれ」


 「どうしました、ディートリヒさん」


 「旦那様が——指輪を作っている」


 ゾフィが食器を落としそうになった。


 「指輪!? それって、もしかして——」


 「声が大きい。エリナ様に聞こえる」


 ゾフィが両手で口を押さえた。


 「えっ、でも、それって、つまり——プロポーズ?」


 「おそらく」


 「やっぱり! わたし、いつかこうなると思ってたんです!」


 「全員思っていた」


 問題は旦那様だ。


 ここ数日、旦那様はエリナ様の前で何度も言葉を途切れさせている。「エリナ」と呼びかけては「……いや」と引っ込める。あれは明らかに何かを言おうとして言えない状態だ。


 旦那様は、魔物を斬るのは得意だ。百人の兵を率いるのも得意だ。外交交渉でも、いざとなれば辺境伯の気迫で押し切れる。


 だが、女性に想いを伝えることに関しては、壊滅的に不得手だ。


 告白のときもそうだった。あの城壁での告白は、わたくしに言わせれば「もう少し何とかならなかったのか」というレベルだった。だがエリナ様には通じた。あの二人は不器用同士だから、不器用が通じる。


 指輪はゲルツ親方が三日で仕上げると言っていた。小さなルーン石を銀の台座にはめた、控えめな指輪。旦那様らしい。


 問題は、旦那様がいつ、どこで、どうやって渡すかだ。


 フリッツにも伝えた。


 「フリッツ。知っているか」


 「指輪の件ですか。ゲルツから聞きました」


 全員知っている。


 知らないのはエリナ様だけだ。


 「旦那様に助言した方がいいだろうか」


 「やめておけ、ディートリヒ。旦那様のことだ。自分のやり方でやるだろう」


 「だが、このままでは永遠に言えないのでは」


 「……確かに」


 ヨハンナにも聞いた。


 「ヨハンナさん。旦那様の件は」


 「存じております」


 「お嬢様は気づいていますか」


 「いいえ。お嬢様は鈍い方ではありませんが、ご自身のことになると少し——」


 鈍い。


 あの二人は互いに鈍い。


 旦那様は気持ちを言葉にできない。エリナ様は自分に向けられた好意に気づかない。告白が成立したこと自体が奇跡だった。


 昨日、旦那様がゲルツ親方から小さな箱を受け取るのを目撃した。


 指輪が完成したのだ。


 旦那様が箱を上着の内ポケットに入れた。それから三回、ポケットに手を入れて確認した。


 がんばってください、旦那様。


 わたくしは、ほぼ百パーセント確信している。


 いや。百パーセントだ。



---


 カイン様の様子が、おかしい。


 朝食のとき、何かを言いかけて止めた。もう三日連続だ。「エリナ」と呼びかけて、「……いや、何でもない」と引っ込める。


 温室にいるとき、わたくしの方をじっと見ていることが増えた。目が合うと、すぐに視線を逸らす。


 上着の内ポケットに、何度も手を入れている。何かが入っているのだろうか。


 そして、ソワソワしている。この人がソワソワするところなど、見たことがなかった。


 (何かあったのだろうか。連邦との合意の後始末で、まだ問題が?)


 夕方、ゾフィに聞いてみた。


 「ゾフィ。カイン様、最近変だと思わない?」


 ゾフィが皿を拭く手を止めた。


 「変? 変ですか? どこが変ですか?」


 声が高い。


 「何かを言いかけては止めるの。それに、何かを探しているような——」


 ゾフィの顔が赤くなった。


 「奥様、違いますよ」


 奥様。


 「ゾフィ。わたくしはまだ『奥様』ではありません」


 「あ、すみません。つい」


 「つい」で言うには早すぎる。


 「それで、何が『違う』の?」


 ゾフィが口をもごもごさせた。


 「それは——旦那様のお口から——」


 旦那様のお口から。


 何の話だ。


 ヨハンナに聞いた。


 「ヨハンナ。カイン様の最近の様子について、何か知っていますか」


 ヨハンナが茶を注ぎながら、穏やかに微笑んだ。


 「お嬢様。人には、自分で気づくべきことがございます」


 それは答えになっていない。


 「ヨハンナ。教えてください」


 「教えられません。ただ——良いことです。ご安心ください」


 良いこと。


 ディートリヒにも聞いてみた。


 「ディートリヒ。カイン様は何を探しているのですか」


 ディートリヒの表情が一瞬だけ崩れた。すぐに元の真顔に戻った。


 「さあ。存じません」


 嘘だ。この人は嘘が下手だ。


 全員が何かを知っていて、わたくしだけが知らない。


 (もしかして——外敵の残務で、まだ何か問題があるのでは。カイン様が心配をかけまいとして隠している?)


 書斎に行った。帳簿を確認した。連邦との合意は履行されている。穀物の初回出荷も問題ない。国境の巡回報告にも異常はない。


 数字上は、何の問題もなかった。


 (では、何を?)


 夜、ベッドに入ってからも考えた。


 カイン様が「エリナ」と呼んで止まる。上着のポケットに手を入れる。ソワソワする。


 ゾフィが「奥様」と呼んだ。ヨハンナが「良いことです」と言った。ディートリヒが嘘をついた。


 全部つながっている。でも、答えが見えない。


 (わたくしは鈍いのだろうか)


 前世でも、こういうところは鈍かった。仕事のことなら数字で全部わかるのに、自分に向けられた感情には気づかない。カイン様の好意にも、告白されるまで気づかなかった。


 もしかして、また。


 いや。


 まさか。


 天井を見つめた。


 心臓が、少し速くなっている。



---


 今日こそ言おう。


 朝、鏡の前で決意した。指輪は上着の内ポケットにある。ゲルツが作った、小さなルーン石の指輪。銀の台座。控えめだが、光が当たると青く輝く。


 食堂に行った。


 エリナが先に座っていた。香草茶を飲んでいる。


 向かいに座った。


 「おはようございます、カイン様」


 「……ああ」


 言え。今言え。


 「エリナ」


 「何ですか?」


 口を開いた。


 「……よく晴れたな」


 違う。


 エリナが窓の外を見た。


 「そうですね。今日は気持ちのいいお天気です」


 お天気の話をしに来たのではない。


 朝食を終えた。何も言えなかった。


 午前中、フリッツと巡回の確認をした。集中できなかった。


 フリッツが地図を指差しながら報告している。国境の状況は安定している。連邦の演習は完全に撤収された。


 聞いているふりをしていた。


 「辺境伯様。大丈夫ですか」


 「大丈夫だ」


 「顔色が——」


 「大丈夫だと言っている」


 大丈夫ではない。


 昼食の後、温室に行った。


 エリナがルーン草の世話をしている。


 近づいた。


 「エリナ」


 「はい?」


 エリナがこちらを向いた。紫紺の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。


 言え。今。


 「お前が——」


 止まった。


 エリナが首を傾げている。


 「わたくしが、何ですか?」


 「……水やりを手伝おうか」


 違う。全然違う。


 「大丈夫ですよ。一人でできます」


 敗北だった。


 書斎に戻った。


 椅子に座って、天井を見た。


 なぜ言えない。


 百人の兵を率いて魔物と戦うより難しい。剣を振るえば相手は倒れる。だが言葉は——言葉は剣のようにはいかない。


 ディートリヒが書斎に入ってきた。


 「旦那様。お茶をお持ちしました」


 「……ああ」


 ディートリヒが茶を置いて、少し間を置いた。


 「旦那様。差し出がましいことを申しますが」


 「何だ」


 「考えすぎではないでしょうか」


 考えすぎ。


 「旦那様は、告白のときもそうでした。何日も悩んで、城壁の上で、短い言葉で伝えました。それでエリナ様に伝わりました」


 あのときは、何と言ったか。


 「お前がいないと困る」。


 それだけだった。


 「旦那様の言葉は、飾らないから伝わるのです。今回も——旦那様の言葉で、旦那様のやり方で」


 ディートリヒが一礼して出ていった。


 飾らない言葉。俺のやり方。


 上着のポケットに手を入れた。


 小さな箱がある。


 明日。


 明日こそ。


 夕食のとき、また失敗した。


 「エリナ」


 「何ですか?」


 「……味噌汁が美味い」


 味噌汁ではない。スープだ。しかも、言いたいことはそれではない。


 エリナが不思議そうな顔をした。


 「カイン様。味噌汁とは何ですか」


 知らない。なぜそんな言葉が出た。エリナが前世の言葉を使うのが移ったのか。


 「何でもない」


 部屋に戻った。


 ベッドに座って、指輪の箱を開けた。


 小さなルーン石が、薄い光を放っている。


 明日。温室で。二人きりのときに。


 言葉は——出てくるはずだ。俺の言葉が。飾らない、短い言葉が。


 箱を閉じて、枕元に置いた。


 眠れなかった。


---


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ