第96話「ディートリヒの観察」
第96話「ディートリヒの観察」
旦那様の様子がおかしい。
わたくし、ディートリヒは、ドラクロワ辺境伯家の執事を務めて八年になる。旦那様の癖も、表情の読み方も、だいたい把握しているつもりだ。
だが、最近の旦那様は——今まで見たことのない動きをしている。
まず、ゲルツ親方に会いに行った。
鍛冶場に旦那様が足を運ぶのは珍しくない。武具の手入れや、新しい剣の発注はよくある。
だが、今回は違った。
「ゲルツ。指輪を作れるか」
鍛冶場の入口で、旦那様のその言葉が聞こえた。
聞き間違いかと思った。
「指輪? 装飾品は専門外だが、やれなくはない。何に使うんだ」
旦那様が黙った。長い沈黙だった。
「……贈り物だ」
旦那様の声が、かすかに小さくなっていた。
ゲルツ親方が「ああ」と頷いた。何を理解したのか、それ以上は聞かなかった。
「素材は?」
「ルーン石を。小さいやつで——」
わたくしは鍛冶場の柱の陰で、全てを聞いてしまった。
その夜、ゾフィに報告した。
「ゾフィ。聞いてくれ」
「どうしました、ディートリヒさん」
「旦那様が——指輪を作っている」
ゾフィが食器を落としそうになった。
「指輪!? それって、もしかして——」
「声が大きい。エリナ様に聞こえる」
ゾフィが両手で口を押さえた。
「えっ、でも、それって、つまり——プロポーズ?」
「おそらく」
「やっぱり! わたし、いつかこうなると思ってたんです!」
「全員思っていた」
問題は旦那様だ。
ここ数日、旦那様はエリナ様の前で何度も言葉を途切れさせている。「エリナ」と呼びかけては「……いや」と引っ込める。あれは明らかに何かを言おうとして言えない状態だ。
旦那様は、魔物を斬るのは得意だ。百人の兵を率いるのも得意だ。外交交渉でも、いざとなれば辺境伯の気迫で押し切れる。
だが、女性に想いを伝えることに関しては、壊滅的に不得手だ。
告白のときもそうだった。あの城壁での告白は、わたくしに言わせれば「もう少し何とかならなかったのか」というレベルだった。だがエリナ様には通じた。あの二人は不器用同士だから、不器用が通じる。
指輪はゲルツ親方が三日で仕上げると言っていた。小さなルーン石を銀の台座にはめた、控えめな指輪。旦那様らしい。
問題は、旦那様がいつ、どこで、どうやって渡すかだ。
フリッツにも伝えた。
「フリッツ。知っているか」
「指輪の件ですか。ゲルツから聞きました」
全員知っている。
知らないのはエリナ様だけだ。
「旦那様に助言した方がいいだろうか」
「やめておけ、ディートリヒ。旦那様のことだ。自分のやり方でやるだろう」
「だが、このままでは永遠に言えないのでは」
「……確かに」
ヨハンナにも聞いた。
「ヨハンナさん。旦那様の件は」
「存じております」
「お嬢様は気づいていますか」
「いいえ。お嬢様は鈍い方ではありませんが、ご自身のことになると少し——」
鈍い。
あの二人は互いに鈍い。
旦那様は気持ちを言葉にできない。エリナ様は自分に向けられた好意に気づかない。告白が成立したこと自体が奇跡だった。
昨日、旦那様がゲルツ親方から小さな箱を受け取るのを目撃した。
指輪が完成したのだ。
旦那様が箱を上着の内ポケットに入れた。それから三回、ポケットに手を入れて確認した。
がんばってください、旦那様。
わたくしは、ほぼ百パーセント確信している。
いや。百パーセントだ。
---
カイン様の様子が、おかしい。
朝食のとき、何かを言いかけて止めた。もう三日連続だ。「エリナ」と呼びかけて、「……いや、何でもない」と引っ込める。
温室にいるとき、わたくしの方をじっと見ていることが増えた。目が合うと、すぐに視線を逸らす。
上着の内ポケットに、何度も手を入れている。何かが入っているのだろうか。
そして、ソワソワしている。この人がソワソワするところなど、見たことがなかった。
(何かあったのだろうか。連邦との合意の後始末で、まだ問題が?)
夕方、ゾフィに聞いてみた。
「ゾフィ。カイン様、最近変だと思わない?」
ゾフィが皿を拭く手を止めた。
「変? 変ですか? どこが変ですか?」
声が高い。
「何かを言いかけては止めるの。それに、何かを探しているような——」
ゾフィの顔が赤くなった。
「奥様、違いますよ」
奥様。
「ゾフィ。わたくしはまだ『奥様』ではありません」
「あ、すみません。つい」
「つい」で言うには早すぎる。
「それで、何が『違う』の?」
ゾフィが口をもごもごさせた。
「それは——旦那様のお口から——」
旦那様のお口から。
何の話だ。
ヨハンナに聞いた。
「ヨハンナ。カイン様の最近の様子について、何か知っていますか」
ヨハンナが茶を注ぎながら、穏やかに微笑んだ。
「お嬢様。人には、自分で気づくべきことがございます」
それは答えになっていない。
「ヨハンナ。教えてください」
「教えられません。ただ——良いことです。ご安心ください」
良いこと。
ディートリヒにも聞いてみた。
「ディートリヒ。カイン様は何を探しているのですか」
ディートリヒの表情が一瞬だけ崩れた。すぐに元の真顔に戻った。
「さあ。存じません」
嘘だ。この人は嘘が下手だ。
全員が何かを知っていて、わたくしだけが知らない。
(もしかして——外敵の残務で、まだ何か問題があるのでは。カイン様が心配をかけまいとして隠している?)
書斎に行った。帳簿を確認した。連邦との合意は履行されている。穀物の初回出荷も問題ない。国境の巡回報告にも異常はない。
数字上は、何の問題もなかった。
(では、何を?)
夜、ベッドに入ってからも考えた。
カイン様が「エリナ」と呼んで止まる。上着のポケットに手を入れる。ソワソワする。
ゾフィが「奥様」と呼んだ。ヨハンナが「良いことです」と言った。ディートリヒが嘘をついた。
全部つながっている。でも、答えが見えない。
(わたくしは鈍いのだろうか)
前世でも、こういうところは鈍かった。仕事のことなら数字で全部わかるのに、自分に向けられた感情には気づかない。カイン様の好意にも、告白されるまで気づかなかった。
もしかして、また。
いや。
まさか。
天井を見つめた。
心臓が、少し速くなっている。
---
今日こそ言おう。
朝、鏡の前で決意した。指輪は上着の内ポケットにある。ゲルツが作った、小さなルーン石の指輪。銀の台座。控えめだが、光が当たると青く輝く。
食堂に行った。
エリナが先に座っていた。香草茶を飲んでいる。
向かいに座った。
「おはようございます、カイン様」
「……ああ」
言え。今言え。
「エリナ」
「何ですか?」
口を開いた。
「……よく晴れたな」
違う。
エリナが窓の外を見た。
「そうですね。今日は気持ちのいいお天気です」
お天気の話をしに来たのではない。
朝食を終えた。何も言えなかった。
午前中、フリッツと巡回の確認をした。集中できなかった。
フリッツが地図を指差しながら報告している。国境の状況は安定している。連邦の演習は完全に撤収された。
聞いているふりをしていた。
「辺境伯様。大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「顔色が——」
「大丈夫だと言っている」
大丈夫ではない。
昼食の後、温室に行った。
エリナがルーン草の世話をしている。
近づいた。
「エリナ」
「はい?」
エリナがこちらを向いた。紫紺の目が、真っ直ぐにこちらを見ている。
言え。今。
「お前が——」
止まった。
エリナが首を傾げている。
「わたくしが、何ですか?」
「……水やりを手伝おうか」
違う。全然違う。
「大丈夫ですよ。一人でできます」
敗北だった。
書斎に戻った。
椅子に座って、天井を見た。
なぜ言えない。
百人の兵を率いて魔物と戦うより難しい。剣を振るえば相手は倒れる。だが言葉は——言葉は剣のようにはいかない。
ディートリヒが書斎に入ってきた。
「旦那様。お茶をお持ちしました」
「……ああ」
ディートリヒが茶を置いて、少し間を置いた。
「旦那様。差し出がましいことを申しますが」
「何だ」
「考えすぎではないでしょうか」
考えすぎ。
「旦那様は、告白のときもそうでした。何日も悩んで、城壁の上で、短い言葉で伝えました。それでエリナ様に伝わりました」
あのときは、何と言ったか。
「お前がいないと困る」。
それだけだった。
「旦那様の言葉は、飾らないから伝わるのです。今回も——旦那様の言葉で、旦那様のやり方で」
ディートリヒが一礼して出ていった。
飾らない言葉。俺のやり方。
上着のポケットに手を入れた。
小さな箱がある。
明日。
明日こそ。
夕食のとき、また失敗した。
「エリナ」
「何ですか?」
「……味噌汁が美味い」
味噌汁ではない。スープだ。しかも、言いたいことはそれではない。
エリナが不思議そうな顔をした。
「カイン様。味噌汁とは何ですか」
知らない。なぜそんな言葉が出た。エリナが前世の言葉を使うのが移ったのか。
「何でもない」
部屋に戻った。
ベッドに座って、指輪の箱を開けた。
小さなルーン石が、薄い光を放っている。
明日。温室で。二人きりのときに。
言葉は——出てくるはずだ。俺の言葉が。飾らない、短い言葉が。
箱を閉じて、枕元に置いた。
眠れなかった。
---




