第98話「父と兄への報告」
第98話「父と兄への報告」
父とクラウス兄様への手紙は、わたくしも別に書いた。
カイン様の婚約申し入れ書と一緒に、ヴァルトシュタイン邸に送る。
父への手紙を書くのは、意外と難しかった。
『お父様へ。
カイン様から、婚約の申し入れがありました。わたくしは、受けました。
辺境に来て一年半。たくさんのことがありました。帳簿を整え、温泉を見つけ、鉱山を救い、叙勲を受けました。でも、一番大事なことは——この人に出会えたことです。
カイン様は言葉が少なくて、不器用で、笑顔を作るのが苦手です。でも、嘘をつきません。わたくしが震えているとき、黙って手を握ってくれました。わたくしが失敗したとき、「お前の案で行こう」と言ってくれました。
お父様の目で見て、信頼できると思ってくださったなら——嬉しいです。
エリナより』
クラウス兄様への手紙は短く書いた。
『お兄様へ。
カイン様と婚約しました。殺さないでくださいね。
エリナ』
三日後、返事が来た。
父の返事は、封蝋がいつもより丁寧に押してあった。
『エリナへ。
辺境伯の手紙を読んだ。短い文だった。だが——あの男らしい文だと思った。
あの辺境伯なら——悪くない。
一つだけ言わせてもらえば——お前の母に、報告したかった。きっと喜んだだろう。
父より』
母。
わたくしの母、マルグリット。幼い頃に亡くなった。記憶はほとんどない。
母に報告したかった。父がそう書いている。この不器用な人が、亡き妻のことを手紙に書いた。
(母上は——どこにおられるのだろう)
天にいるのだろうか。この世界に天国があるのかどうか、わからない。でも、どこかで見ていてくれたら。
手紙を書こうとした。母への手紙を。
ペンを持って、紙を前に置いた。
書けなかった。
何を書けばいいかわからない。会ったことのない母に、何を伝えればいいのか。
ペンを置いた。
いつか書こう。言葉が見つかったら。
クラウス兄様の返事は、翌日に届いた。早い。
『エリナへ。
おめでとう。
殺すのは保留にする。ただし、お前を泣かせたら——保留を解除する。
辺境伯殿に伝えてくれ。「善処する、の約束を忘れるな」と。
あと、結婚式には呼べよ。
兄より』
カイン様に見せた。
「善処する——と言ったのは覚えている」
「お兄様は絶対に忘れません」
「わかっている」
カイン様の返答は真顔だったが、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
ルドルフからの祝いの品が届いた。
王都の高級茶葉のセット。カードが添えてある。
『これからは二人分のお茶が必要ですね。ルドルフ』
二人分。
温室で、カイン様と茶を飲んだ。
カイン様は白湯。わたくしは香草茶。
「カイン様。これからも、白湯ですか」
「茶は苦手だ」
「知っています」
でも、向かいに座ってくれるなら、何でもいい。
窓の外に、春の風が吹いている。
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婚約が決まってから、日々が少しだけ変わった。
朝食の席で、カイン様が向かいではなく隣に座るようになった。
小さな変化だ。でも、肩が触れる距離にいると、空気が違う。
「カイン様。隣に座るようになりましたね」
「向かいだと遠い」
遠い。この人の「遠い」は、物理的な距離のことだ。でも、嬉しい。
午後、温室で将来の話をした。
「結婚式はどこでしたいですか」
カイン様が少し考えた。
「辺境で、がいい」
「わたくしも」
王都の大聖堂で盛大にやることもできる。ヴァルトシュタイン公爵家と辺境伯家の婚姻なら、社交界の大きな話題になるだろう。
でも、辺境がいい。
ここが、わたくしたちの場所だから。
「招待客は少なくていい。城の人間と、城下の人々と、ルドルフ」
「お父様とお兄様も呼ばなければ」
「……ああ。それは当然だ」
城下の教会で、小さな式を挙げる。ゾフィが料理を作って、マルタがパンを焼いて、グレーテが花を飾って。
想像するだけで、胸が温かくなった。
「子供は」
カイン様が唐突に言った。
「え」
「……いや。まだ早いか」
「早いです」
頬が熱い。
「でも——いつか」
カイン様がこちらを見た。
「ああ。いつか」
夕方、ディートリヒがカイン様に報告している場面を見た。
廊下の向こうで、ディートリヒが何かを確認していた。
「旦那様。来月の領内視察の件ですが」
「ああ」
「エリナ様も同行されますか」
カイン様が少し間を置いた。
「俺の妻だ。当然だろう」
妻。
カイン様が「妻」と言った。
まだ婚約したばかりなのに。
ディートリヒが「かしこまりました」と答えている。平然と。この人は何があっても表情が変わらない。
わたくしは廊下の角で、心臓を押さえていた。
聞いてしまった。聞くつもりはなかったのに。
「俺の妻」。
あの声で。あの低い声で。当然のように。
(前世では、こんな幸せ、想像もしなかった)
前世のわたしは、結婚を考えたことがなかった。毎日の仕事で精一杯で、恋愛を考える余裕がなかった。「いつか」と思いながら、「いつか」は来なかった。
今世では、来た。
夜、ベッドの中で指輪を見た。
ルーン石の青い光が、暗い部屋を微かに照らしている。
この人の隣で、ちゃんと生きる。
温室を育てる。帳簿をつける。民の暮らしを守る。
前世では「仕事だけ」だった。今世では「仕事と、愛する人と、居場所」がある。
全部ある。
もう、何も失わない。
——それでも。この幸せを守るために、やらなければならないことが、まだ残っている。
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婚約発表の準備が始まった。
ディートリヒが計画を持ってきた。
「正式な婚約発表は、王都で行うのが慣例です。ヴァルトシュタイン公爵家との合同発表が最も格式が高い」
父に手紙を出した。婚約発表の段取りについて。
返事はすぐに来た。
『エリナへ。
婚約発表は、春の終わりにヴァルトシュタイン邸で行う。招待客の選定はこちらで進める。辺境伯殿と共に参られよ。
父より』
また王都に行くことになる。
でも、今度は怖くない。前回とは全てが違う。隣にカイン様がいて、指輪がある。
「カイン様。また王都ですね」
「ああ。もう慣れた」
「嘘ですね」
「……少し慣れた」
結婚式の場所も決めなければならない。
「辺境の教会でやりたいと思います」
わたくしが言うと、カイン様が頷いた。
「城下の聖堂でいい。あの建物は——母が好きだった」
お母様が好きだった場所で。
「カイン様。お母様のこと、少しずつ聞かせてもらえますか」
カイン様が窓の外を見た。
「母は——優しい人だった。温室で花を育てるのが好きで。俺が子供の頃、よく一緒に水をやった」
少しずつ、話してくれるようになった。
「病で寝込んでからも、温室の花のことを気にしていた。最後に言った言葉は——『花に水をやってね』だった」
その言葉を聞いて、温室の鈴蘭のことを思い出した。お母様が植えた花。今も温室の端でひっそり咲いている。
「お母様の花を、ちゃんと守りますね」
カイン様が振り返った。
「……ああ」
声が、少し詰まっていた。
ルドルフから手紙が来た。
『エリナ様。婚約発表に合わせて、辺境の産品を王都で大々的に売り出す計画があります。ルーン石のアクセサリー、美肌薬、燻製食品。辺境伯と公爵令嬢の婚約は、最高の宣伝材料です。商人魂が燃えています。ルドルフ』
商人魂。この人はぶれない。
ただ、手紙の末尾に一行、いつもと違うことが書いてあった。
『お二人の幸せを、心からお祈りしています。——友として。ルドルフ』
友として。
商人ではなく、友として。
ヨハンナが婚約発表のドレスの相談を始めた。
「お嬢様。今度は白がよいかと。フランツに連絡いたしましょう」
白いドレス。
「ヨハンナ。結婚式のドレスは、また別に考えましょうね」
「もちろんです。でも、準備は早い方がよろしいですわ」
ゾフィが割り込んできた。
「結婚式のケーキは、わたしが焼きます! 三段の、大きいやつ!」
「ゾフィ、まだ気が早いですよ」
「早いくらいがちょうどいいんです!」
春の風が窓から入ってくる。
辺境の春は、いつだってあっという間に過ぎる。でも、今年の春は特別だ。
婚約。婚約発表の準備。結婚式の計画。日常の仕事。温室の世話。
忙しい。
でも、前世の忙しさとは違う。あの頃の忙しさは、消耗するだけだった。今の忙しさは、積み上げていく忙しさだ。
一つずつ。
カイン様と一緒に。
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