第94話「交渉と剣」
第94話「交渉と剣」
三日間、帳簿と地図に向き合った。
妥協案を作った。
「段階的輸出拡大案」。ルーン石の輸出量を毎年一定の割合で増やし、連邦への供給を段階的に拡大する。独占ではなく、優先権を与える形だ。
数字は精密に組んだ。辺境の自給分を確保した上で、連邦への輸出量を三年間で倍にする計画。穀物の対価取引を組み込み、両者にとって利益がある構造にした。
(前世で企画書を何十枚も書いた経験が、こういうときに生きる)
自信があった。
数字には嘘がない。合理的で、公平で、実現可能な案だ。
カイン様に見せた。
「よくできている」
メッツァーに提示する日が来た。
応接間で向き合った。
わたくしが案を説明した。帳簿の数字を並べ、グラフを示し、三年計画の全体像を伝えた。
メッツァーは黙って聞いていた。
説明が終わった。
メッツァーが書類を手に取って、一枚ずつめくった。
「よく作られた計画書です」
笑った。あの柔和な、計算された笑顔で。
「ですが、辺境の小娘の数字遊びには付き合えません」
空気が凍った。
「連邦評議会が求めているのは、段階的な拡大ではなく即時の独占契約です。三年も待つ余裕はない。評議会は来月の定例会議で結果を求めています」
メッツァーが書類を机に置いた。丁寧に、しかし明確に突き返された。
「五日の期限は明後日です。再考をお勧めします」
メッツァーが部屋を出た。
書斎に戻った。
扉を閉めた。
手が震えていた。
椅子に座った。帳簿部屋の、いつもの椅子だ。ここで何度も数字と格闘してきた。でも今日は、数字が何も助けてくれなかった。
「辺境の小娘の数字遊び」。
あの言葉が、頭の中で繰り返される。
(前世でも、あった。企画書を三日かけて作って、会議で提出して、課長に「こんなのじゃ話にならない」と突き返された。数字は正しかったのに。ロジックは正しかったのに。それでも「お前の立場で言っても通らない」と)
あのときと同じだ。
内容の問題ではない。立場の問題だ。
辺境伯令嬢の提案では、連邦の特使を説得する重みが足りない。数字がどれだけ正確でも、それを語る人間の肩書きが足りなければ通らない。
わかっていたはずだ。
社交界でも同じだった。ハルデンベルク伯爵の攻撃に、自力では立ち直れなかった。ルドルフが助けてくれた。
わたくしは——一人では足りないのか。
帳簿を見た。
数字は正しい。計画も正しい。でも、通らなかった。
涙は出なかった。代わりに、胸の奥が冷たくなった。
扉が開いた。
カイン様だった。
わたくしの顔を見て、何も聞かなかった。
「失敗しました」
「聞いた」
カイン様が椅子を引いて、向かいに座った。
「お前の案は正しい」
「通りませんでした」
「相手が聞く気がなかっただけだ」
それは慰めだろうか。事実だろうか。
「カイン様。わたくしの立場では——」
「立場の問題なら、俺が出る」
カイン様の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「お前が数字を作れ。俺がそれを突きつける。辺境伯の名前と剣を添えて」
「でも——」
「一人で全部やる必要はない。お前がそう教えてくれたはずだ」
わたくしが教えた。「二人で」と言ったのは、わたくしだ。
でも、いざ自分が失敗すると、一人で何とかしようとしてしまう。前世の癖だ。誰にも頼れなかった日々が、体に染みついている。
「……はい」
声が小さかった。
カイン様が立ち上がった。
「連邦は武力を背景に脅している。ならば、こちらも同じ言葉で返す。明日、俺が使節に直接会う」
カイン様が部屋を出た。
一人になった。
帳簿を見た。
この数字は正しい。この案は、改善の余地がある。今回の失敗で見えたことがある。
前世で企画書を突き返されたとき、わたしは家に帰って泣いた。次の日も同じ企画書を出して、また突き返された。それを繰り返して、壊れた。
今は違う。一人じゃない。
帳簿を開き直した。
改善案を考え始めた。
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翌朝、カイン様がフリッツを呼んだ。
「兵を動かす準備をしろ。国境に巡回隊を増派する。連邦の演習に対し、こちらも態勢を整える」
フリッツが頷いて出ていった。
書斎に行った。
「カイン様。兵を動かすのは、交渉と並行してですか」
「ああ。言葉だけでは動かない相手だ。剣を見せる必要がある」
それは正しい。連邦が武力を背景にしているなら、こちらも同じ土俵に立たなければ交渉にならない。
「交渉のほうは、わたくしが改善案を——」
カイン様が遮った。
「これ以上はお前の仕事じゃない。俺がやる」
足が止まった。
「何を仰っているのですか」
「外交は辺境伯の職務だ。連邦の使節との直接交渉は、俺が担当する。お前は安全な場所にいろ」
安全な場所。
「わたくしはお飾りの婚約者にはなりません」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
カイン様の目が鋭くなった。
「お飾りとは言っていない。お前を危険に晒すわけにはいかない」
「危険に晒したくないなら——最初からわたくしを辺境に呼ばなければよかったのです」
言ってしまった。
カイン様が黙った。
長い沈黙だった。
何かを言い返すと思った。でも、カイン様は何も言わなかった。
わたくしが先に部屋を出た。
扉を閉めた。
心臓が速い。手が震えている。怒りなのか、悲しさなのか、わからない。
初めてだった。カイン様と本気でぶつかったのは。
一日目が終わった。
夕食を別々に取った。
ゾフィが心配そうにこちらを見ていた。何か聞きたそうだったが、ヨハンナが目で制した。
二日目。
朝、食堂に行ったが、カイン様はいなかった。すでにフリッツと合流して、兵の配置を確認しに行ったらしい。
帳簿部屋に籠った。
前回の案が通らなかった理由を分析した。
問題は三つ。一つ、段階的拡大のテンポが遅すぎた。二つ、連邦にとっての即時的な利益が不明確だった。三つ、穀物取引の具体的な条件が抽象的すぎた。
改善案を組み直した。
穀物取引を前面に出す。連邦の弱点は冬季の穀物依存度だ。ルドルフが調べてくれた情報によれば、連邦南部の都市は毎年冬に穀物不足に陥る。辺境伯領は穀物の自給率を上げたが、まだ余剰はある。
ルーン石の限定輸出契約と、穀物の優先取引を組み合わせる。連邦にとっても穀物確保の実利がある。これなら、独占ではなく共存の枠組みになる。
数字を組み直した。何度も計算し直した。前回より具体的に。価格表まで作った。
昼食も帳簿部屋で取った。
ヨハンナが食事を持ってきてくれた。
「お嬢様。根を詰めすぎです」
「もう少しだけ」
ヨハンナが黙って出ていった。
カイン様はカイン様で動いている。フリッツから聞いた話では、国境付近の巡回ルートを組み直し、連邦の演習に対する牽制配置を整えているらしい。
城の空気が重い。
ディートリヒが廊下でぽつりと呟いた。
「……気まずいですね」
気まずい。そうだ、気まずい。
でも、どちらからも折れられない。
三日目の朝。
部屋の扉の前に、何かが置いてあった。
白湯だった。
陶器の湯のみに、温かい白湯が入っている。湯気が立っている。
カイン様が置いたのだ。
この人は、最初からそうだった。
初めて会った頃。わたくしが帳簿と格闘していた夜に、何も言わずにお茶を置いていった。
あのときと同じだ。
白湯を持って、書斎に行った。
カイン様が机に向かっていた。地図を見ている。
扉の前で立ち止まった。
「……一人にするなと、言っただろう」
カイン様の声だった。地図を見たまま、こちらを見ないで。
「それはわたくしのセリフです」
カイン様が顔を上げた。
目が合った。
わたくしは改善案を差し出した。
「三日間、考えました。前回の失敗を踏まえた新しい案です。穀物取引を前面に出しました。連邦にとっての実利が明確になっています」
カイン様が書類を受け取った。
一枚ずつ読んだ。数字を指でなぞりながら。時間をかけて。
「……これでいこう」
折れたのではなかった。エリナの案を読んで、判断した。辺境伯として。
「俺が使節に提示する。辺境伯の名で」
「はい」
「お前が作った案を。お前の数字で」
役割分担が明確になった。
カインが辺境伯として外交の盾になる。わたくしが実務の剣を鍛える。
「二人で、やる」
カイン様が言った。
「はい。二人で」
白湯を飲んだ。
少しぬるくなっていた。でも、温かかった。
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