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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第99話「七輪目の花」

第99話「七輪目の花」


 朝、温室に行ったら、咲いていた。


 七輪目。


 白い花びらが開いている。昨日の夕方にはまだ蕾だったのに、一晩で咲いた。


 鉢植えの花が、七輪並んでいる。


 一輪目は、辺境に来たばかりの頃。何もわからなくて、不安で、でも「ここで生きよう」と決めた頃。


 二輪目。三輪目。季節が変わるたびに増えていった。


 四輪目は、告白の頃だったか。五輪目は、王都から帰ったとき。六輪目は、嵐の後。


 そして、七輪目。


 「あと一つで——満開かもしれない」


 声に出して呟いた。八輪咲いたら満開なのかどうかは、実はわからない。でも、そんな気がする。


 温室の扉が開いて、カイン様が入ってきた。


 鉢植えを見て、足を止めた。


 「咲いたのか」


 「はい。今朝」


 カイン様が鉢植えの前にしゃがんだ。七輪の花を、じっと見ている。


 「花言葉は」


 「永遠の約束、だそうです」


 カイン様が小さく頷いた。


 七輪の花。永遠の約束。


 「まだ、咲き続ける」


 カイン様が言った。


 「はい。あなたと一緒に」


 カイン様がこちらを見た。


 何も言わなかった。でも、手が伸びて、わたくしの手を取った。指輪をはめた左手を。


 しばらく、そのまま立っていた。


 温室の朝の光。植物の匂い。暖炉石の微かな温もり。


 静かで、穏やかで、幸せな朝だった。


 午後、ルドルフから手紙が届いた。


 『エリナ様。王都での正式な婚約発表の件、日程が固まりつつあります。


 その際——一つお知らせがあります。王都への道中、アルフレート殿下の蟄居先の離宮をお通りになります。迂回ルートもございますが、最短路では避けられません。


 ご参考まで。ルドルフ』


 アルフレートの蟄居先。


 手紙をカイン様に見せた。


 カイン様が読んで、こちらを見た。


 「お前は、行きたいか」


 少し考えた。


 行く必要はない。もう終わったことだ。アルフレートの処分は済んでいる。わたくしには何の用もない。


 でも。


 「はい。最後に、一度だけ」


 カイン様が頷いた。


 「わかった」


 なぜ行きたいのか、自分でもはっきりとはわからない。


 恨みではない。あの御前会議で見届けたとき、恨みより感謝の方が大きいと感じた。


 たぶん、区切りをつけたいのだ。前世の自分と向き合ったように。あの夜の大広間で泣いたように。一つずつ、過去に決着をつけていく。


 それが、「ちゃんと生きる」ということだと思う。


 窓の外に、春の空が広がっている。


 辺境の春は短い。でも、その中にこれだけのことが詰まっている。


 王都凱旋。叙勲。父の承認。庭園のキス。アルフレートの処分。連邦との交渉。衝突と和解。プロポーズ。婚約。


 新しい物語が、始まろうとしている。


 でも今は、この瞬間を味わいたい。


 鉢植えの七輪目の花に、水をやった。


 指輪のルーン石が、水滴を受けて青く光った。


 まだ、咲き続ける。


 あなたと一緒に。


〈第4章「王都の光と辺境の絆」了〉


---


 城下の広場に、旗が立っていた。


 婚約発表に向けて出発する日が、明後日に迫っていた。ディートリヒが馬車の手配を済ませ、フリッツが城の留守番体制を整え、ヨハンナが荷物の最終確認を終えた。準備は、静かに、確実に整っていた。


 わたくしが温室に足を運んだのは、出発前の朝のことだ。


 春の光が、ガラス越しに差し込んでいた。


 植物たちはそれぞれの速度で、それぞれに育っていた。ハーブが新しい葉を広げ、早咲きの薔薇が蕾を持ち始めた。


 そして——温室の隅で、鈴蘭が小さな芽を出していた。


 リーゼロッテ様が植えた花。


 昨年の冬を越して、また芽吹いた。


 しゃがんで、その小さな緑の先端を見つめた。


 まだ指の先ほどの大きさだ。でも、土の中からまっすぐに伸びている。


 (頑張り屋さん)


 立ち上がろうとしたとき、温室の入口から足音がした。


 ルーカスだった。


 城下の少年は、今では読み書きをほぼ習得し、城の用足しを手伝うことも増えていた。今日は城の厨房への食材納品の帰り道らしく、小さな空の籠を持っていた。


 「エリナ様、ここにいたんですね」


 「ええ。出発前に花の様子を見ておこうと思って」


 ルーカスが温室の中を見渡した。


 少し間があってから、彼は口を開いた。


 「エリナ様は——ずっとここにいるんですよね」


 問いかけというより、確かめるような声だった。


 わたくしは、少しだけ考えてから答えた。


 「ええ。ここが、わたくしの家ですもの」


 ルーカスが頷いた。


 安心したような、それでいてどこか照れくさそうな顔で。


 (ああ、この子は心配していたんだ)


 婚約発表というのが、王都に行って、そのまま帰ってこないことを意味するのではないかと。子供らしい不安だけれど——わたくしは、その心配がどこか嬉しかった。


 「王都には婚約発表のために行くだけです。終わったら、すぐに戻ります」


 「……そうですよね。わかってたんですけど」


 「わかってても、確かめたくなることはありますよ」


 ルーカスが小さく笑った。


 前歯が一本、少し欠けている。どこかで転んだのだろう。


 「ルーカス、文字の練習は続いていますか」


 「はい! この前、村長さんへの手紙を一人で書きました」


 「それは立派ですね」


 籠を抱え直して、彼は駆けていった。


 温室に、春の静けさが戻った。


 鈴蘭の新芽に、手のひらをかざした。


 触れはしない。ただ、その小さな緑の近くに、少しだけ手を置く。


 「また、戻ってきます」


 花は、何も言わなかった。


 でも、春の光の中でまっすぐ立っていた。


 昼過ぎ、ゾフィが台所から飛び出してきた。


 「エリナ様! 旅の携行食、作りすぎちゃったんですけど、どうします?」


 「どのくらい作ったんですか」


 「大人十人が三日食べられる量……」


 「馬車に乗るのはわたくしとカイン様とヨハンナの三人です」


 「……知ってます」


 ゾフィが少しうつむいた。


 「なんか、作らないと不安で」


 わたくしは笑った。


 (この人の愛情表現は、常に食べ物経由だ。前世の上司が「心配なときは報告書を五枚書く」だったのに似ている。表れ方は違うけれど、根は同じ)


 「ありがとう、ゾフィ。騎士団と留守番の皆さんに配りましょう」


 「あ、それがいいですね!」


 途端に元気を取り戻した料理長は、厨房に戻っていった。


 廊下に、燻製の匂いがほんのり漂った。


 夕刻、書斎でカイン様と出発前の最終確認をした。


 書類を一枚一枚確認しながら、カイン様は静かに頷いていた。


 婚約発表の日取り。王都での滞在先。父への挨拶の段取り。


 「問題ない」


 カイン様が言った。


 「緊張していますか」


 尋ねてみると、わずかな間があった。


 「……少しは」


 正直な返答だ。


 わたくしも同じだった。王都は二度目だけれど、今回は「婚約破棄された令嬢」ではなく「辺境伯の婚約者」として行く。社交界の視線が違う。


 「わたくしも、少し緊張しています」


 「そうか」


 カイン様が書類から目を上げた。


 「……お前が隣にいる」


 それだけだった。


 言葉の続きはなかった。でも——それだけで、十分だった。


 窓の外、城下に春の夕暮れが広がっていた。


 辺境の春は短い。


 でも、明後日の朝には旅に出る。


 帰ってきたとき、鈴蘭の新芽はもう少し大きくなっているだろう。


 この場所に、帰ってくる。


 それが、わたくしの答えだった。



---


 馬車が動き出したとき、最初に思ったのは——静かだ、ということだった。


 前回の王都行きは、もっと緊張していた。


 車輪の音がやけに大きく聞こえて、辺境との距離が増すたびに胸が締め付けられるような感覚があった。あのときのわたくしは、まだ辺境に「帰る場所」という感覚を持てていなかった。


 今は違う。


 馬車の振動が、どこか心地よかった。


 カイン様が、わたくしの隣に座っていた。


 向かいにはヨハンナ。窓の外を流れる景色を眺めながら、穏やかな顔をしていた。


 ヨハンナの膝の上には、刺繍の道具が乗っていた。


 旅の間も手を止めない人だ。


 「ヨハンナ、何を作っているのですか」


 「婚約発表のお嬢様のドレスに、仕上げの刺繍をと思いまして。手のかかる子は最後まで手がかかりますので」


 「今さらドレスに手を入れるのですか」


 「フランツに仕上げてもらったものに、少しだけ。ここに、小さな花を一輪と思いまして」


 ヨハンナが布地の端を持ち上げた。


 白い生地の裾のあたりに、まだ下絵だけが描かれていた。花の形は、鈴蘭に似ていた。


 (ああ、この人は知っている)


 リーゼロッテ様の花のことを、ヨハンナはどこかで知ったのだろう。それとも、何も聞かずに選んだのだろうか。どちらにしても、この刺繍はたぶん、いつかカイン様の目に留まる。


 カイン様はその布地をちらりと見た。何も言わなかった。


 でも、視線が少し長かった。


 馬車は街道を走り続けた。


 昼頃、宿場町に立ち寄った。


 前回も通った町だ。街道沿いに並ぶ商店は、記憶よりも賑わっていた。


 馬の水と休憩を取りながら、わたくしは何気なく通りを眺めた。


 そして、目に入った。


 食材屋の軒先に、見覚えのある小瓶が並んでいた。


 淡い琥珀色の液体。青い蓋。


 あれは——美肌薬だ。


 辺境で製造した、あの美肌薬だ。


 「ちょっと待ってください」


 馬車を降りて、店先に近づいた。


 ラベルには「北辺の恵み・美肌水」と書いてある。値段は——思ったより高かった。


 (ルドルフ、仕事している)


 隣の棚には燻製サーモンの薄切りを詰めた小箱もあった。「辺境特産」の札が付いている。わたくしたちがグラフ城の近くで開発した保存食だ。


 店主がこちらを見た。


 「お目が高い。これ、辺境からの直送品ですよ。今、王都でも流行ってるんです。一月に一度、商人が届けてくれて。北の方の品だとかで」


 わたくしは微笑んで、美肌薬を一瓶手に取った。


 「よく売れていますか」


 「先月入荷した分は、三日でなくなりました。特にこれは人気でして」


 店主が嬉しそうに話し続けた。


 わたくしは聞きながら、胸の中で静かに計算していた。


 (宿場町での販売価格。辺境での製造コスト。流通の中間マージン。……ルドルフはきっと適切な値設定をしている)


 一瓶買って、馬車に戻った。


 カイン様が小瓶を見た。


 「それは」


 「辺境の美肌薬ですわ。ここで売られていました。ルドルフが流通を広げていたようです」


 カイン様が少し間を置いた。


 「……よくやる」


 呆れているのか感心しているのか、判断のつかない声だった。


 おそらく両方だろう。


 馬車が再び動き出した。


 ヨハンナが刺繍の手を止めずに言った。


 「前回この道を通ったとき、お嬢様はずっと窓の外をご覧になっていましたね」


 「覚えていましたか」


 「もちろん。……どんな顔をしていたか、も」


 わたくしは少し考えた。


 あのときのわたくしは、何を考えながら窓の外を見ていたのだろう。


 不安。緊張。でも、心のどこかに、期待もあった。


 「今は、どんな顔をしていますか」


 「とても楽そうな顔ですわ」


 ヨハンナが刺繍の針を動かしながら言った。


 (楽そう。そうか、楽なのか。前回と何が違うのかといえば——帰る場所があるか、ないかだ。それだけで、こんなに違う)


 窓の外の景色が流れていく。


 王都が近づくにつれ、家が増え、道が広くなる。


 前回は、その変化が息苦しかった。


 今は——ただ、景色を眺めていられる。


 「前より——少し、慣れた」


 カイン様が、静かに言った。


 窓の外を見ながら。


 わたくしは隣を見た。


 表情は変わらない。でも、その横顔は——前回の旅よりも、確かに柔らかかった。


 「慣れましたか」


 「……まだ得意ではないが」


 「それで十分ですわ」


 カイン様が、わずかに口元を動かした。


 笑った、と言うほどではない。でも——笑おうとした、という感じはした。


 馬車は夕暮れの中を走り続けた。


 左手に指輪がある。


 ルーン石が夕陽を受けて、静かに光っていた。


 前回は、この指輪がなかった。


 それだけのことが——こんなに違う。


 王都の城壁が、遠くに見え始めた。


---


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