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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第95話「辺境の総力」

第95話「辺境の総力」


 翌日、ルドルフが城に来た。


 「エリナ様。連邦の弱点を掴みました」


 ルドルフが広げた帳簿には、連邦の七都市の穀物輸入量が記されていた。


 「連邦南部の三都市は、冬季の穀物を王国からの輸入に依存しています。特にリンダウとフライブールは依存度が六割を超える。もし辺境が穀物の優先供給を持ちかければ、この三都市は評議会内で独占契約に反対する側に回ります」


 「評議会は七都市の合議ですから、三都市が反対すれば過半数に届かない」


 「その通りです」


 数字が武器になる瞬間だ。


 ゲルツ親方にも指示を出した。


 「ルーン石の採掘量を、一時的に絞れますか」


 「やろうと思えばできる。何をするつもりだ」


 「連邦に、供給が不安定になる可能性を示します。独占契約を結ばなくても、友好的な関係を維持すればルーン石は安定供給される。だが、圧力をかけ続けるなら採掘量を調整する余地がこちらにある、と」


 ゲルツ親方が腕を組んだ。


 「なるほど。脅しだな」


 「牽制です」


 「同じだ。だが、やれる」


 カイン様は別の準備をしていた。


 フリッツと共に、国境付近に増派した巡回隊の配置を最終確認している。連邦の「演習」に対し、辺境伯領も防衛態勢を見せる。武力による圧力には、武力で応える。


 午後、メッツァーとの再交渉の場が設けられた。


 今度は、カイン様が正面に座った。


 「メッツァー殿。改めて提案がある」


 カイン様の声は低く、静かだった。だが、部屋の空気が変わった。辺境伯として何百もの魔物を斬ってきた男の気迫が、言葉に乗っている。


 「前回の提案に代えて、新しい条件を示す」


 わたくしの改善案を、カイン様が読み上げた。


 ルーン石の限定輸出契約。年間産出量の四割を連邦に優先供給する。独占ではなく、優先権。


 対価として、連邦は穀物の優先取引を受ける。辺境伯領の余剰穀物を、市場価格で連邦南部の三都市に供給する。


 メッツァーの目が動いた。穀物の話が出たとき、表情が変わった。


 「さらに。ルーン石の価格は毎年見直す。連邦の需要と辺境の産出量に応じて。公平な取引を保証する」


 カイン様が書類をメッツァーの前に置いた。


 「次はお前の相手は俺だ。辺境伯として交渉する」


 メッツァーの笑顔が消えた。


 初めて、この使節の素の表情を見た。計算している。頭の中で数字を弾いている。


 穀物の優先取引。それは連邦南部の三都市にとって、ルーン石の独占以上に切実な問題だ。冬を越せるかどうかの話だから。


 メッツァーが書類をめくった。数字を確認している。


 「……穀物の条件は、具体的にはどの程度を」


 食いついた。


 わたくしがカイン様の横から具体的な数字を示した。供給量。価格。輸送ルート。保管条件。全て帳簿部屋で組み上げた数字だ。


 メッツァーが聞いている。今度は「小娘の数字遊び」とは言わなかった。辺境伯の名で提示された数字は、同じ内容でも重みが違うのだ。


 一時間の交渉の後、メッツァーが口を開いた。


 「……考えさせてほしい。評議会に持ち帰る必要がある」


 拒否ではなかった。


 メッツァーが部屋を出た。


 書斎で、三人だけになった。カイン様とわたくしとルドルフ。


 「手応えは?」


 ルドルフが聞いた。


 「穀物の話で表情が変わりました。あれは計算を始めた顔です」


 ルドルフが笑った。


 「エリナ様の数字が効いたんです。辺境伯様の気迫と、エリナ様の数字。最強の組み合わせですよ」


 カイン様が窓の外を見た。


 「まだ終わっていない。だが——糸口は掴んだ」


 うなずいた。


 帳簿部屋に戻って、次の準備を始めた。メッツァーが持ち帰った案に対し、連邦が逆提案してくる可能性がある。そのための追加データを整えなければ。


 ペンを持つ手が、もう震えていなかった。



---


 メッツァーが戻ってきたのは、三日後だった。


 応接間で向き合った。カイン様が正面。わたくしが横。ルドルフが後方に控えている。


 メッツァーの表情は、前回とは違っていた。あの柔和な笑顔ではなく、実務的な顔だ。


 「評議会で協議しました。結論を申し上げます」


 メッツァーが書類を広げた。


 「独占取引の要求は撤回します。代わりに、辺境伯領の提案に沿った優先供給契約を受け入れます」


 受け入れた。


 「ただし、条件がございます。穀物の優先取引については、リンダウとフライブールへの冬季供給を契約に明記してほしい。これは南部都市の評議員からの要請です」


 想定通りだ。南部の都市が穀物を求めてきた。


 「受け入れます。供給量と価格は、先日お渡しした条件書の通り」


 カイン様が言った。


 メッツァーが書類にサインした。


 カイン様もサインした。


 「連邦の演習は?」


 「撤収を評議会に進言いたします。友好的な通商関係が確立された以上、軍事的な示威は不要です」


 終わった。


 メッツァーが立ち上がった。一礼して、部屋を出ていく前に足を止めた。


 「辺境伯様。そしてエリナ様」


 メッツァーが初めて、わたくしの名前を呼んだ。


 「穀物取引の案は——見事でした。前回の提案を改善されたのは、あなた様ですか」


 「はい」


 メッツァーが小さく頷いた。


 「連邦にも、あなたのような実務家がいれば楽なのですが」


 それだけ言って、去っていった。


 応接間に三人だけが残った。


 ルドルフが笑った。


 「終わりましたね。お見事です」


 カイン様が椅子の背にもたれた。珍しい姿勢だ。


 「……長かった」


 長かった。ルドルフの冬便から始まって、王都への旅、叙勲、帰還、使節との交渉。


 全部つながっていた。一つずつ積み上げてきたことが、この合意に結実した。


 胸の奥から、安堵が広がった。


 カイン様の腕を掴んだ。


 無意識だった。嬉しくて、安心して、気づいたら手が動いていた。


 「カイン!」


 呼び捨てにした。


 声が出た瞬間、自分で驚いた。


 カイン様が固まった。


 わたくしも固まった。


 ルドルフが目を丸くしている。


 「……カイン、様」


 小さく言い直した。頬が熱い。


 カイン様の首筋が、かすかに紅い。


 「……もう一度」


 小さな声だった。


 「え?」


 「……いや」


 カイン様が視線を逸らした。


 ルドルフが笑いを堪えている。堪えきれていない。


 「あの。ルドルフ、笑わないでください」


 「笑ってません。顔が——勝手に——」


 帳簿部屋に戻った。


 一人になって、机に突っ伏した。


 何をやっているのだ、わたくしは。


 「カイン」と呼んでしまった。呼び捨てに。しかもルドルフの前で。


 でも、嫌ではなかった。口にした瞬間、自然だった。


 「カイン」


 もう一度、小さな声で言ってみた。誰もいない部屋で。


 頬が熱い。


 ヨハンナが入ってきた。


 「お嬢様。交渉が終わったと聞きました。おめでとうございます」


 「ありがとうございます」


 「それから。辺境伯様が先ほど、フリッツに何か伝えていらっしゃいました」


 「何を」


 「『終わったら、話がある』と」


 話がある。


 何の話だろう。連邦との合意の後始末か。国境の巡回態勢の見直しか。


 (まさか、呼び捨てにしたことを怒っている?)


 ヨハンナが微笑んでいた。あの、全部わかっているという顔で。


 窓の外に、春の夕暮れが広がっている。


 嵐が去った。


 辺境に、穏やかな日々が戻ってくる。



---


 嵐が去った辺境は、穏やかだった。


 連邦の使節が帰り、国境の演習も撤収が始まった。巡回隊の報告に緊張はなくなった。


 日常が戻ってきた。


 午前中は帳簿の整理をした。連邦との合意書の控えを記録し、穀物取引の初回出荷の手配を確認した。数字を追う作業は、相変わらず落ち着く。


 午後、温室に行った。


 新品種のルーン草の五本目の葉が伸びていた。ゲルツ親方の採水計画も順調だ。美肌薬の出荷は予定通り進んでいる。


 温室の端で、鈴蘭に水をやった。


 三輪の小さな白い花。カイン様のお母様が植えた花。


 温室の椅子に座っていたら、カイン様が来た。


 何も言わずに隣の椅子に座った。


 暖炉石の温もりが穏やかに広がっている。植物の匂い。土の匂い。湿った空気。


 カイン様が何かを言おうとした。口を開いて、止まった。


 「エリナ」


 「何ですか?」


 「……いや」


 何かを言いかけて、止める。


 最近、これが増えた。


 「カイン様?」


 「何でもない。花の手入れを続けろ」


 続けた。


 夕方、ヨハンナと茶を飲んでいた。


 「お嬢様。辺境の花について、一つお教えしたいことが」


 「花?」


 ヨハンナが窓辺の鉢植えを見た。五輪の花が咲いている鉢植え。


 「あの花に——花言葉があるのをご存じですか」


 「花言葉?」


 ヨハンナが微笑んだ。


 「辺境には、花言葉の古い言い伝えがあります。あの花は——『永遠の約束』です」


 永遠の約束。


 鉢植えを見た。白い花びらが、夕暮れの光に照らされている。


 一輪目は、わたくしが辺境に来たばかりの頃に咲いた。それから季節ごとに一つずつ増えて、今は五輪。


 六輪目の蕾が、小さく膨らんでいた。


 「ヨハンナ。この花は、あと何輪咲くのでしょう」


 「さあ。でも、まだ蕾がありますから。もう少し咲くでしょうね」


 永遠の約束。


 カイン様が言いかけた言葉。何を言おうとしたのだろう。


 考えすぎだ。たぶん、連邦の残務処理か何かの話だ。


 窓の外に、春の風が吹いている。


 六輪目が咲くのは、もうすぐだろう。


---


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