第100話「ヴァルトシュタイン邸にて」
第100話「ヴァルトシュタイン邸にて」
ヴァルトシュタイン邸の門が見えたとき、少しだけ、胸が跳ねた。
子供の頃から見てきた門だ。石造りの柱に、家紋の鷲が彫られている。幼い頃は、あの鷲が少し怖かった。睨んでいるように見えて。
今は——ただの石だ。そう思える。
(変わったのは門ではなく、わたくしの方だ)
馬車が止まった。
執事が出迎えに出てきた。後ろに控える侍女たちが、きっちり整列している。変わらない光景だ。
降り立つと、エントランスに父の姿があった。
ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン。
白髪が以前より増えたかもしれない。それでも背筋は真っ直ぐで、立ち姿に揺るぎがない。
父は、わたくしをじっと見た。
「……大きくなったな」
(お父様。わたくし、もう大きくなる歳ではありませんよ)
「お父様、わたくしはもう大きくなる歳ではありません」
「そうだな」
父が、少し間を置いた。
「——立派になった」
それだけだった。
飾りのない言葉だった。でも——ヴィルヘルム公爵が滅多に言わない種類の言葉だと、わたくしは知っていた。
「ありがとうございます、お父様」
父の視線がカイン様に移った。
値踏みするのとも違う。ただ、静かに見ていた。
「ドラクロワ辺境伯。よく来てくれた」
「ご招待に感謝します」
二人の間に、短い沈黙があった。
男同士の、言葉のいらない種類の沈黙だ。
それを破ったのは、廊下の奥から現れたクラウスだった。
「エリナ!」
兄は歩きながら手を上げた。ふだんの貴族らしい所作はどこへやら。
「お兄様、お久しぶりです」
「久しぶりって顔か? もっと心配して待ってたんだぞ、俺は」
「手紙を何通もいただきましたわ」
「手紙では足りないだろうが」
(変わっていない。まったく変わっていない。これはこれで安心する)
クラウスは言い募りながら、わたくしの隣のカイン様を見た。
目が合った。
少しの間、二人は無言で向き合っていた。
クラウスが口を開いた。
「……辺境伯。妹への『殺すのは保留』、まだ有効だからな」
カイン様が、静かに答えた。
「……ありがたい」
真顔だった。
感謝しているのか呆れているのか、どちらとも取れる声だった。
(前世でも「上司のお世辞に対して適切な返し方」みたいな研修があったけれど、今のカイン様の返答は教科書に載せるべきレベルだ)
クラウスが微妙な顔をした。
「……そういう返し方をするやつだとは思ってたけど」
「お兄様。カイン様は正直な方なので」
「正直すぎるだろ……」
父が軽く咳払いをした。
「食事の前に部屋に案内しろ。ドラクロワ殿も、旅で疲れているだろう」
執事が頭を下げて、廊下を先導し始めた。
ヴァルトシュタイン邸の廊下を歩くのは、いつ以来だろう。
石の床の感触。壁に掛かる先代の肖像画。子供の頃から変わらない場所だ。
でも、今日は隣にカイン様がいる。
(前回ここに来たとき、隣にいたのは緊張だけだった)
夕食は、家族での食事だった。
父と兄とカイン様と、ヨハンナはお茶だけ同席して別室で食べるという。
食卓は静かだった。
最初に口を開いたのは、クラウスだった。
「辺境は、冬が長いんだろう。エリナ、ちゃんと食えてたか」
「もちろんです。ゾフィの料理はとても豊かですよ」
「ゾフィって誰だ」
「城の料理長です。腕が立ちます」
「……俺の妹の食事を管理してる人か」
「管理というより、毎食わたくしが食べ過ぎないかを心配している、という方が正確ですわ」
クラウスが笑った。
「それは安心した。お前、放っておくと仕事に没頭して食事を抜くからな」
「お兄様、それは昔の話です」
「本当に?」
答えに詰まった。
カイン様が、横からひとこと言った。
「……昼を忘れることはある」
「やっぱりか!」
クラウスが、今日初めてカイン様に向けて感謝の視線を送った。
父が静かにワインを飲みながら、その様子を見ていた。
何も言わなかった。でも、口の端が、わずかに上がっていた。
(お父様が笑った。めったにない)
食事が進むにつれ、会話は穏やかになった。
婚約発表の段取り。招待客のこと。当日の式次第。
父が言った。
「テオドール陛下から、祝辞の書状をいただいた。明後日、式の前に届ける手はずになっている」
国王からの祝辞。
わたくしが最初に婚約破棄を言い渡されたのも、王の目の前だった。あの大広間で。
あの場所で受けた言葉と、今回の国王からの書状。同じ王から出たものとは、とても思えない。
(でも、これが現実だ)
「ありがたいことです」
静かに答えると、父が頷いた。
「ドラクロワ殿の功績があってのことだ。辺境の守りは、王国にとって要だ」
カイン様は何も言わなかった。
ただ、真っ直ぐに前を見て、少しだけ頷いた。
食事が終わった後、廊下を歩きながら、クラウスがわたくしの隣に来た。
「エリナ」
「何ですか」
少し間があった。
「……幸せそうだな」
それだけだった。
クラウスにしては、珍しく飾りのない言葉だった。
「ええ」
わたくしも、それだけ答えた。
兄がまた前を向いて歩き出した。
廊下の窓から、王都の夜景が見えた。
灯りがたくさん揺れている。
辺境の夜は、もっと暗い。星が多い。
でも——どちらも、好きだ。
明後日が、婚約発表の夜会だ。
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白いドレスを着た自分を鏡で見て、最初に思ったのは——本当に、この日が来たんだ、ということだった。
婚約発表の夜会は、ヴァルトシュタイン邸の大広間で行われた。
昼間のうちに、邸の中が一変した。花が飾られ、燭台に火が灯され、廊下に絨毯が敷かれた。執事たちが黙々と動いている様子は、子供の頃から見てきた光景だ。
でも、その中心がわたくし自身だというのは、初めてのことだった。
ヨハンナが仕上げの刺繍を施してくれたドレスの裾に、小さな鈴蘭の花がひとつ。
精緻な白糸の刺繍が、生地の白に溶け込むように光っていた。
「よく見ないとわかりませんが」とわたくしが言うと、ヨハンナは「わかる方にだけわかれば十分でございます」と答えた。
招待客が集まり始めた。
社交界の令嬢たちが、口々に声をかけてくる。
「まあ、エリナ様! ご婚約のご報告、うれしゅうございました」
「辺境伯様と、でしょう? 素敵ですこと。辺境はとても気高い方が多いと聞いています」
「ドレスが美しいですわ。どなたがお作りになったのかしら」
次々と言葉が飛んでくる。
(前回の社交界では、この半分も声をかけてもらえなかった。手のひら返しといえばそうだが、悪意がある様子もない。ただ、わたくしの状況が変わった。それだけのことだ)
愛想よく返しながら、わたくしはある程度の割り切りを持って対応した。
恨みを抱いても得はない。縁を大切にできるうちは大切にした方がいい。
ラウエン令嬢が近づいてきた。
「エリナ様。本日は、心からお祝いを申し上げたくて参りました」
手に、小さな花束を持っていた。辺境の野花に似た、白い小花だ。
「ありがとうございます、ラウエン様」
令嬢が少し顔を赤らめた。
「以前は、失礼なことを申し上げたと思います。エリナ様のことを、もっとちゃんと見ておけばよかったと、今更ですが……」
「過ぎたことは過ぎたこと。こうして来てくださったことで十分ですわ」
令嬢が深く頭を下げた。
(この人なりの誠意だ。受け取っておこう)
広間の入口に、シュテファン殿下が姿を現した。
夜会の衣装を纏った第一王子は、静かに室内を見渡してからこちらへ歩いてきた。
「エリナ嬢。本日はおめでとう。そして——」
殿下がカイン様に目を向けた。
「辺境伯。妹君をよろしく頼む」
「……承知した」
カイン様の返答は短かった。でも、いつもより声が低くて、落ち着いていた。
「父上から書状が届いていると思う。あれは本心だ。形式文書ではない」
シュテファン殿下がわたくしに言った。
「陛下が、辺境伯とあなたの婚約をこの上なく喜んでいます。それだけお伝えしたかった」
(国王陛下が。直接の婚約破棄が行われたあの御前に、陛下もいらっしゃった。あの日から、すべてが変わった)
「ありがとうございます、殿下」
夜会が正式に始まった。
父が壇上に立ち、婚約発表の言葉を述べた。
ヴァルトシュタイン家とドラクロワ辺境伯家の、正式な婚約の発表。
拍手が起きた。
続いて、声が上がった。
「辺境伯閣下、一言お願いしたします!」
(誰だ、と思ったら、クラウス兄様だった)
会場がざわめいた。
司会の役を担っていた父が、眉をわずかに動かした。
「——ドラクロワ。頼めるか」
父がカイン様に目を向けた。
カイン様は、少しの間、沈黙した。
それから、壇上に上がった。
広間が静まった。
背が高く、正装をしたカイン様は——威圧的に見えるはずなのに、今夜は何かが違った。
少し、緊張しているのだ。
その耳が、微かに赤みを帯びているのを、わたくしは見つけた。
カイン様が口を開いた。
「……エリナは」
一拍あった。
「俺の隣にいる。それだけだ」
沈黙が降りた。
(短い。短すぎる。でも——あの人が一番大事なことを、一番正確に言った)
一秒、二秒と経った。
拍手が起きた。
最初は戸惑いを含んだような、控えめな音だったが、それが広がっていくと笑い声も混じりはじめた。嘲りではなく、愛おしさのような温度を持った笑いだった。
「なんて短い!」
「でも素敵ですわ!」
令嬢たちが囁き合っている。
カイン様が壇上から降りてきて、わたくしの隣に戻った。
「……短すぎましたか」
声が、わずかに低かった。
「いいえ。完璧でしたわ」
カイン様は何も言わなかった。
でも、前を向いたままの横顔が——少しだけ、ほっとしているように見えた。
(あの人のスピーチを、前世のプレゼン評価の基準で考えてしまった。でも、前世の「情報量が多いほどいいスピーチ」という考えは、この場には関係ない。必要なことだけを、正確に。それがカイン様の言葉だ)
夜会は続いた。
食事が出て、音楽が奏でられて、人々が語らう。
シュテファン殿下から、テオドール国王の書状が正式に手渡された。
重厚な封蝋。中を見ると、端正な文字で短く綴られていた。
『辺境伯ドラクロワと、ヴァルトシュタイン令嬢の婚約を、王国としてここに祝する。二人の幸福と、辺境の益を願う。——テオドール』
(あの日の大広間にいた王が、今日こういう書状を書いている)
感慨というよりも、何かが静かに終わった感覚があった。
「どうした」
カイン様が、低く尋ねた。
「何でもありません。——ただ、遠いところまで来たんだな、と思って」
カイン様が少し考えるように間を置いた。
「……一緒に来た」
そう言った。
夜会の喧噪が、遠くに聞こえた。
灯りがたくさん揺れていた。
婚約発表の夜が、静かに深まっていった。
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