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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第4章「辺境の花嫁と永遠の約束」

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第100話「ヴァルトシュタイン邸にて」

第100話「ヴァルトシュタイン邸にて」


 ヴァルトシュタイン邸の門が見えたとき、少しだけ、胸が跳ねた。


 子供の頃から見てきた門だ。石造りの柱に、家紋の鷲が彫られている。幼い頃は、あの鷲が少し怖かった。睨んでいるように見えて。


 今は——ただの石だ。そう思える。


 (変わったのは門ではなく、わたくしの方だ)


 馬車が止まった。


 執事が出迎えに出てきた。後ろに控える侍女たちが、きっちり整列している。変わらない光景だ。


 降り立つと、エントランスに父の姿があった。


 ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン。


 白髪が以前より増えたかもしれない。それでも背筋は真っ直ぐで、立ち姿に揺るぎがない。


 父は、わたくしをじっと見た。


 「……大きくなったな」


 (お父様。わたくし、もう大きくなる歳ではありませんよ)


 「お父様、わたくしはもう大きくなる歳ではありません」


 「そうだな」


 父が、少し間を置いた。


 「——立派になった」


 それだけだった。


 飾りのない言葉だった。でも——ヴィルヘルム公爵が滅多に言わない種類の言葉だと、わたくしは知っていた。


 「ありがとうございます、お父様」


 父の視線がカイン様に移った。


 値踏みするのとも違う。ただ、静かに見ていた。


 「ドラクロワ辺境伯。よく来てくれた」


 「ご招待に感謝します」


 二人の間に、短い沈黙があった。


 男同士の、言葉のいらない種類の沈黙だ。


 それを破ったのは、廊下の奥から現れたクラウスだった。


 「エリナ!」


 兄は歩きながら手を上げた。ふだんの貴族らしい所作はどこへやら。


 「お兄様、お久しぶりです」


 「久しぶりって顔か? もっと心配して待ってたんだぞ、俺は」


 「手紙を何通もいただきましたわ」


 「手紙では足りないだろうが」


 (変わっていない。まったく変わっていない。これはこれで安心する)


 クラウスは言い募りながら、わたくしの隣のカイン様を見た。


 目が合った。


 少しの間、二人は無言で向き合っていた。


 クラウスが口を開いた。


 「……辺境伯。妹への『殺すのは保留』、まだ有効だからな」


 カイン様が、静かに答えた。


 「……ありがたい」


 真顔だった。


 感謝しているのか呆れているのか、どちらとも取れる声だった。


 (前世でも「上司のお世辞に対して適切な返し方」みたいな研修があったけれど、今のカイン様の返答は教科書に載せるべきレベルだ)


 クラウスが微妙な顔をした。


 「……そういう返し方をするやつだとは思ってたけど」


 「お兄様。カイン様は正直な方なので」


 「正直すぎるだろ……」


 父が軽く咳払いをした。


 「食事の前に部屋に案内しろ。ドラクロワ殿も、旅で疲れているだろう」


 執事が頭を下げて、廊下を先導し始めた。


 ヴァルトシュタイン邸の廊下を歩くのは、いつ以来だろう。


 石の床の感触。壁に掛かる先代の肖像画。子供の頃から変わらない場所だ。


 でも、今日は隣にカイン様がいる。


 (前回ここに来たとき、隣にいたのは緊張だけだった)


 夕食は、家族での食事だった。


 父と兄とカイン様と、ヨハンナはお茶だけ同席して別室で食べるという。


 食卓は静かだった。


 最初に口を開いたのは、クラウスだった。


 「辺境は、冬が長いんだろう。エリナ、ちゃんと食えてたか」


 「もちろんです。ゾフィの料理はとても豊かですよ」


 「ゾフィって誰だ」


 「城の料理長です。腕が立ちます」


 「……俺の妹の食事を管理してる人か」


 「管理というより、毎食わたくしが食べ過ぎないかを心配している、という方が正確ですわ」


 クラウスが笑った。


 「それは安心した。お前、放っておくと仕事に没頭して食事を抜くからな」


 「お兄様、それは昔の話です」


 「本当に?」


 答えに詰まった。


 カイン様が、横からひとこと言った。


 「……昼を忘れることはある」


 「やっぱりか!」


 クラウスが、今日初めてカイン様に向けて感謝の視線を送った。


 父が静かにワインを飲みながら、その様子を見ていた。


 何も言わなかった。でも、口の端が、わずかに上がっていた。


 (お父様が笑った。めったにない)


 食事が進むにつれ、会話は穏やかになった。


 婚約発表の段取り。招待客のこと。当日の式次第。


 父が言った。


 「テオドール陛下から、祝辞の書状をいただいた。明後日、式の前に届ける手はずになっている」


 国王からの祝辞。


 わたくしが最初に婚約破棄を言い渡されたのも、王の目の前だった。あの大広間で。


 あの場所で受けた言葉と、今回の国王からの書状。同じ王から出たものとは、とても思えない。


 (でも、これが現実だ)


 「ありがたいことです」


 静かに答えると、父が頷いた。


 「ドラクロワ殿の功績があってのことだ。辺境の守りは、王国にとって要だ」


 カイン様は何も言わなかった。


 ただ、真っ直ぐに前を見て、少しだけ頷いた。


 食事が終わった後、廊下を歩きながら、クラウスがわたくしの隣に来た。


 「エリナ」


 「何ですか」


 少し間があった。


 「……幸せそうだな」


 それだけだった。


 クラウスにしては、珍しく飾りのない言葉だった。


 「ええ」


 わたくしも、それだけ答えた。


 兄がまた前を向いて歩き出した。


 廊下の窓から、王都の夜景が見えた。


 灯りがたくさん揺れている。


 辺境の夜は、もっと暗い。星が多い。


 でも——どちらも、好きだ。


 明後日が、婚約発表の夜会だ。



---


 白いドレスを着た自分を鏡で見て、最初に思ったのは——本当に、この日が来たんだ、ということだった。


 婚約発表の夜会は、ヴァルトシュタイン邸の大広間で行われた。


 昼間のうちに、邸の中が一変した。花が飾られ、燭台に火が灯され、廊下に絨毯が敷かれた。執事たちが黙々と動いている様子は、子供の頃から見てきた光景だ。


 でも、その中心がわたくし自身だというのは、初めてのことだった。


 ヨハンナが仕上げの刺繍を施してくれたドレスの裾に、小さな鈴蘭の花がひとつ。


 精緻な白糸の刺繍が、生地の白に溶け込むように光っていた。


 「よく見ないとわかりませんが」とわたくしが言うと、ヨハンナは「わかる方にだけわかれば十分でございます」と答えた。


 招待客が集まり始めた。


 社交界の令嬢たちが、口々に声をかけてくる。


 「まあ、エリナ様! ご婚約のご報告、うれしゅうございました」


 「辺境伯様と、でしょう? 素敵ですこと。辺境はとても気高い方が多いと聞いています」


 「ドレスが美しいですわ。どなたがお作りになったのかしら」


 次々と言葉が飛んでくる。


 (前回の社交界では、この半分も声をかけてもらえなかった。手のひら返しといえばそうだが、悪意がある様子もない。ただ、わたくしの状況が変わった。それだけのことだ)


 愛想よく返しながら、わたくしはある程度の割り切りを持って対応した。


 恨みを抱いても得はない。縁を大切にできるうちは大切にした方がいい。


 ラウエン令嬢が近づいてきた。


 「エリナ様。本日は、心からお祝いを申し上げたくて参りました」


 手に、小さな花束を持っていた。辺境の野花に似た、白い小花だ。


 「ありがとうございます、ラウエン様」


 令嬢が少し顔を赤らめた。


 「以前は、失礼なことを申し上げたと思います。エリナ様のことを、もっとちゃんと見ておけばよかったと、今更ですが……」


 「過ぎたことは過ぎたこと。こうして来てくださったことで十分ですわ」


 令嬢が深く頭を下げた。


 (この人なりの誠意だ。受け取っておこう)


 広間の入口に、シュテファン殿下が姿を現した。


 夜会の衣装を纏った第一王子は、静かに室内を見渡してからこちらへ歩いてきた。


 「エリナ嬢。本日はおめでとう。そして——」


 殿下がカイン様に目を向けた。


 「辺境伯。妹君をよろしく頼む」


 「……承知した」


 カイン様の返答は短かった。でも、いつもより声が低くて、落ち着いていた。


 「父上から書状が届いていると思う。あれは本心だ。形式文書ではない」


 シュテファン殿下がわたくしに言った。


 「陛下が、辺境伯とあなたの婚約をこの上なく喜んでいます。それだけお伝えしたかった」


 (国王陛下が。直接の婚約破棄が行われたあの御前に、陛下もいらっしゃった。あの日から、すべてが変わった)


 「ありがとうございます、殿下」


 夜会が正式に始まった。


 父が壇上に立ち、婚約発表の言葉を述べた。


 ヴァルトシュタイン家とドラクロワ辺境伯家の、正式な婚約の発表。


 拍手が起きた。


 続いて、声が上がった。


 「辺境伯閣下、一言お願いしたします!」


 (誰だ、と思ったら、クラウス兄様だった)


 会場がざわめいた。


 司会の役を担っていた父が、眉をわずかに動かした。


 「——ドラクロワ。頼めるか」


 父がカイン様に目を向けた。


 カイン様は、少しの間、沈黙した。


 それから、壇上に上がった。


 広間が静まった。


 背が高く、正装をしたカイン様は——威圧的に見えるはずなのに、今夜は何かが違った。


 少し、緊張しているのだ。


 その耳が、微かに赤みを帯びているのを、わたくしは見つけた。


 カイン様が口を開いた。


 「……エリナは」


 一拍あった。


 「俺の隣にいる。それだけだ」


 沈黙が降りた。


 (短い。短すぎる。でも——あの人が一番大事なことを、一番正確に言った)


 一秒、二秒と経った。


 拍手が起きた。


 最初は戸惑いを含んだような、控えめな音だったが、それが広がっていくと笑い声も混じりはじめた。嘲りではなく、愛おしさのような温度を持った笑いだった。


 「なんて短い!」


 「でも素敵ですわ!」


 令嬢たちが囁き合っている。


 カイン様が壇上から降りてきて、わたくしの隣に戻った。


 「……短すぎましたか」


 声が、わずかに低かった。


 「いいえ。完璧でしたわ」


 カイン様は何も言わなかった。


 でも、前を向いたままの横顔が——少しだけ、ほっとしているように見えた。


 (あの人のスピーチを、前世のプレゼン評価の基準で考えてしまった。でも、前世の「情報量が多いほどいいスピーチ」という考えは、この場には関係ない。必要なことだけを、正確に。それがカイン様の言葉だ)


 夜会は続いた。


 食事が出て、音楽が奏でられて、人々が語らう。


 シュテファン殿下から、テオドール国王の書状が正式に手渡された。


 重厚な封蝋。中を見ると、端正な文字で短く綴られていた。


 『辺境伯ドラクロワと、ヴァルトシュタイン令嬢の婚約を、王国としてここに祝する。二人の幸福と、辺境の益を願う。——テオドール』


 (あの日の大広間にいた王が、今日こういう書状を書いている)


 感慨というよりも、何かが静かに終わった感覚があった。


 「どうした」


 カイン様が、低く尋ねた。


 「何でもありません。——ただ、遠いところまで来たんだな、と思って」


 カイン様が少し考えるように間を置いた。


 「……一緒に来た」


 そう言った。


 夜会の喧噪が、遠くに聞こえた。


 灯りがたくさん揺れていた。


 婚約発表の夜が、静かに深まっていった。


---


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